第壱幕 三

 懐に隠し持っていた匕首を引っ張り出すと、一振りで抜き放った。

 鞘がからんと音を立てて石畳の上を転がる。木洩れ日が刀に塗りしめた油を虹色に浮かび上がらせている。

 蝉の声がやかましく、肺が液体になって嘔吐しそうなほどに息苦しい。酒造は目を細めた。老眼で視界にはだぶだぶとした靄がかかっているが、あの顔は忘れもしない。

 杜氏の道を捨てた愚息――――。

「おやじ、そんなものを抜いちゃいけない」

「のすけぇ。貴様に、相埜谷酒蔵の土を踏む資格なんざねえ。どの面下げて、のこのこけえってきたんだ」

「帰ってきたんじゃない、壊しにきたんだ」

 酒之助はへらへらと笑っていた。品の良いスーツを着て、骨があるように真っ直ぐと伸びたネクタイを締めて、すっかり都会のいろに染まっている。田舎の銘水で育ったうぶな面影はさっぱりと抜け落ちていた。

「厚生労働大臣による消毒命令だ。相埜谷酒蔵、当該施設は国の管理下となり、麻薬取締部による浄化を行う」

「酒は毒じゃねえー。昔から呑まれてきたもんだ。うちはなあ、薩長の奴らがおっ建てた国よりも、古くからやっているんだ。のすけぇ。お前にも聞かせてやっただろう。先祖がどれほどの苦労をして、相埜谷酒蔵の看板を守り抜いてきたか」

「だから、壊すんだよ。不気味じゃねえか。何百年と生き残っている、おやじの蔵は化け物だと思う。酒は肝臓を蹂躙し、脳みそを溶かし、情緒不安定にさせ、暴力を助長する」

「ぬけぬけとした態度は変わっとらんな。都会の良い大学というのは、何も教えないのか? 物事の一側面だけを切り抜き、誇張した表現は悪いと習わなかったのか」酒之助の言葉は正論で、筋が通っていた。だからこそ、腹が立った。酒造は匕首をひゅっと翻し、刃を天空に向けて上段に構える。

「正義の切り抜きこそ、僕の仕事だよ。その物騒なものはしまったほうがいい。親父を逮捕したくないんだ」

 酒之助の傍らには太っちょの外国人と、ぼやあっと領域を広げるシャドウが印象的な瞳を持つ女が銃を構えていた。引き金には人差し指がかかっている。

 酒造は酒之助の目を見やった。

 老眼だろうが、そんなものは関係ない。

 よく見えると、

 よく見るは、

 天と地ほどの差がある。

 酒が濁っていても、透明であっても、かきまぜながら、底をのぞき込んで、見えないものを見ようとすると、うまい酒ができる。香り、口当たりの良さ、喉ごしは目に見えるものではない。

「のすけぇ、酒に呑まれとるな」酒造は言葉の切っ先を酒之助に突き出した。

 すると、冷や酒のような顔をした酒之助の表情が一変した。生酒に火入れをしたように、ぢくぢくと熱が広がっていくのが分かった。

 やはり、こやつ、呑まれておるな。

 懐にお手製の酒瓶が一本入っていてもおかしくはない。

「呑んでないよ。法律が施行されてから、一滴のアルコールも口にしていない」

「嘘を吐け。目が酒で淀んでいる。確か、飲酒は犯罪だったはずだ。身体検査をしてみるのはどうだ? 麻薬取締部っていうのはそういうのがお得意なのだろう」

 金髪の額からは大粒の汗が流れ、シャドウの女は訝しげに酒之助に視線をやった。

「呑んでいるのかい?」金髪が問いかける。

「呑んでないですよ。おやじは嘘をついているんです」

「身体検査をしてもいいかしら」女がたたみかけるように言った。

「だから、呑んでないって」

 首を横に振って、弁明を重ねる。怪しさがにじむ。

 気がそぞろになった一瞬の隙を酒造は突いた。石畳を蹴り、交錯する射線や視線を掻いくぐって、酒之助の懐へ潜り込む。

 腹から息を吐き、匕首を深く、不肖な息の根を止めるべく、差し込む――――。

 しかし、敵も手練れであった。匕首の刃が奴の首筋を撫でたところで乾いた音が響いて、飛び散った火薬のにおいがした。

 どうしようもない脱力が匕首を握った右腕に襲いかかる。それでも、親としての責務を全うしようと、渾身の力を込めて踏ん張ろうとしたが、軸足となっている右足も被弾した。

「おやじ、おやぢぃぃ」

 酒之助の叫びは他人事のように聞こえた。もう、家族ではないという烙印を押されたような気分だった。酒造は息も絶え絶え、昆虫のようにひっくり返って、粉砕した陽光がこぼれ落ちる雑木林の枝葉を見やる。

 もしかすると、役目を終えた麹菌が、酒樽の底に沈んでいくときはこういう光景を目にしているのかもしれない。

「応援要請をしてくる。田島くーんは救急車だ」

 金髪の声が聞こえた。

 田島と呼ばれた女が足早に去っていくのを感じた。

「課長、どうして撃ったんですか!」

「だって、相埜谷くーんが危なかったから」

「僕のおやじですよ。殺すはずがないじゃないですか」

「……応援を呼んでくる」

 そうか、あれは課長なのか。すると、酒之助は上司に恵まれたのだな。酒造の口から苦々しい笑いが漏れる。これで良かったのかもしれない。息子を殺したら、美味い酒をつくれないだろう。

 もう余生と決めつけ、平々凡々と暮らす。それもありなのかもしれないと酒造は思った。殺しには感動もへったくれもない。

「おやじ、死ぬなよ。今、助けてやるからな。気をしっかり持って」

 視界の靄が色濃く、深く、根ざしてくる。

 手足の感覚がなくなり、確証を持てない冷たさだけが酒造の感覚を支配し始める。

「とぉりゃんせぇ、とぉりゃんせぇ、こぉこはどぉこの、細道じゃぁ」

 酒造が火入れで寝ずの番をしているときに、よく唄っていた拍子が聞こえた。

 首がずん、ぐうっと重くなった。酒之助の奴が泣きながら、覆い被さっているのかもしれない。すまなかったと謝りたかった。酒之助の言うことを聞いて、最初から従っていれば良かったと思った。

 しかし、もう声は出なかった。

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