第壱幕 四
「課長、豚まん、ごちそうさま」皮はもっちりと、歯ざわりに弾力を感じて。
「いやあ、横浜中華街の豚まんは絶品だね」肉汁は豚の野性味にあふれ。
「和がらしを付けて食べると、味が引きたちますね」日本の良さを再認識する。
横浜ノースドッグ。
在日アメリカ海軍の港湾施設であり、日本占領下に連合軍が接収したという過去を持つ。主にはアメリカ軍物資の陸揚げや、軍事郵便に使用されているが、完全返還に向けて民間への門戸も開きつつある。
積み上がったコンテナの影に身を潜め、捜査の対象となった船を観察する。荒波をかき分けて進む貨物船らしく、船体は勇ましい傷がいくつも見受けられる。船首には『エメラルド・クリスティーナ』という洒落た名前が入っている。航行の安全を願う女神の名前なのかもしれない。
ピエールは名残惜しそうに指先に付いた豚まんのタレを舐めると、「田島くーん、アルコールスプレーを持っている?」と訊ねた。「もう、自分で用意しなさいよ。今からかけても意味がないと思うし。ああ、酒之助。このスプレーは飲酒用じゃないから。感染予防対策」と茜が携帯用アルコールスプレーをぷしゅっとピエールの掌にかけた。
「課長、迷彩服を着て、ライフルを抱えているのって米軍じゃないですか?」
「そうだよ、Next Generation Squad Weapon アメリカ軍の次世代分隊火器で……」
「銃のウンチクはいらないわ。まさか、あれとドンパチをやろうっていうんじゃないでしょうね」茜が右手の人差し指と親指を広げて銃の形をつくる。
「いや、ドンパチはやらない。頭を下げてお願いする」
「課長は腹がつかえて、ほとんど頭を下げられないじゃないですか!」
「誠意を込めた会釈だよ」ピエールは自信たっぷりにどんと胸を叩いた。ぶるりんと巨体がこだわりたまごのとろけるプリンみたいに揺れた。
「この船の積み荷にアルコールが混ざっている可能性があります。捜査にご協力願いますって言うの?」取締官の間で猛者娘と呼ばれている茜の指先が震えている。
「そうだよ」
「もちろん、捜査令状はあるんですよね」
「そんなものはないよー。だから、お願いするんでしょ」嘲笑。先ほどの屋台で豚まんの材料にしてもらえば良かった。
「断られたらどうするのよ。すごすご退散?」
「そのためにこれを持ってきたんじゃないか」
ピエールが、右腰のホルスターから普段は鍵のかかるロッカーの中でおねんねしている拳銃を抜き放つ。
銃口が僕の方へ向いた。慌てて、ピエールの腕を引っ掴み、えいやと地面へと向ける。彼は部下だろうが、容赦なく誤射するタイプ。
「帰るわよ。死にたくないもの」茜が騒ぎ立てる。
「ハハハ、心配する必要はないよ。これは儀式みたいなもんさ」
「儀式ですか?」
「酒類取締法があるのは日本だけだろう? あんな窮屈な法律にアメリカも縛られるなんてごめん被るわけさ。だから、裏で妖頭會と組んで、荒くれ者の腹を慰める酒を輸入している」ピエールは「酒をのみほーせ♪」と陽気なカリブ海賊の台詞を口にする。
「それをとっ捕まえるんですよね」
「あのねえ、相埜谷くーんの頭で考えている、とっ捕まえるをやってしまうと、外交問題に発展してしまうよ。見つけた分だけ押収するのさ」
「それって、隠された分は黙認するんですよね。密輸入は懲役刑もある重罪ですよ。あろうことか、酒類取締官が先導するってもってのほかです」
「黙認はしないよー。きちんと押収するって言っているじゃん」わからずやだなあと、ピエールは目を細めてふるふると首を横に振った。肉は、踊る。
「話は分かったわ。じゃあ、交渉役は酒之助がお願い」
「えーっ、僕は英語を話せませんよー」
「大丈夫だよ、身分証を見せてにっこりと微笑みながら通り過ぎれば、彼らは親指を立ててくれるさ」その親指の先っぽを地面に向けられないように祈るしかない。
「それじゃあ、銃なんていらないじゃないですか」
「潜入捜査には銃がつきものじゃん」ピエールは膝をすり合わせてもじもじとする。というか、僕には膝なのか、太股なのか、足首なのか、判別できない。
「映画の観すぎです。撃たれたら、死体は転がしておきます」
「そんなあ、相埜谷くーんはひどいよー」
僕はピエールの情けない声を背にして、ゆっくりと歩き出す。右手には写真付きの身分証を持ち、両手を挙げて、敵意を示さず、微動だにしない迷彩服の傍らを通り過ぎる。
「ヘイ、ユー」と咎められなかった。迷彩服を着て均整の取れたマッスルフォームに体を仕上げている米兵は僕を一瞥するなり、行ってよしと、親指を上げて、船の方を指さした。
マスクで顔の大部分が隠されているため、相手がどういう表情をしているのか分からない。ピエールがああ言うのだから、裏で話は付けているのだろうが、薬物の取り締まりは表情や目の動きで、勘を働かせて摘発するので、不気味だった。
船底からタラップを使って甲板に上る。ピエールは茜に尻を押されて、ヒイヒイ言いながら足を持ち上げている。
甲板には誰もいなかった。沖から吹き抜けてくる風は冷たく、重い潮が満ちている。マスク越しに、はあと吐いた白い息が空へと駆け上がっていく。正面には海原を切り裂くようにして、大黒ふ頭と本土を繋ぐ、横浜ベイブリッジが見える。その手前にはくすんだ朱色をした横浜北水提灯台があり、釣り人が糸を垂らしている。
「足が棒のようだよー」ピエールの萎びた声が響く。
「ええ、棒? 丸太じゃなくて?」
「田島くーんもひどいなあ。まるで、ピエールが太っているみたいじゃないか」
「……えっと、押収する酒類はどこにあるんですか?」
「こっちだよー」ピエールが歩き出す。
コンテナは人がようやく通れるほどの隙間を残して、積まれていた。
「えっと、何番目のコンテナだっけ」ピエールが丸眼鏡を持ち上げて、ポケットから引っ張り出した資料に視線を落とす。
「全部のコンテナを調べないんですか?」
「冗談だろう。一体、いくつあると思っているんだ」ざっと見渡しただけでも、百はあるだろうが、それをひとつ、ひとつ調べていくのが、酒類取締官の使命なのではないだろうか。
「課長、根こそぎやるべきです。妖頭會を潰したいって、いつも言っているじゃないですか」
「そうだけどさあ。追い詰められたネズミは猫を噛むからね。警察と連携をして、包囲網をじわじわ狭めていく必要があると思うよ」
言葉は理解できる。が、それは酒類取締官として正しいのだろうか。正義は執行してこそ意味がある。
「僕が全てのコンテナをチェックします。課長と茜先輩は帰って頂いても構いませんよ」
「相埜谷くーん、君はねえ」とピエールが何か言いかけたが、諦めたようにため息を吐くと、「一緒に探すよ」と言った。
「それも仕事なら仕方ないわね」茜も理解を示す。
「分かっていただけてなによりです」
夕焼け小焼けの赤とんぼ、防災無線が帰宅を促すメロディを奏で、緋に染まった夕日が水平線の向こうに沈んでいく。横浜のコスモクロックが彩り豊かなネオンを放ち始める。
「これで、最後。資料によれば、ここに我々が取り締まるべき酒類が入っている」ピエールがずんぐりとした人差し指をコンテナに向けた。
青みがかった塗装が施されたコンテナは海風を受けて、錆びついている。
「何が資料によればですか……見え透いた茶番はうんざりですよ」
「でも、他のコンテナには何も入っていなかったわね」茜はやれやれと両手を左右に広げる。
「子狐が前もって、積み荷を下ろしたんじゃないですか」
「それはないかな。船は昨晩着いたばかりだし、そんな時間はないはずだよ」
「X線検査もやりましょう。コンテナに細工がしてある可能性はあります」
「こらこら、相埜谷くーんは、日米地位協定を知らんのか? これでも、米軍は最大限譲歩をして我々の捜査を許しているんだぞ。腹に据えかねたら、撃たれるやもしれん」
ピエールはハンケチで額の汗を拭き取ると、煙草の箱を引っ張り出した。マスクを外し、ぴちっとしたタラコのような唇で紙巻き煙草を挟み、フィルターを強く噛んだ。
「知っていますよ。でも、自分には酒類取締官としての正義があります。それは日米地位協定よりも遙かに重いものです」
「ふん、酒之助は、まだ、そんな埃っぽいものを信じているのね」茜が目を細めて、鼻柱にしわを寄せた。
「埃っぽいとは何ですか! 酒類取締官たるもの、忘れてはならない精神だと思いますけど」徹底して噛みついておこうと思ったが、ピエールが空気を読んだらしく、割って入った。
「はいはい、押収品を見てみようねえ。案外、相埜谷くーんの正義感を満足させるほどたっぷりと入っているかもしれないよ」ピエールはそう言うと、コンテナの扉に手をかけた。
「課長、言っておきますけど」
「呑んじゃだめでしょ。分かっているよー。相埜谷くーんはしつこいなあ」
扉を開ける。コンテナの中に斜陽が差し込み、内部が露わになる。中央には薄くウイスキーを張ったショットグラスがひとつ置かれていた。
「あはぁ、こりゃあ、舐められているね」ピエールはどこにあるか分からない首を呆れたように振った。
「ちぇ、一番初めに開けていれば、笑って帰れたかもしれないのに、ここまで探した後だとシャクよね」茜の言葉がちくんと刺さる。
「くそったれ」
コンテナの中に踏み込むと、僕は右足でショットグラスを蹴り上げた。大事な証拠品だが、どうでも良かった。だってこれは、僕らに花を持たせるためのハリボテなのだろう。ならば、きっちりとお返しをしてやる必要がある。筋書きに流されるほど、甘い仕事はしていない。
ショットグラスは宙を舞うと、コンテナの壁に叩きつけられた。ガラスが粉々に砕け、辺りに散らばるはずだった。が、
「おんやぁ」ピエールは意味深な声を上げて、
「コンテナの壁が……」茜は素早い動きで右腰のホルスターに手をやった。
コンテナの壁に走った裂け目からびしゃっと液体が迸る。
アルコールのにおいが、辺りを包み込んだ。
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