終幕  一

 くるくると回転をする椅子に腰掛けた女は、机上に置かれた用紙に視線を落としている。インクがたっぷりと付着した古紙を使いました、環境に優しい製品ですといった謳い文句と共に包装されていた再生紙で、朱色の公印が押下されていなければ、公文書にはとても見えない。

「厚生労働大臣官房局特命課長に補する、ねえ。いやあ、出世かぁ。めでたいなあ」

 女の背後に立ち、公文書をのぞ込んでいる鳩貝が言った。

 女の指がぴくりと動き、紙にしわが寄った。

「公印も曲がってるし、肉の朱が滲んでいるぞ。新人の仕事かあ?」

「殴ってもいいですか?」意志の強そうな鋭さが丁寧語の中に混じっている。

「警察を呼ぶぜえ。お巡りさーん。助けてくれえい」

 鳩貝は調子よく、げぇらげぇらと笑う。右耳からは白いケーブルが垂れ下がっており、机上に置かれたラジオのイヤフォンジャックに端子が挿さっている。

「蹴りますよ。尻の穴を絞めてください」

「イボ痔が出ているから手加減してくれよ。昼飯に激辛ラーメンを食っちまったから、ひりひりしているんだ」鳩貝は自分の尻を叩き、にやっと頬を緩めた。

「はとぽっぽには空気を読む概念は」

 女はしわの山や谷に指の腹を押し当て、水没した古文書を修復するかのように丁寧に伸ばしていく。顔には苦悶が浮かんでいた。

「空気は読むもんじゃなくて、吸うもんだろ。共感して、一緒に鼻を啜らせて、泣けばいいか? 事件や事故の度にガイシャの前で神妙な顔をすんの嫌なんだよ。煙草がまずくなるだろ」

「なるほど、はとぽっぽが現場になかなか出てこない理由が分かりました」

「分かってねえな。俺が現場に出ないのは偉いからだ」鳩貝は親指を立てて、自らの顔を指さした。

 女は顔を上げて、鳩貝を見やった。垂れた目尻から頬骨にかけて、液体が通ったような跡があった。

「次の辞令が楽しみですね。そろそろ警視長じゃないですか」

「地方に飛ぶかもしれねえな。なんせ、俺らの代は上が詰まっているからよう」

 鳩貝は人差し指を天井に向けて突く真似ごとをする。

「地方参事官ですかね? 沖ノ鳥島勤務なんてどうでしょうか? おすすめですよ」

「俺の十八番を取りやがって。あんな岩の上で犯罪なんて起きねえだろうが」

「ああ、岩って言っちゃあダメですよ。領土です。消されますよ。沈没しないように消波堤になって命を落とすといいんじゃないですか。立派な殉職です」

「お前って、すぐに俺を殺そうとするよなあ。そんなに俺のことが嫌いか」

「ええ、嫌いと大嫌いの中間ですね」

 鳩貝は唇をひん曲げて、苦く笑いを作ってから、「大嫌いではないだけマシか」とぼやく。

「ポジティブなんですね」

「ったりめえだろう。サツをやっているとネガティブなことばっかりで嫌になっちまうからな」

「じゃあ、次はチヨダですかね」

「……チヨダのセンはねえな。年齢からしてもう無理だし」

 電話の呼び出し音が鳴って、女が素早く机上の受話器を取った。鳩貝は「大嫌いまであと何パーセントくらいあっかなあ」などと、呟いている。

「はいこちら、もしもしかめさん。お疲れ様です。え、目を覚ましたんですか……はい、はい、ちょっと聞いてみますね」

 女は受話器から耳を離して、「はとぽっぽ、行けますか?」と訊ねる。

「るっさい。後にしろ。ああ、四番捲れ、チキってんじゃねえぞ」

「業務中ですが?」女の声が冷たく響く。

「ギリギリを攻めろ。いけ、いける、そうだ。ペダルを潰せ。ハンドルを押せ。命を削れ。ここがテメエの死に場所だ! あああ、何やってんだよ。バカ、へばってんじゃあねえぞ。バカヤロー、税金泥棒、金返せ」鳩貝は丸まっていた新聞紙を手にして、机の天板を叩く。新聞紙はガムテープで補強がされ、相当な使用感が漂っている。

「ええ、もしもしかめさん、対応します」女は受話器を静かに戻すと、つっと人差し指を鳩貝に差し向けた。指先には亀のシルエットが茜色のベースコートをくり抜くようにして描かれたネイルがあった。

「税金泥棒は、はとぽっぽのことです」

「俺は泥棒じゃねえ。競輪の主催は地方公共団体だろ。公務みたいなもんだ」

「それ、通ると思います?」女は全くブレることなく、問いを投げつける。

「そりゃあな、ぽっぽ様を舐めてもらっては困る。で、電話は?」

「現場で待機しているぴょんぴょんうさぎからです。目を覚ましたと」

「嘘だろ。心臓が止まったの間違いじゃねえのか」

「確かです」

「実際に見るまでは信じられんな。ちっと、待ってろ」

「車ですか? 運転しますよ」

「入金だよ。次のレースまでには戻る」

「玄関に車を回しますね」

 鳩貝はお決まりの黒いロングコートを肩口に引っかけて、軽く伸びをしてから足取りも軽く部屋から出ていく。右手にはしっかりとラジオを握ったままだ。

 女は再び紙面に視線を落とした。机上に置かれた右手はくしゃりと握られ、拳が作られている。筋肉の線や血管が浮かび上がるほどに、強く、固く、それは少しだけ振り上げられ、反抗期の子どもが暴力を振るうくらいに小さく、机の天板を打った。

 それから、まるでアダムとイブに喧嘩を売るかのように、知恵の実に囓った跡をつけたデザインが目を引く、スマートフォンを制服のポケットから引っ張りだして、ディスプレイに右手の親指を押し当てる。

 左手の人差し指と中指でこめかみを押さえる。肩口まで伸びた髪は健康的な若い髪質をしており、生え際まできっちりと偽りなく金色で、産毛まで透明感のある白っぽい色をしている。瞬く瞳は黒いが、少しばかり青みがかっている。

 女の親指がディスプレイを何度かタップした後、スマートフォンを耳に押し当てた。瞬きが止まる。グロスを塗った唇はわずかに開いて、浅い呼気が漏れる。が、黙ったままだ。小さなコール音だけが一定の間隔で鳴り続ける。

 女の目が細くなった。意識が過去を紐解く。

 それは、日々繰り返された、親子の会話。


   ♠♠♠


「好きになったとは、どういうことでしょうか?」

 上半身が女性の姿で下半身は二又に分かれたヒレが特徴的な、白と緑に塗り分けられたロゴを掲げるコーヒーチェーン店のカフェテラスで、女は口を開いた。手元には水で抽出したコールドブリューコーヒーをベースにして、山盛りのホイップクリームと、とろりとした黒蜜にきなこが振りかけられて、緑色のストローを挿し込んだドリンクがある。

 女の対面に人の姿はない。疑問符を投げかけた相手はスマートフォンの向こう側で、目には見えない電波によってつながっている。

「ママが聞いたら、大変なことになりますよ。怒ったら、スティーブン・キングも裸足で逃げだすほど、怖いのを知っていますよね」

 ちょうどよい噛み応えになるまで、焼きを入れたフランスパンをざっくりと輪切りにして、ももハムとクリームチーズにオリーブオイルをかけて閉じ込めたサンドウィッチに、女は左手を伸ばす。べた塗りの桜色をベースコートにして、首を伸ばした亀をイメージした模様が立体的に浮かび上がったネイルは、今の季節とマッチしている。

「撤収してください。チヨダに言って、代わりを手配してもらいます。はとぽっぽを上手く使いますよ。大丈夫です、もしもしかめさんはパパと違って優秀ですから。パパは本省に戻します。本省の課長の座は諦めてくださいね。それはパパの落ち度です」

 首を傾げて、右耳と右肩で器用にスマートフォンを挟み込み、サンドウィッチを両手で掴むと人の目なんぞ、まるで気にしないといった具合に大口を開けて、食らいついた。オイリーなクリームチーズが口元にべったりと付くが、タコ足のような舌先が唇を這い回って舐め取った。

「断固拒否するってどういうことですか! 意味が分かりません。脳みそまで米粒になったとは言わないでくださいね。冗談は体だけにしてください」

 サンドウィッチはみるみるうちに小さくなっていく。掌に付いたパンくずを払い、ウェットティッシュで丁寧に拭ってから、再びスマートフォンを右手で掴む。

「そういう赤ちゃん言葉はやめてください。こちとら、もう立派に社会人をやっているんですよ。ふざけないでください。下の毛もちゃんと生えています。ええ、カムフラージュ? 小学生ということにしているから、安心しろ? 女の勘を舐めたらいけませんよ。絶対にバレます。ママには報告しませんが、はとぽっぽには報告します」

 左手がホイップクリームを山盛りにしたドリンクに伸びかけて止まる。プラスチックの容器には汗のような水滴が浮かび上がり、テーブルに水たまりを作っている。ふっくらとした女の白い頬にわずかな赤みが帯びる。眉間に深いしわが寄って、明らかな困惑が表情となる。

「はとぽっぽのことは好きじゃありません。令和の世で、尻を触ったり、手作り弁当を毎日持ってきたりするのは正気の沙汰ではありません。めっちゃ、きもいです」まあ、お弁当は頂いていますが……悔しいですけれど、美味しいんですよねと女は小声で付け足す。

「はとぽっぽのことが好きじゃない理由を証明しろ? いやいや、そんなのできませんよ。好きや嫌いって、目に見えないですよね。ジョーシキだと思うんですが……はとぽっぽに電話する? やめてください。また、金属バットでお尻を叩きますよ? あれを持ち出すのは冷蔵庫に隠しておいたシュークリームを勝手に食べたときだけじゃないんです。デスクワークができなくなるからやめろ? 空気椅子で仕事をすればいいじゃないですか!」

 ゆるりとした丸襟のシャツに包まれた両肩が荒々しく上下する。耳たぶには真珠のピアスがふるふると揺れている。隣のテーブルでコーヒーカップを傾けていたマダムがちらちらと興味深そうな視線を送っている。

「証明できない好きを理由に、任務を外すの不当ですか……。もしもしかめさんは、どうしたらいいか分かりません。ちょっと、考えてみます。やっぱり、はとぽっぽには相談しません。ええ、なんですか? チョコレート&ココアデニッシュを二十個? なんでスタバにいるのが分かるんですか? サンドウィッチを囓る音で分かった……パパの耳の穴ってどうなっているんですか……」

 女は徒労感を示すように溜め息を吐くと、「切りますよ」と言って、スマートフォンをタップした。眉間のしわは額まで進行して、ざっと五つくらいは老けた雰囲気が漂う。それから、「やだーん、水っぽくなっちゃうわ」と言いつつ、スマートフォンをクリーム色のハンドバッグの中に乱雑にしまってから、例のホイップクリームドリンクにささったストローを口に含んだ。思いっきり吸い込んだが、ストローの中で渋滞を起こしたそれは、彼女の舌まで届かなかった。


「少し痩せたでしょ」

 ごく一般的な家庭に敷設された浴槽の中には、脂肪がみっちりと満たされていた。心地の良い温度に設定された湯がたっぷりと張られているはずだが、水面はほとんど見えない。脂肪の所有者である、浦島ピエールの髪は河童のようにべったりとなって立体感が削がれており、頭頂部の禿げが際立っている。少なくとも、田島茜はトレードマークだと思っている丸眼鏡は外されていて、どんぐりのような小さな瞳には純朴そうな少年の輝きがある。

「それ、おはようくらいの感覚で言ってますよね。現実のあまりにも乖離していて、コメントのしようがありません」

 女……浦島茜は浴槽の傍らにある洗い場で、白い風呂椅子に腰掛け、指先を火かき棒のように曲げて金髪をもしゃもしゃと泡立てている。正面には鏡があり、石鹸や洗顔料、髭剃りクリームや透明な容器に入った、いかにも美容成分たっぷりですよ喧伝する、美容室専売品のシャンプーやトリートメントがラックの上にきれいに並べられている。

「業務用のアイスクリームを夜中に食べるのやめたんだよね」

「イチゴのやつですか? あれ、全然イチゴが入ってないんですよ。食紅と香料だけでできています」

「うっそーん。だまされた……」ピエールは頭に手をやって、ぐしぐしっとかき乱す。

「パパの鼻も落ちましたねえ。茜は最初から知っていましたが、黙っていました」

「でもさ、ピンク色のところと赤いところがあるよね。赤いところは果肉のはず」

「残念でした。あれは紅花の色素を濃くしたやつですー」

 ピエールは口元まで体を沈めて、ぶくぶくと泡を吹く。

「でも、偉いじゃないですか。本当に少し痩せたような気がします」

「業務用アイスクリームマシーンを買った話をしてもいい?」

「さっきの言葉は撤回します」

「明日には届くから、場所だけは確保しておいてね」

「じゃあ、業務用ポップコーンマシーンはオークションサイトで売っておきます」

「まだ、トウモロコシを十キロ分しか食べてないよう……」

「食べてばっかりじゃあ、田島茜に嫌われちゃいますよ」

 浦島茜は水栓を押し上げ、シャワーを出す。霧雨のような温水が、浦島茜の髪からシャンプーの泡を落としていく。浦島ピエールは太ましい右足を浴槽からみょーんと出して、アーティスティックスイミングのように、つま先までぴんと伸ばす。

「そんなことで、嫌いにならないよう。彼女はピエールをカロリーベースで愛しているんだ。それに、ピエールから食べることを取ったら何が残るんだい? 骨と皮だけになっちゃうじゃないか」

「骨と皮だけではありません。優しさも残ります」

 宙空に伸ばされた浦島ピエールの足はするすると湯の中に戻っていく。そして、むっちりとしたあごをつんと上げて、立ち上る湯気と共に長く息を吐いた。

「こんなに良い娘なのに、彼氏のひとりもできないのはおかしいね」

「自分のことを分析するのはあまり得意ではありませんが、茜は少々変わっていますから。並の男では御せないと思います」

「鳩貝さんは並じゃないから大丈夫か……」

「あれはケダモノですよ。はとぽっぽの股間を蹴って、女としての安全を確保しておきたいといつも思うのですが、なかなか隙を見せてくれないんです」

「鳩貝さんのタマは金属でできているらしいよ。組の幹部に勧められて手術したんだって、無敵だよね」

「パパがなんの話をしているのか、茜にはよく分かりませんし、知りたくないですし、深く聞こうとも思いません」

 浦島茜は左手の掌を器にして、右手に持った透明で褐色の容器を凹ませて、中身を絞り出した。どろりとしたクリーム状のものが、五〇〇円玉ほどの大きさになるまで広がる。容器をラックに戻して、両手を擦りつけてしっかりと馴染ませると、その手をピエールの頭頂部にべたりと押し当てた。

「で、別れ話はいつするんですか?」

「何の話だい? ポップコーンマシーンとの別れ話かい?」

「ごまかさないでください。田島茜との別れ話に決まっているじゃないですか」

 浦島茜の手がピエールの頭頂部から渦を巻くようにして、頭蓋骨全体にそれを塗りつけていく。ピエールは気持ち良さそうに組んだ両腕を浴槽の縁に載せて、体をもたれている。

「そんな話はしないよう。別れるつもりはないからね」

「おかしいです。パパはママと結婚しているんですよ? 裏切りじゃないですか」

「そうだね。ピエールはママのことも裏切っているし、田島くーんのことも裏切っている。おまけに、茜ちゃーんにも別れないよと言い放つ、最悪で最低な男だよ」

「ママが一番なんですよね? そう言ってください。当然、茜は二番目です」浦島茜はお菓子を買ってくれないと喚く、駄々っ子のように首を横に振った。

「みんなが平等に一番だと思うよ。茜ちゃーんは、田島茜のことを嫌いになって、忘れてほしいと思っているかもしれないけど、それこそ、たとえ彼女が死んだとしても、無理だね」

 浦島茜は右手の掌をピンと張って、ピエールのつむじの部分を叩いた。「イテッ」とピエールが痛覚を訴える。追撃とばかりに、もう一発叩く。

「気持ちは心の中に閉じ込めてください。握りつぶして、粉々にしてください」

「そうだなあ。確かに、好きという気持ちを小さくして、薄めることはできるかもしれないね。でも、完全に消し去ることはできないよ。どこかで、好意は回遊し続ける。それが、ピエールの一部を形作っているからね。今日も穏やかで、心が安定しているのは、世界に好きという存在があることを確信しているからなのかもしれないと、ピエールは思うんだ」

「なんですか、それは! はあ……ときどき、パパが何を言っているのか分からなくなります。いや、全く分からないわけじゃないんですよ。分かりそうで、分からなくて、こうですね、上手くキャッチできないんです」浦島茜は何かを掴まんとばかりに、指先に力を込めて、ピエールの頭部を指圧する。ラードのようなものがむにゅっと出てきそうだが、頭皮は面白い形に歪んだだけだった。

「アハハ、何事も、理解できることが全てじゃないよ。掴めなくて、不確かなものだって、世界にはたくさんある。好きという感覚もそれと似ているかな。仕分けをして、ラベルを貼って、綺麗な箱には入れておきたくない。野放しで、自由にしておいたほうがいい。それをね、ピエールはお菓子を食べながら観察したい」

「茜はそんなパパのことが嫌いです」

「そうかい。そういう時もあるねえ。よしよーし」

「慌ててください。茜ちゃーんに嫌いって言われちゃった、どうしようって泣き出してください、その余裕はなんですか! 見過ごせません」

「そういう茜ちゃーんのことが、パパは好きだよ」ピエールは頭皮に優しい美容液が目に染みてきたのか、しぱしぱとまぶたを開け閉めする。

「…………ああ、全然聞こえませんねえ。もっと、大きな声で言ってください。早く言わないと、シャワーヘッドを隠します」


「絶対に近づけないでください。ぶち殺します」

 潮のにおいが満ちている。フジツボやカメノテなどが固着した岸壁には白波が打ち寄せ、小さなカニがわしゃわしゃと這い回っている。北から押し寄せた極寒の空気が生命の熱を容赦なく奪う。

 くすんだ朱色をした横浜北水提灯台の堤に浦島茜と鳩貝左右衛門は立っていた。

 浦島茜はグレイのレインスーツを着込み、オレンジ色のライフジャケットを身につけている。金髪はくるりと束ねて、黒いニット帽の中に入っており、マスクの代わりにネックウオーマーを口元まで引き上げている。顔はほとんど隠れているが、冬に負けないとばかりに少しばかり濃いメイクをしている。

 鳩貝は防寒をろくにしていない機能性重視の作業着姿で煙草を咥え、しゃがみ込んで指先をちくちくと動かしている。当然、マスクはしていない。傍らには光沢があり、しなりの良さそうな釣り竿が置かれていて、リールから蛍光色の糸がひゅろろと鳩貝の手まで伸びている。魚の口にがっつりと食い込みそうな鋭い針には、ぬめぬめとした粘液を撒き散らし、数多の脚を踊らせているムシが体を刺し貫かれている。

「イクラやオキアミじゃ釣れねえって。ボウズで帰りてえのか?」

「釣りをするために、わざわざ船をチャーターして来たわけじゃありません。釣りはやっているフリだけで十分です」

「ばっかやろー。いいか、海がある。海は俺を呼んでいる。最高の釣り竿がある。それなのに、フリをしろだと? お前はバカか?」

「ちゃんと仕事をしてください。釣りは業務時間外にやってください」浦島茜の声は吹きすさぶ風よりも断然に冷たい。

「浦島は業務時間外に呼んでも来ねえじゃねえかよう」

「だからって、釣り竿を持って、朝の三時に家の前で待っているのはやめてください」

「遅えか。やっぱり、前日から入ったほうがいいか?」

「……そういうことではありません。はとぽっぽとは、死んでも日付を跨ぎたくありません」

「ちっきしょう、嫌われてんなあ……っし、できたぞ。しっかり、握っておけよ。落とすんじゃねえぞ」

 浦島茜は目をハの字に曲げて、いまいましそう針に刺さったムシを見やってから、釣り竿をしっかりと握った。ぴゅっと竿を振りかぶって、上半身を上手く使いながら、針先を沖へと飛ばす。

「おっと、手慣れているじゃねえか」

「釣りは好きです。パパにムシをつけてもらって、よくやるんです」

「パパのことは大好きなんだな。参考までに聞くが、あの太っちょのどこがいいんだ?」鳩貝は眉間にしわを寄せて、訊ねる。

「太っているところです。はとぽっぽもあのくらい食べられれば、ちょっとは好きになってあげてもいいですよ」

「業務用のアイスクリームをぺろっと食っちまうって聞いたぞ」

「この間、二台目の業務用アイスクリームマシーンを購入しました。一台目はバニラ専用にするって言っていました。今度は、アイスクリーム専用の牛を飼うかもしれません」

「…………」

 鳩貝は寒空を吹き飛ばすように、ふひいっと紫煙を吐いてから、短くなったマールボロを携帯用灰皿の中に押し込んだ。そして、釣り道具をしまっている箱の中にあるウェスで丁寧に指先を拭ってから、そばに置かれているリュックサックのファスナーを開けて、双眼鏡を取り出した。のぞ込みながら、ダイヤルを弄って、焦点を合わせる。

「な、何をやっているですか!」

「何って仕事だよ。今日はあの船にガサが入るんだろう。エメラルド・クリスティーナだっけ。船主はずいぶんとキザな野郎だな」

「浦島もすぐに監視します」浦島茜は慌ただしく手を動かし、リールをくるくると回す。

「っと、巻き上げんなって、魚が逃げちまうだろう」

「仕事が優先です」

「いいか、糸を垂らすのも大事な仕事だ。こんな目立つ赤灯台の横に突っ立って、二人して双眼鏡をのぞいてみろ。完全に変質者だろ」

「変質者は、はとぽっぽです。浦島は清く、正しく、美しい乙女です」変質者呼ばわりされたのが、相当にお冠だったらしく、浦島茜はふんと顔を背ける。

「わかった、俺が変質者でいい。でも、不自然だろ」

「確かにそうですね。ここでは釣りをしておくことが最も自然です」

「そのとおりだ。この辺りはカサゴがよく釣れるらしいぞ。煮魚にして弁当に入れてやるよ」

「煮魚ですか……」浦島茜の瞳が大きくなる。鱗がたくさん付いて、尾ひれのある、目の前にはない何かを見ている。

「圧力釜でやるから、骨まで食えるぞ。たまり醤油と生姜をたっぷり利かせて、鷹の爪を輪切りにして散らす。白米に煮汁をぶっかけて、箸でざくざくっとかき込んでみろ。もう、俺に惚れちまうだよ」

「えっと……最後の部分は意味が分かりませんが、絶対に釣ります!」浦島茜の手が俄に活気づく。ロッドを鞭のように動かしたかと思うと、両足を相撲取りのように踏ん張って、海面を睨み付けている。海上に浮かぶ、エメラルド・クリスティーナには目もくれない。

「朝焼け小焼けだ、大漁だ~♪」と鳩貝は金子みすゞの『大漁』に節をつけて唄う。

 しばらくして、歌に反発するように、夕焼け小焼けの赤とんぼが微かに流れてくる。唐突に、日常を打ち砕く発砲音が響いた。鳩貝の口から三本目のマールボロがぼとりと落ちる。

「なんだなんだ、銃声か? 浦島ぁ、そんな予定はねえよな。米軍様への献上酒をちょっくら味見するだけって話だろ」

 慌てた鳩貝の言葉に「かかりました!」という声が突き刺さる。

「ああん、かかったぁ? オメエな、それどころじゃねえだろ。仕事だ、仕事」鳩貝はそう言って、リュックサックの中から、双眼鏡を取り出す。さきほどまで、手にしていた掌に収まるようなコンパクトなものではなく、一般には売られていないような長さの筒と重量感のある代物で、ドイツの著名な光学メーカーロゴが入っている。

「うひゃぁ、やべえぞこれ。浦島、米軍に電話だ。このままじゃ、一掃されちまうぞ」

「動きたくても、動けません。たまには、はとぽっぽも仕事をしてください!」浦島茜は息も絶え絶え、ようやく言葉を放つ。ぷるぷると両腕が震えている。懸命にリールを巻き上げようとしているが、獲物と力が拮抗しており、硬直している。

「仕事をしていないのは浦島だろうが」

「糸を垂らすのも仕事だって言ったの誰でしたっけ。すぐに、糸を切ってください。諦めます」

「いや、そのまま踏ん張っとけ。今、ハサミでちょっきんしたらアブねえからな。大丈夫だ。ぽっぽ様がちゃーんと仕事をやる。たまには、上司の威厳ってやつを見せつけとかなければならん」鳩貝はにぃっと唇を広げて、自信がありそうに笑うと、左の尻の辺りにぶら下がっているポシェットに手をやって、それを抜いた。

 立派なアンテナを持つ、無線機が姿を現す。右手の親指でボタンを押しながら、周波数を一発で合わせ、電波を雑音に変えて、通信を確保する。そして、それはそれは流暢な英語を話す。日本語の形を失った会話のキャッチボールはしばらく続き、鳩貝はふっと息を吐いた。

「かぁ……やっぱ、話を通しておいてよかったなあ。とりあえずは様子見ってことになったぞ。何しろ、コンテナの秘密を暴いた馬鹿者がいるらしい。後始末が大変だ。チヨダになんて説明すっか……」

「はとぽっぽ、釣り竿を離していいですか? 腕が保ちません」

「それ、二十万円するんだぞ。そうだな、チューを二十回くれえで釣り合うが、どうする?」

「このまま飛び込んで、海の藻屑となって消えます」

「ったくよう、しゃあねえな」鳩貝は浦島茜の背後にすっと回り込んで、抱きすくめるようにして、釣り竿を一緒に握った。拒否反応を示される前に、一気に釣り竿を引き上げる。ゴールが見えた競輪選手のように、猛烈な速度でリールを巻き上げ、電光石火の早業で魚影がぎらりと海面に浮上させる。お目当てのカサゴだった。

「ひゃっほう、どんなもんじゃい!」と鳩貝は雄叫びを上げる。

 ほっぺたに掌の形がくっきりと残るほど、強烈な浦島茜の一撃が飛んだ。

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