第参幕 四

 通路は少しずつ傾き始め、下り坂になっていた。壁に綴られている告白は延々と続いていた。僕はそれを見ないようにした。まるで、鏡の中にいる自分を覗き込んでいるような気分になるからだ。

 一体、どこからどこまで書かれているのだろうか。一分の隙も残さず全てなのか。そうしたら、あんなことや、こんなことも、書かれているのか。思い至る節はかなりある。

 屋敷の地下に張り巡らされた通路を歩いているうちに、ひとり、いや、一匹ずつ狐の数が増えていった。目を逸らし、一瞬だけ頭に浮かんだ考えごとを整理しようとすると、べべんと音がする。仮面を被りし子狐たちが柔らかな地面を押し上げるタケノコのように、にょっきりと生えてきて、金と銀の背後に列を作ってゆく。

「こんにちは、妖頭芭蕉様」

「ご機嫌麗しゅう」

 別れ道や枝道はなかった。それが、僕の意識が一瞬逸れただけで、現れる狐。一体どういうことなのだ。

「酒之助、世の中は不思議なことだらけよ」僕の困惑ぶりを感じ取ったのか、先頭を行く銀狐が声を張り上げる。

「多くの人間は科学を信仰しており、不思議なことは全て科学で説明がつくと豪語しているけど、実際はね、何もわかっちゃいないの」金狐の小馬鹿にしたような声が続く。

「科学を使って証明できる現象って限られているのよ。重力が邪魔だし、空気が妨害する、太陽光も貧弱だから話にならない。本当の科学はね、地球を囲む宇宙の外側で大々的に行われているのよ。つまり、あたしたちはそんな科学の末端ってわけ」銀狐はそう言うとピタリと立ち止まった。

 金狐は照明のひとつを手に取ると、それを壁のほうに押し当てた。

 赤い文字が鮮明に浮かび上がる。

 僕の悪事がひとつ、白日の下に晒される。

『満ちていく煙の中でも、僕は意外と冷静でいられた。大丈夫、単なる炭酸ガスだ。少しは呼吸が苦しくなるが、生きていくのには支障がない。今の人生はなんとなく退屈だった。酒類取締官という正義は執行すると、脳みその断片が焦げつくほどの興奮を感じるが、それは例外的な業務であり、勤務時間の大部分は意味があるのか分からない書類づくりや、全く興味が持てない決裁文書に判を押すことに費やされる。僕は何をやっているのだろう。おやじを殺してまで処断した正義の執行。その末路がこれでは、おやじも浮かばれないではないか。僕は消えようとする金と銀を捕まえて、一言か二言、会話をした。それだけで充分だった。そうして、僕は妖頭芭蕉になった』

「仮面の告白には美しさが足りないわね」金狐があごに手をやって唸った。

「金狐も、銀狐も、あのスピークイジーにいたのに、ほとんど書かれていないわ」雅な音楽に合わせて「ぎんぎんぎぎんぎんぎんぎん」銀狐が唄う。

「書き直したほうがいいんじゃないの」金狐はベラドンナをひとつ手に取った。人差し指と親指は目がちかちかしそうなほど真っ赤に腫れ上がっている。狐はそれをカクテルのようにシェイクした。

 すると、円いベラドンナはみょーんと長く伸びた。目を擦った。先端にはふっさ、ふっさ、毛が生え揃う。

 筆か?

「そうね。どんな風に書き直したらいいかしら」銀狐は筆の形を成したベラドンナを金狐から受け取ると、しゅっしゅと宙になんらかの文字を描いた。

「酒之助がいるから考えてもらいましょうよ」

「文筆はお好き? 言葉は知っているかしら?」

「銀狐。酒之助は大学を出ているのよ」

「木の葉大学じゃなくて? どろんとすれば消えてしまうような学歴に意味なんてあるの?」うっしし、銀狐が下品な笑い声を漏らす。

「凹凸大学卒業だ。馬鹿にするのも大概にしろよ」官僚を何人も輩出した有名大学の名前を口にした。その名前に泥を塗るように狐たちが演奏をやめて一斉に笑い転げた。

「それは大学がすごいのであって、酒之助がすごいんじゃないわよ」

「酒之助はぎりぎり卒業だったでしょう。単位を落としすぎて、教授に頭を下げたわよね。まあ、お酒の飲み過ぎが原因だけど。アルコールのせいで、アルコールの化学式すら分からなくなる。お粗末だわ」

 ぐうの音も出なかった。

 知りすぎている。

 まるで、僕の脳みそに触手を突き刺し、ちゅるちゅると髄を吸い出しているかのようではないか。

「それも、妖頭會の歴史よぉ。すべて、ここに書かれている。これまでのことも、これからのことも」

「これからのこと?」

「そうよ。未来だって、ここに書かれているの。この延々たる狐たちの行進の先に何が待ち受けているか、その答えが書かれているわ」銀狐は筆の先っぽを続く通路の先へと差し向ける。

「筆をよこせ」

「あら、これはベラドンナの筆よ。握ったものの皮膚に牙を剥くわよ」

「いいから貸せ。書き換えてやる」

 僕は銀狐から筆をむしり取った。

 痛みが手首の付け根に走る。指先を緩めて、筆を振り落とそうとした。

 しかし、筆は掌に貼り付いてしまったかのように、離れる気配を見せない。腕が動く、自分の意思ではない。抗おうとすると、腕は俄然やる気をもって、筆を壁に近づける。

 筆の先から液体が飛び散る、びしゃっと跳ねたそれは、ほの暗い赤であった。爪の先から深々と冷たさがこみ上げてくる。僕は今になって、壁を飾っている文字がどんなインキを用いて書かれているかに気づいた。

 血じゃないか。

 健康的なさらさらとしたものではなく、

 不健康な概念をねじ込んだかのような、どす黒いアカ。

 僕の血かどうかは分からない。が、巻き付くような腕の感触からは搾り取られているような感じがする。

「死んじゃうわよ」金狐は言った。

「体内の血は有限だからね。急がないと」銀狐は言った。

 自分の生きてきた証しを、これから生きるであろう軌跡を、どうやって直したらいいだろうか。満ち足りた、幸せな人生がいい。悪事に手を染めず、殺しもやらずに、穏やかに過ごしたい。

 そういう願望があるにはある。

 だが、僕の目に見える悪の部分を書き換えた場合、それは他の僕にどういった影響があるのだろうか。悪が消えてしまうことで、僕の存在そのものが抹消されてしまうことだってあり得る。

 死にたくない、

 消えたくない、

 まだ、生きることにしがみ付いていたかった。

 血が滴る筆を壁にべたりと塗りつけた。

 飄々とした狐の足跡みたいに、赤い点がひとつ壁に現れた。しゅっとベラドンナの筆は音を立てて、壁の中に吸い込まれていった。

 まるで、それを待っていたかのように、かちりと錠前が外れる音が聞こえた。文字の書かれた壁がくるりと回転する。

 からら。

 枝で肋骨を打ち付けたような音がした。壁の回転に合わせて、出現した隙間に僕は体を押し込んだ。それは血文字で書かれた僕の歴史に潜り込んでいるようだった。

 向こう側は真っ暗だった。装置が何も置かれていない舞台のよう。瞳が慣れてくれば見えるはずだ。僕は瞬きを繰り返した。掌で目を擦ってみる。

 視界は一向に晴れとはならない。眼球に痛みが走る。ベラドンナの筆を握った手で顔に手をやってしまった。足音がしない、なんとかウイルスがもぞもぞと体に侵入しているような気がした。

 あれ、拳銃はどこにやったっけ。

「銃口を目線の先まで持ってきて」ピエールに口を酸っぱくして忠告をしている茜の言葉が脳裏をよぎる。この場にいたら、ガチョウみたいに喧しく騒いでいるだろう。

「薬物中毒者は必死なのよ。銃を奪って、撃ってくるかもしれない。だから、細心の注意を払って、銃把を握りなさい」こんなふうにドヤ顔で説教を食らわすに違いない。

 ぽわっと白いLEDライトが暗闇に筋を作る。

 助かった。そこにあったのかと、安堵したのは一瞬だけだった。誰かがそれを握っているのだ。金か、銀か、と思わず構えたが、なんのことはない。あの三味線を握って、必死に恐怖を演出している童女であった。

「子どもが触っていいものじゃない。返しなさい」僕は務めて、親しみが持てるように意識をして声を発した。

 童女はなかなか賢い子どものようであった。僕の言葉に従い、ペンライトの白い光源をこちらに伸ばす。それでいい。落としたところを拾ってくれたのだろう。良い子ではないか。お菓子のひとつでもあれば与えたいが、あいにく、酒しか持ち合わせがない。飲酒にはまだ早いお年頃のはずだ。

 しゃがみ込んで、両手を伸ばすと、童女の小さな人差し指が動くのが見えた。ばっつと発砲音が迸った。僕は横っ飛びに体を投げ出した。危なかった。ぶうんと耳たぶのすぐそばを弾丸が通過するのが分かった。

 こいつ、撃ちやがった!

 肉の縁を溶かすような、熱と痛みが混ざった風が頬の辺りを包み込んだ。

 餓鬼に殺される。

 僕の人生が名前も分からぬ、端役に消されるというのか。

 僕は掌をピンと反らせた。爪の先までびっちりと力を込める。

 それは半分ほどの怒りと、

 半分ほどの怯えが混ざった、

 暴力装置であった。

 銃を撃った反動で、背後によろめく童女に狙いを定める。手加減はしない。大人は怒ったら怖いということを分からせてやる! が、掌が童女まで届くことはなかった。あろうことか、童女は、体勢を崩したまま再び引き金に手をかけている。

 足の裏に力を入れて、前進気勢を殺す。

 たっと跳ねて、距離を取る。

 剣道のスリ足を思い出せ! 

 死ぬぞ、相埜谷酒之助。

 あの、狐。

 子どもの動きじゃない。

 銃の扱いを分かっている手練れ。

 稚拙な仮面の下には大人びた顔があるのかもしれない。

 オヌシ、ナニモノ。

 ぽっ、ぽっ、ぽっ、と火が入った。

 未完成のパズルのように、規則性のない順番で、部屋の全体像が浮かび上がる。壁にはびっしりと狐の面がかかっていた。面と面の隙間を埋めるようにして、また面があるので、本来の壁がどんな材質をしているのか分からない。不気味なことに、面はどれもこれも同じ顔をしていなかった。人間の顔のように、美しくない個性があった。機械を使って、大量生産で作り出したものではない。ひとつ、ひとつ、手作業で違いを表す、精緻なつくりをしていた。

 面を見ながら、上の方へ顔を伸ばすと、天井には酒瓶がぶら下がっていた。風もないのに、カタカタと音を鳴らしながら、振り子のように揺れている。瓶底のぼつぼつは鳥肌を催す蓮の花のように見えた。

 床は畳であった。

 毛羽立ちのない、真新しいもので、い草の柔らかさを靴底で感じる。畳にも幾つか狐の面が落ちているが、歩けないほど降り積もっているわけではない。

 中央には和室には不似合いなテーブルが置かれていた。脚の部分が黒い台座で覆われているポーカーテーブルである。表面は毛足を揃えたグリーンのマットになっており、四隅にはデフォルメ化された狐のキャラクターが刺繍されている。

 狐は茜色の着物を羽織っていた。

「可愛いでしょ、それ。金狐が縫ったのよ」銀狐の得意そうな声が聞こえた。

「あんたが得意になってどうするのよ」金狐がぴしゃりと銀狐の後頭部を叩く。

「金狐の成果は、銀狐の成果でもあるのだわ」むふんと銀狐が胸を張った。

「強欲ね。そういうところを直したほうがいいわ。だから、男に逃げられるのよ」

「あらーん。酒之助は逃がさないわよ」

「ロックオンってこと? 酒之助がどう振る舞うか見物だわ」

「さあ、どうぞ。茜ちゃーんを返してほしいんでしょ」

 金狐に誘われて、ふらふらと部屋の中央に歩み出る。童女の様子が気になった。再び、襲いかかってくるのではないだろうか。

「殺されないかどうか気になるの? 大丈夫よ、ちゃんと言っておくから」

 銀狐はそう言うと、部屋の隅で立ち尽くしている童女に近寄る。三味線は畳の上に投げ出され、体躯の大きさと比較すると、不釣り合いなほどに大きい拳銃を握りしめて、両肩を大きく上下させている。銀狐はしゃがみ込んで、体を小さくさせてから、何事か呟いた。すると、童女はすんなりと拳銃を銀狐に渡した。それから、畳の上に投げ出された三味線を拾い上げて、ぽろろんと弾き始めた。

 拳銃を手にした銀狐が銃身を観察しながら戻ってくる。

「へえ、良い拳銃を使っているのね」面越しにぎらんとした眼力を感じた。

「銃口をこちらに向けるんじゃねえぞ」

「向けないわよ。あたしは刀剣って知っているでしょう? 後で、手合わせしてあげてもいいわよ」

「やっぱり、僕を殺そうっていうのか」

「妖頭會として邪魔になったときにね」

「でも、僕は妖頭芭蕉なのだろう。絶対的権力者じゃないのか?」

 僕の問いかけに銀狐は面倒くさそうに掌を振った。

 そして、拳銃を返してくる。

「質問ばっかりで嫌ね。それくらい、自分で考えなさいよ。そのために、その無能な頭脳があるんじゃなくて?」

「……」拳銃をホルスターに戻し、僕はポーカーテーブルの前に腰掛けた。

「さあ、ささ」金狐は手を鳴らしながら言った。

 すると、壁に掛かっていた狐の面がばらばらと幾つか畳の上に落ちた。

「アハハハ、遊びの用意よ」銀狐が口を掌で囲って言った。

 畳に降り積もった狐の面は動く。

 ぷくりと風船のように膨れて、頭が作られ、首が生えて、手足がにょっと横に伸びる。固い種の殻をうち破り、双葉を大きく広げようとしている植物のように子狐たちは形成されていく。

 それだけではない、僕が入ってきたカラクリ仕掛けの壁が何度もひっくり返って、さらなる子狐たちが入ってきた。

 わらわら、

 ざわざわ、

 個性を被った無個性な群衆は増殖していく。

「見物人よ。酒之助ってずるいから、どこかでイカサマをしそうじゃない。それを見破るためにね、連れてきたのよ」

「僕がイカサマだって? そんな不誠実なことをするはずがないだろう」

「表では酒を取り締まる酒類取締官で、裏では酒をつくり、流通させる妖頭芭蕉。あら、誠実さってどこにあるのかしらね」銀狐は楽しそうに頭をふるふると左右に振りながら言った。

 早速、対面に腰掛けた金狐がほっそりとした指先を節足動物の足のように動かして、トランプを取り出し、箱の包みをむき始める。まるで、下着を脱がすように、ゆっくりと優しく、透明なびろびろが宙におどる。

「新品のトランプでやるのか。もったいない」

「あら、けちんぼうなのね。じゃあ、古いトランプでやる? 手垢がついて、傷がつき、煙草の煙で燻された趣深い厚紙をばららと並べて、賭けごとでもやるの?」困った子ぉねと、仮面の狭間から見える唇が半球を描いて、表情を示す。

「そうしたら、金狐が圧倒的に有利じゃないか」

「そうよ。全て、意図して、トランプに傷をつけているからね。ふふふ、ギャンブルってそういうものじゃないの?」

「イカサマはしないって約束だろ」

「あら、誰も約束はしていないわ。イカサマはしてもいいけど、バレないようにやるならいいんじゃない」金狐は居並ぶギャラリーを眺めながら言った。

「ずるいだろう。どうせ、この狐たちは僕のイカサマには喧しく言うけれど、金狐のイカサマにはだんまりなんだろう?」

「よく分かっているじゃない。酒之助も連れてきていいわよ。ギャラリィ」

「ここから一人で地上に出られる自信がねえよ」それに、僕には庇ってくれそうなともだちがいない。なんせ、僕はぼっち。

「そりゃあ、そうでしょうね。地上に出られずに、迷って餓死してしまった、可哀想な子狐もいるくらいだもの」

「そんな狐の死体は地上に引っ張って、道路に転がしておくのだわ。するとね、妖頭會が犯した殺人の一種として処理されるの」ぎゃりりと甲高い金属音が鳴った。

 視線をやると、銀狐は腰に差していた扇子を抜き放っていた。それは瞬く間にみょーんと長く伸びて、鈍く光り輝く三日月のような日本刀へと様変わりをした。

 物騒な業物がひとつ、空間を穿つ。

 慌てて、僕は右腰に吊っている拳銃に手を伸ばす。

 もう、どんなことが起きても驚かない。

「妖頭會が絡んで起きた殺しは全て妖頭芭蕉が手を下したと思われているんだぜ。つまりは、妖頭芭蕉である、僕が殺したということになる。その餓死した狐の罪まで押しつけられちゃ敵わないんだが」

「あのね、どんな事業でもゴミは出るものよ。廃棄物となった場合、それは迅速に現場から排除されなければならないわ。おまけに、自然死を装うって大変なの。色々と細工が必要だし、時間がかかる。だから、一緒くたに纏めて、芭蕉様に殺されましたってしておくほうが合理的じゃない」銀狐は上半身をしなやかに反らせ、刀身を下段に構える。よく鍛錬された、俊敏な動き。

「納得できねえな。なあ、妖頭芭蕉って僕だけなのか? 他にも指示を出しているやつがいるんじゃないか?」

 僕の質問に銀狐は日本刀を下段に構えたまま動かなくなり、金狐はトランプの箱をくるりと掌で弄んでいる。

「へへえ、面白い推論ね。銀狐はどう思うかしら」

「戯けた妄言だわ。妖頭芭蕉は分身術でも使えるわけ?」にんにんと銀狐は口ずさむ。

「なんでもありだろう。現にお前らみたいに、姿を消せる狐がいるんだ」

 米軍に囲まれたときも、

 スピークイジーで追い詰められたときも、

 彼女たちは消えてしまったのだ。

「あらん。あのトリックは酒之助が一番よく知っているじゃない」

「そうよ、あれは酒之助の意思で動いたのよ」

 ぼつっと空気の塊をひとつ吐いた。記憶が炭酸水の泡のように強烈に浮上してくる。掌で掴もうとしても、いくつも分裂をしてしまう。

「ポーカーで酒之助が勝ったら、全て話すことにしましょう」

「茜ちゃんも返してくれるんだろうな」

「どうかしら? それは酒之助が勝ってみてからでないと分からないわね」

「もう死んでいるかもしれないしね」ぱしゅっと空気を切る音が聞こえて、銀狐の斬撃が空気を刻む。

「殺したのか?」青ざめる。茜ちゃんが殺されたのなら、ここまで乗り込んできた意味がないじゃないか。

「嘘よ。元気よく跳ね回っているわ。ぴょんぴょんって兎みたいに」べんべんべべんと三味線がテンポの良いリズムに変わった。

「くそったれ」僕は口汚く罵ったが、金狐は全く気にする素振りを見せず、トランプのふたをべろりとめくった。

 トランプが、んめにゅっと姿を現し、ジョーカーを二枚抜き取る。両手で焼く前のパン種を揉み込むようにして、かしゅっとトランプをシャッフルしていく。充分にカードがばらけたところで、僕にカードが渡る。

「存分に混ぜて。不正の余地が入り込まないほど、正義の手でシャッフルするといいわ」

「正義の手は酒に塗れて、震えております。確実に物を掴むのは難しいのです」

「銀狐はゲームに参加しないんだろう、黙っていてくれないかな」

「ほほーん。あたしのおしゃべりな口を塞ぎたいのなら、テメエの唇でも持ってくればいいわ。がさつで、ねじ伏せるような、キッスはお好きでしょう」

「あらやだ、銀狐にはそんな接吻をしているの? わたしにはもっと、フレンチじゃない。小鳥が餌を啄むような口づけを、きつつきのようにやるでしょう」

 僕のキス事情が次々と暴露される。

 どんな口吸いをしてもいいじゃないか。場の雰囲気と、降り積もった愛の地層は模様が全然違うのだ。それは明確に区別されるだろう。

「でも、酒之助は偉いわ。だって、あたしたちってそっくりじゃない」

「そうね、すっぴんになれば多少は見分けがつくかもしれないけど、化粧が剥げた姿を酒之助に見せるわけにはいかないもの」

「金狐と、銀狐という個性がしっかりと二分されていると分かったら、愛の姿を変えたわよね。あたしたちもね、面を被った酒之助が二人いるような気がするのよ」

「嬉しいわね。酒之助、好きよ」

「百番目くらいには」ふふんとガールズたちの笑いは止まらない。

 僕は掌で弄ぶような雑なシャッフルだけではなく、トランプをポーカーマットの上に広げて、両手を滑らせて、しっかりと混ぜ込んだ。

「念を入れるのね。まあ、どんなに公正を気取ったとしても、わたしの勝ちは揺るがないわ」

 散らばったカードの耳を揃え、山札を構成する。

 僕は用心を重ねて、カードの厚みを指先で感じる。

 変に薄かったり、

 透き通っていたり、

 不審な凸凹があることはない。

「そろそろゲームを始めてもいいかしら」

「ああ、準備はできた」

 僕はリュックサックから酒を引っ張りだした。

 梱包していた箱を解体し、酒瓶のくびれた部分をむんずと掴む。それはもう売られてはおらず、闇の世界でも手に入れることは不可能だ。

「こいつだ!」

 朱く、濃い琥珀色。練り込んだ絵の具でどんな調合を施しても、その色合いを生み出すことは難しい。なぜなら、それには途方もない年月が注がれている。人生、五十年と扇子を持って舞った著名な戦国武将のように凜々しく、勇ましく、底から縁まで、空気が触れることなく密封が継続されている。

「わぁ、おしっこが漏れそうだわ」金狐の興奮した声が響く。

「失禁かい? まあ、この酒はそれに値する価値を持つからな」

 サントリー、シングルモルツウイスキー、『山崎五十年』。クリスタル製のボトルに吹き付けられたサンドブラストで、白く雪のような『山崎』の筆文字が刻印されている。口部にはその香りを呪術で封印するかのように、和紙で包まれており、紅い組み紐が結わかれている。味は想像できないが、口にした者の記録によると、香木の伽羅を思わせるような風味が鼻の受容体に吸着し、駄々っ子のように離れないらしい。口当たりは力強さとまろやかさが同居しており、飲酒者の気分によって自在に変化するという。

「開封しないの? 呑んでみたいわ」

「冗談じゃない。山崎に失礼だろう。これは日本産のオーク、ミズナラが磨いた宝石なんだ。麗しき、結晶体だよ。呑むなんて、無粋、笑止千万」

「あら、それを食らうのがいいんじゃないの。がぶり、ごぶりと、喉を鳴らす。不様に呑み散らかし、蹂躙する」

「何を言っているんだ。このクリスタルボトルの曲線を扱きながら、安酒を飲んで、悦に浸るのがいいんじゃないか。呑んだら山崎の息の根は止まってしまう。でも、呑まずに感触だけをつまみにしていれば、永遠に僕は山崎の裾野に口づけをできる」

「出た、酒之助の情熱的なキッス」銀狐が刀を振り回し、はっはっと息を荒らげて、茶々を入れる。

「貧乏人ね。そういう、意味不明な執着があるから、酒之助に全てを話せないのだわ」

「今日は、茜ちゃんを救うために全力で闘わせてもらう」

「そうねえ、酒之助が山崎を出してくるのならば、こちらも出さないわけにはいかないわね」

「何にしようかしらん」そう言うと、金狐は銀狐のほうに顔を向けて、「ちょっと、あれを取ってくれるかしら」と言う。

「あら、あれって、あれのことかしら」

「こんこんこん。そうよ、銀狐。伝家の宝刀を抜き放つのだわ」

「わふう、放蕩ね。まるで、あたしたちを体現する言葉だわ」

 銀狐は刀を置いて、蜘蛛のように畳にへばり付くと、ぺろんとそれを裏返しにした。腕が畳の裏側に隠されていた空間に伸びる。

「良い塩梅に涼しく、快適。それをあたしたち狐が踏んづけている」

「こんこん、そういうことだわ」

 銀狐が手にした酒瓶を見て、僕は目玉をひん剥いた。視神経が肉を食い破って外に出たがるような蠢きを感じ取る。

「ハロー、トマーティン。英国のユニオンジャックが翻るわ」

「これは流石に、金狐も呑むのをためらうのだわ。なんせ、世界に八百しか存在しない、国王陛下のスコッチなのよ」

 世界で最も高い場所に存在する蒸留所、トマーティンが世に放った金色の涙が、一滴、一滴と丁寧に受け止められ、ボトリングが施されている。ベースとなる原酒を三〇年熟成させたあと、オロロソ・シェリー樽に移され、愛しいシェリーよ眠れと天使が子守歌を歌い続けて七年以上、年月によって調合されたそれを、腕を磨いた職人が、バランスを意識して、バッティングする。

 ブリティッシュスコッチを持ってくるなんて、恐れ入った。どこでどのようにして手に入れたのだろうか。その過程を、その足跡を、著述したい。

「さあ、まずはビットなのよ」

 金狐の言葉を合図として、子狐たちが浜辺に押し寄せる波のように、ポーカーテーブルに群がり、何かを並べていく。それは、あの横浜港で僕が蹴り飛ばしたショットグラスであった。狐のシルエットから放たれる弱々しいろうそくの灯りを最大限に反射させ、妖頭會のアジトに相応しい怪しげな輝きを放っている。ショットグラスはピラミッドのように美しい三角形を目指して積み上げられていく。

「さあ、コール願います」銀狐は刀の切っ先をショットグラスの山に突きつける。

「こんこんここん。ここは怪しい狐が集う、妖頭會♪ 仮面を被りし魍魎が百鬼夜行と踊りゆく。木の葉を溶かして、密造酒、人間たちをアル中へ。お金をがっぽり稼いだら、バレる前に、尻尾を巻いてトンズラだ」ちゃんちゃかちゃんと間の抜けた音に合わせて、狐たちは一斉に手を叩く。

 酒がやってきた。

 無色透明な酒瓶にみっちりと満たされたそれは、グリーンの外国語が刻印されている。世界で最もアルコール度数の高いお酒、スピリトゥス・レクティフィコヴァニ。どぼどぼどぼ、ピラミッドの頂点から酒が注ぎ入れられる。酒はグラスを満たし、あふれ、底のグラスへと流れ落ちていく。まるで、ホストクラブの装い。

 金狐のそばにも、同じようなショットグラスの山が作られた。

「酒之助はポーカーをやったことがあるのかしら?」

「嗜む程度にはあるよ」

「じゃあ、ルール説明は不要ね。ショットグラスが全部空っぽになったら負けだから」

 金狐はショットグラスの山に手を伸ばして、ひとつ取り上げ、ポーカーテーブルの中央へ置いた。僕も同じようにする。ふたつのスピリタスは波打ち、少しばかりこぼれた。

 お互いに緊張しているのかもしれない。緑色のマットに濃い染みが作られる。

 それから、金狐がトランプを五枚ずつ配った。不審な動きはない。

 僕はトランプを表にする。

 やや、役がひとつもないじゃないか。困った、困った。

 僕は金狐の様子を窺うために、顔を上げた。

 金狐の仮面の裾からはみ出た唇は丸餅の角のように軽く膨らみ、僅かな裂け目からは特徴的な八重歯が見える。

 あの八重歯からは蜜が滴る、ぴゅっと伸びた蜘蛛の糸のような唾液の線は、僕の舌を吸盤のように、誘引する。ああ、キスが恋しい。

 役なしかな。僕はそう見立てる。根拠はない、理論的に積み上げられた、言葉の錬成術はここには存在しない。なんとなくの感覚、世の摂理と異なった風の流れを読む。

「パス」そうだろう、そうだろう、ここはビットしない。なんせ、僕も、金狐も、無役なんだからな。

「ビット」僕は中央に二杯目のスピリタスを置いた。

「正気なの? どうせ、役なしなんでしょ」

「さあね、どうだろうか。僕には山崎という天使が憑いているからね。今、カードに強運が呼び込まれたような気がするよ」

 仮面の向こうに埋もれている金狐の視線が変わったような気がした。何かを計算するように、上下に顔を動かし、攻勢をかけるようにしてコール。

「いいねえ。そうこなくっちゃ、僕が愛する女、金狐。今日はとことん酒を賭け合おうではないか」

 僕は愉快な気分だった。

 金狐、相手に上手く立ち回れている。

 こりゃあ、トマーティンは僕のものだな。

 そして、茜ちゃんを救出するのだ。

 拍手、喝采、が僕を待ちわびているだろう。

 さあ、

 レイズだ。

 レイズ。

 三杯目と四杯目のショットグラスを叩き付ける。スピリタスが盛大にこぼれる。つい、横暴になってしまった。自制は必要。過度の慢心は運を低減させる。山崎の天使を離してはならない。慎ましく、紳士に振る舞わなければ。

「こぼしたスピリタスはちゃんと縁まで注ぎ直してちょうだい」

「妙にこだわるんだな」

「そうかしら? うーん、ドロップ」金狐の敗北のファンファーレが鳴り響く。

 そーら見たことか。この程度なのだ。所詮は口だけの女。唇だけが艶めかしい女に、僕が負けるはずがない。

 場に並んだショットグラスを掴んで、自分のほうへと引き寄せる。濃密なるアルコールのにおいにくらくらしそうだ。脳細胞の一片が召喚の呪文を唱える。アルコールの化学式を呼び寄せようと必死になっている。

「残念だったな。金狐は僕の威光にひれ伏してしまったというわけだ。さあ、カードを存分に見るといいさ」そう言って、僕はカードをオープンにする。

 当然に、役なし。

 嗤う。

 いつも、僕を良いように弄ぶ、金狐から一本取ってやったのだ。

 金狐のカードも表になる。役なしかと思ったら二のワンペアが揃っている。最弱の役ではあるが一応役あり、金狐め、見誤ったな。ドロップは早計だったのだ。己の手を信じて、レイズを続ければ良かったものを。臆病に負けてしまった。

 うけるうう。

「さあ、次だ、次」僕はそう言いつつ、手に入れた金狐のショットグラスをポーカーテーブルの中央に戻そうとした。その手に鋭い、待った。がかかる。

「何をしているの?」

「何って、ビットだ。参加料を払わなければポーカーは始まらない」

「いえ、始まらないどころか、まだ終わっていないわよ」

「え、どういうことだ」

「ちゃんと呑まないとダメよ。酒之助はゲームで勝った。そして、わたしのスピリタスを二つ手にした。勝利の美酒に酔いしれなきゃダメじゃない」

「ふふ、どっちが先に潰れるか楽しみねー」銀狐が酔っ払いを駆逐すると言わんばかりに、上段に刀を構えた。

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