終幕 二
都内にある大学病院の駐車場に一台のセダンが入ってくる。最新世代から幾分か型落ちしたモデルで、塗装は黒く、高級感がある。運転席で浦島茜がハンドルを握り、助手席には鳩貝が瞳を細めながら、サイドミラーで後方を確認している。「オーライ、オーライ、ストップー」鳩貝の誘導で白線の内側に車体が収まると、浦島茜はエンジンを切った。
「なんだ、緊張してんのか?」
「緊張ですか……しているように見えます?」
「おうよ、ハンドルに汗がついているぞ」
浦島茜は慌ててスラックスのポケットに手を突っ込むと、ハンケチを取り出した。白い生地に首を伸ばした亀のシルエットが刺繍されている。
「冗談だぜ」
浦島茜の手が止まる。濁った水音が聞こえそうなほど勢いよく眼球が動き、鳩貝のほうに視線が向いた。
「そういうの、やめてください」
「そういうの、が仕事なもんでね。まあ、落ち着け。一服やるか?」
浦島茜は指先をダッシュボードへと押しつける。そこには禁煙のマークを象ったシールが貼られている。
「ダメだぞ、公用車にシールなんて貼っちゃ。剥がすと跡が付いちまうだろう」
「においを取るの大変なんですよ。もう、庇いきれません」
「管財に言っとけ、臭うならテメエの鼻の穴を埋めちまえってな。二酸化炭素も減って、地球に優しいだろ」
「屁理屈だけは上手いですね」
「やっぱり、褒めてるだろ、それ」
「…………」
「もう、嫌になっちゃうねぇ♪」と唄いながら、鳩貝は寒そうに体を震わせ、車の扉を開けて外に出た。ちらと視線を大学病院の建物にやってから歩き出す。その背後に吸い付くようにして、浦島茜は足並みを合わせた。
院内は混み合っていた。鳩貝はマスクの隙間をぴっちりと押さえて、あからさまに嫌そうなしわを目尻に拵えた。高熱で足下が覚束ないような輩が近寄ってきたら、拳を一撃、叩き込みそうな雰囲気を漂わせている。
浦島茜は視線を左右にやって、目的の人物を認めると、「あっちです」と指をさす。
「おつかれさまぁっす」背中のPOLICEと白文字で書かれた制服を着た警察官が両足を揃えて敬礼をする。
「ぴょんぴょんうさぎ、なんで制服なんだ」鳩貝の目尻のしわが更に深くなった。
「公務だからっすよー」
「周りを見てみろ」
「ぴゃあ、今日は混んでますねえ。大学でラグビーやってたんっすけど、タックルで怪我して、ここで手術をしたんっす。懐かしいなあ」
「オメエのエピソードなんてどうでもいいんだ! 目立つだろうが」鳩貝は右手に人差し指を立てて、うさぎの胸を突く。
「目立つの、上等っすよ。病院でテロなんかも起こるかもしれないじゃないっすか、この間テレビドラマでやってたんすよ……」とうさぎは付け加えた。
「おい、殴ってもいいか?」鳩貝は浦島茜の方に顔をやって訊ねる。
「今、殴ったら、ロングコートを羽織った目つきの悪い男が、警察官に暴力を振るっているようにしか見えませんよ」浦島茜は首を竦めて、「まあ、逮捕されてみるのも悪くないかもしれませんが……手錠はここにありますし」と小声で添える。
「ぴょんぴょんうさぎ、着替えは?」
「ないっすよぉ。警察官たるもの、身分を偽っては、国民を欺くことになります。正義は服装からって、警察学校で習いませんでしたか? はとぽっぽぉ」
「うさぎぃぃ。早く、病室に案内しろ。絞めっぞ。キビキビ歩け、シャカシャカ動け」イライラを隠すことなく、鳩貝がそう言うと、うさぎは「こっちっすぅ」と鼻をほじりながら言った。
「日本の公安も地に落ちたもんだな。こんな奴を任務に宛がうなんて」鳩貝の言葉に、浦島茜は鳩貝の顔を穴が空きそうなくらい、たっぷりと時間をかけて見つめてから、「いや、命令したのは、はとぽっぽですよね」と言った。
一行はエレベーターに乗り込み、十二階で降りた。
転落防止の観点から、病院は階数を抑えて建築されるのが基本だが、都内に建つ宿命として、病室は層を成して積み上がっている。清潔感のあるオフホワイトの統一された壁に囲まれた廊下を歩き、ナースステーションの前を通過する。医療器具や事務用品が雑多に散らかっているが、看護師の姿はない。
「フロアごと、貸し切りっす」
「そこまでしろって命令したか?」鳩貝と問いにうさぎはしばし沈黙をしてから、「妖頭芭蕉っすよ」と言った。
鳩貝が何やら言い返そうとしたところで、うさぎは足を止める。扉には一二八四号室と番号が振られている。うさぎは拳を作って扉を叩いた。意味がありそうな奇妙なリズムで繰り返すと、扉が小さく開く。
「はとっぽっぽをお連れしやしたぁ」うさぎがそう言うと、扉は大きく開いて、スーツ姿の男が顔を出した。
「ご苦労。こちら、オナジアナノムジナ。はとぽっぽが到着した。エレベーターを通過にしろ」ムジナと名乗った男は肩口に留めた無線機に口を寄せて、指示を飛ばす。
「容態は?」鳩貝はベッドの上で上体を起こし、窓の外に顔を向けている人物を眺めながら言った。
「左目の瞳孔が開いたまま反応しません。医師の診断によると、失明している可能性が高いとのことです。意識はありますが、一言もしゃべりません」ムジナは説明書を読み上げるように事務的な口調で言った。
鳩貝はゆっくりと靴の裏で床の具合を確かめるように歩いて、ベッドの向こう側へと移動する。
窓には開けるためのレイルや鍵はなく、しっかりと固定されており、転落防止用の柵があった。窓を背後にして、鳩貝は膝を突き、顔を観察する。
「ひでえな」
田島茜の顔は左目を中心にして包帯で頭蓋ごとぐるりと巻き付けられていた。
空気にさらされている右の顔は肉と骨が本来の位置を忘れてしまったかのようにズレており、歪みがある。地肌が見えるほど短く刈られた髪には、黒っぽくなった血液の塊がべたりと固着している。
鳩貝の後に続いた浦島茜は、田島茜の顔を見るなり、小さな悲鳴をあげた。マスク越しに口元を押さえ、目を背けている。
「田島茜。覚えてっか? 鳩貝だ。ぽっぽさんだよう」
反応はない。時間を失ったかのように瞬きを一切しない右目は、鳩貝を見ていたが、認識できているかどうか判別できない。
「おい、ペンライトをよこせ」
鳩貝の言葉に、「無駄っすよよう。もう、廃人っす」と言いながら、うさぎはペンライトを手渡した。
鳩貝はペンライトのスイッチを入れて、白い光線を出現させると、田島茜の右目に照らした。瞬きはないが、瞳孔が収縮した。
「一応、生きてるのか。排便は? 垂れ流しか」
「ええ。栄養も点滴だけです」ムジナはバインダーに挟まれた資料に視線を落としながら答えた。
「とても、話なんざ聞けねえか。良くなる可能性はあるのか」
「ないっすね。MRIを撮ったんすけど、脳に白い影がたくさん映っていました」
「影?」鳩貝は怪訝そうに顔をしかめる。
「原因は分からないっすけど、医者の話では小さな脳梗塞をたくさん起こしているそうっす。ポン中の末期らしいっすよ。どう落とし前をつけますか? これじゃあ、裁判をやっても無罪っすよお」うさぎは手を挙げて、困ったお手上げをする。
「あのなあ、うさぎ。口は気をつけたほうがいいぞ。田島茜が聞いているかもしれねえだろ」
「なーに言ってんっすか。考えすぎっす。こうなった連中をざっと百は見てきましたが、まともな人間に戻れた奴は一人もいません。きっと、妖頭芭蕉も同じっす」
「その話だが……」鳩貝は田島茜の顔をもう一度見てから、続きを口にした。
「この女は妖頭芭蕉じゃない」
「ハア?」うさぎは掌を天井に向けて、両腕を広げ、首を傾げる。
「妖頭芭蕉は別にいる」
「別って……誰っすか? あの地下に潜った酒造施設を見ましたよね」
「ああ、死体があったな。ああ、思い出したくねえな」
「人間の肉をスコップですくうなんて、初めてやりましたよ」ムジナはかき消すように首を横に振った。
「そんなこの世の地獄みたいなところで、覚せい剤でラリった女が見つかった。指紋がべったりと付着した拳銃を持っていて、マトリの女。鼠取りが鼠にかかったようなもんっす」うさぎはうへえっと気味が悪そうに舌を出した。
「上司の死体もありましたよね。これは推測ですが、薬や殺しがバレたのではないでしょうか? 筋からの情報によると、二人は不倫関係にあったとのことです」ムジナはちらりと浦島茜のほうを見やる。
「あーあ、決まりっすねぇ。ささ、名探偵は安楽椅子に戻ってもらいましょう」
鳩貝はうさぎの言葉を無視して、田島茜を観察していく。そして、彼女の両手にはめられているミトンに注目をした。自傷防止のために用いられるそれは、医療現場では当たり前のように使用される人権に配慮したソフトな拘束具だ。
鳩貝はミトンに手を伸ばして、そっと外した。
酷い有様だった。手首には無数の注射跡があり、常習性を物語っている。
「見てみろ、左腕の肘のところだ」
鳩貝の言葉に浦島茜が近寄って、視線をやる。
「アザ……でしょうか?」
「指の形をしているな。相当な力で握ったらしい。まるで……」
「まるで?」
「失った腕を庇って、止血をしているような……そんな感じがしねえか?」
鳩貝の言葉に、うさぎは右手の人差し指を突きつけて、きゃきゃっと笑う。
「右手も、左手も、ちゃんとあるじゃないっすかあ。大方、幻覚でしょーな。ポン中にありがちなやつ」
「ぴょんぴょんうさぎ」鳩貝は立ち上がると、弛んだ眼瞼をぴくりと震わせながら言った。
「それが大事なんだ。容疑者はどういう幻覚や妄想に駆られたのか。絡まった糸を解すように捜査をしなきゃならねえ。論理的な文章に整え、弁護士と戦えるように物語を構築する。そうしないとな、お前の言うとおり、精神衰弱による、無罪になっちまうぞ」
「いいじゃないっすか。素早く、精神病院にぶち込んじまいましょう。事務仕事、溜まっているんすよねえ、いつも命令ばかりしてますけど、代わりにやってくれます?」うさぎはべえっと舌を出す。
「お前なあ、死んだ者はどうなる? 浮かばれねえじゃねえか」
「運がなかったんすよ。どうせ、妖頭會からばら撒かれた目先の金に目が眩んだ子狐ばかりっす。極めて、妥当な決着と思いまーす」
うさぎは大あくびをする。
それから、田島茜に近づき、その顔をじっとり観察する。
「形はいいんすねえ。人って分からないもんだなあ、美人なのに、もったいなーい」
うさぎは、ふーっと息を吐きかけた。
その吐息が、田島茜の鼻にかかるか、かからないかといったところで、病室の扉が開く。
足音がべたり、べったべた。と乱打する。
品のあるシルエットを描き出す、オーダーメイドのスーツを着た群れが一気に病室を占める。
「キャプテン・チヨダ……」ムジナは資料が挟まったバインダーを両腕から落とし、背筋を伸ばして敬礼を送る。
「キャプテンはよしてくれ。チヨダでいい」
「しかし、どうしてここに……」
「妖頭芭蕉の顔を見ておきたいと思ってね。おやおや、ハトじゃないか。君も妖頭芭蕉の見物かい? めっきり、同期会に姿を現さなくなったもんだから、みんな心配しているんだよ」チヨダと呼ばれた男は優しく、気遣うような口調で言った。
誰もが右手の平を伸ばし、額に当てて敬礼をしていた。
うさぎも直立不動で真面目くさった顔をしている。
ただ、ハトと呼ばれた鳩貝だけが、肩を落とし、チヨダから顔を逸らしていた。
「しかし、妖頭芭蕉が女だなんて、驚いたね。聡明なハトも、こればかりは予想していなかったじゃないかな。まさか、酒を取り締まる側に、酒を卸す問屋が紛れていたなんて。厚労省には貸しができたなあ」リズミカルに喉をナイフで刻むような独特な笑い声をチヨダはあげる。
「違います。キャプテン……」
「チヨダでいいよう。君は確か、ハトのとこの……名前は……」
「田島茜は妖頭芭蕉ではありません!」凛と霧を払うような声音で浦島茜が言い放つ。
質の良い作りをしている金縁眼鏡のつるを持ち上げてから、チヨダは目を見開いた。
ぎょろろと眼球が深海から昇ってきた魚のように、その輪郭が外気に突き出る。
「どうしてそう思うんだい?」穏やかさがあり、温もりがあり、そして、冷たさがあった。
「田島茜は母子家庭に生まれました。高校を卒業後に上京し、地方厚生局に入局。事務職としての採用ではありましたが、その並外れた能力が評価され、捜査職に任用替えされています。彼女には有能な内偵がぴたりと着いていました。あまりにも優秀過ぎて、きなくさい証拠がいくつも見つかったからです。しかし、彼からの報告によると、卸をやるような経済基盤やコネクションは一切ないそうです」
「彼……ねえ。ああ、官房局付けになった特命課長か。特進おめでとう、立派に報告ができるね……浦島茜くん」
チヨダの言葉に、浦島茜は色濃くした恨みを顔に浮かべて、敬礼をしていた右手を下げた。
「上手く、偽装されていたんです。すべてが田島茜の犯行になるように、ありとあらゆるところに彼女の痕跡を残していたそうです」
「なるほど、そんな策士がいたのか。うちで採用したいくらいだな」チヨダは感心したと言わんばかりに、腕を組んで何度も頷いた。そして、意思を持つ水晶玉のようにごろりと眼球を動かし、しっかりと浦島茜を捕捉してから、続きを口にした。
「その策士とやらは目星が付いているのかな?」
「目星……ですか! どうして、そんなことを仰るのでしょう? 報告書は読まれていないのですか?」
「報告書……ねえ、そんなものを見た覚えはないが?」チヨダの首が人形の首のようにぽっきりと折れ曲がり、傾きを作る。
「チヨダの判子が押された決裁文書がありますよ。事務室のキャビネットに保管してあります。一度ではありません。逐次、報告を入れたはずです。はとぽっぽも黙ってないで、何か言ってください」浦島茜は振り絞るようにして言った。
「ねえんだ」
「ない? はとぽっぽも見てないって言うんですか。相埜谷……」
鋭い張り手が永く、響く。
鳩貝の右手は、浦島茜の頬をぶち、振り抜いていた。
浦島茜の頬には朱い暴力の刻印がはっきりと浮かび上がる。
「鳩貝左右衛門ッ!」浦島茜は怒気をたっぷりと孕ませた叫び声を上げた。
その様子をうさぎは面白そうに頬を緩めて、笑っている。
「浦島ァ。ねえんだ。報告書なんてねえ」
「な、何を言っているんですか?」
「わからねえのか! 浦島ァ、チヨダの御前だァ! サツ、続けてえだろ? やめたくねえよな」鳩貝は震えている。
「ハト、暴力はだめだ。もう、そういう時代じゃないって、君の口癖じゃないか」チヨダは切って貼ったような微笑を口元に湛えたまま、太くて整えられていない眉尻をしょんと垂らして、鳩貝の顔を見やっている。それから、視線を浦島茜のほうに戻し、訊ねる。
「報告書にはどんなことが書いてあったのかな?」
「相埜谷酒之助のことです。最初の殺しである実父のことから、歪な兄妹関係、海外から酒を輸入するルート、地下に潜った酒の流通網まで。全てが書かれていました」
「浦島! 黙れ、黙るんだ。まだ、間に合う。俺が、必ずどうにかする。だから、黙れ」
鳩貝は狂ったように叫ぶが、浦島茜は聞く耳を持たない。
「政治家との癒着もあります。飲酒解禁派にも、飲酒謹慎派にも、真っ黒な金が流れていました。チヨダ、田島茜は妖頭芭蕉ではありません!」
餡が透けて見える練り切りで形を成したような白いチヨダの鼻が動く。瞳をぷっつりと細め、口をもごもごと動かした。
「臭うな」ぼつっと飛び出したチヨダの言葉に、傍らで彫像のように微動だにしなかったスーツの男が、手に提げている革の鞄に手を突っ込んだ。
「な、何がでしょうか?」
「酒のにおいがする。おい、アルコール検知器はあるか?」
チヨダの言葉に重ねるようにして、手の中に装置はあった。スマートフォンと同じくらいの大きさのディジタル機器のボタンをチヨダは間髪いれずに押す。引き締まるような空気には場違いな電子音がけたたましく響いた。
アルコール検知器と浦島茜の口元には距離があった。
丁度、政府から流布されたソーシャルディスタンスくらい。
「酒類取締法違反の現行犯だ。両手を頭の後ろで組んで、跪け。おい、手錠だ。拘束しろ」言葉に反して、チヨダは落ち着いていた。つまらない活字が並んだ文書に判を押すのと同じように、部下に指示を飛ばす。
「い、言いがかりです。はとぽっぽ、助けてください」浦島茜は一歩、二歩と後ろに下がる。そして、鳩貝の体に背中がぶつかった。浦島茜は踵を返して、拳を作り、鳩貝の胸を懸命に叩く。
鳩貝の顔には様々な感情が層になって、形容が困難な形相を作り出している。
「いや、いや、助けて、ぽっぽさん、お願い!」
「……ち、ちよだァァ」鳩貝の右手が腰へと伸びる。
チヨダの唇の端が並の人間には決して表現できないほど屈折する。
もはや、眼窩からその身のほとんどを這い出した眼球が、たらたらと汗を垂らしながら鳩貝を凝視する。
誰もが動けなかった。
権力のにおいがする見えない鎖が、十重二十重と空間を這って、桜の代紋と契りを結んだ人間を縛りつけていく。
そんな喧騒を、それは見ていた。
殺していた呼吸音のデシベルを上げ、瞬きの回数を増やし、ミトンの形に委ねて張りつめていた掌を弛緩させる。
挙動に気づいたものは誰もいない。
チヨダによる、捕り物に夢中だった。
それの眼球はゆっくりと左腕の方角に向く。確かな形を確認すると、親指だけ微かに動かした。爪の先が意思と連動して振れるのを見て、青紫色の変色した唇がにんまりと三日月を作る。
動いた。先ほどまで、侮蔑的な発言をしたうさぎの背後に回り込み、右腰に吊っている拳銃をホルスターから引き抜いた。銃口を右耳の穴にねじ込み、先ほどの仕返しと言わんばかりに、そのうなじにたっぷりと息を吹きかけた。
刹那――――、スーツの男たちは、銃を抜いた。
銃口は一斉にそれ――――田島茜を狙っていた。
「へえ、ハムにしては意外と動けるのね」悪魔と喉仏を交換したような声で田島茜は言った。
「ちょ、マジ? 冗談っすよね」うさぎはそう言いながら、体を動かそうとして、「死にたいの?」と田島茜に釘を刺され、大人しくなった。
「わーお、これが妖頭芭蕉! すごい、すごいね。医者が再起不能って診断したんでしょう? 右目は瞳孔が開きっぱなしで、あらゆる検査で反応を示さなかったっていうじゃないか。それなのに、拳銃を奪って、人質を取るなんて。夢でも見ているみたいだ」チヨダの唇をむにゅりと剥いて、歯を見せた。血を吸うのが得意な鬼のように、犬歯が異様なほど長く、鋭い。
「あなたがチヨダね。噂は聞いているわ。決められたある年に最も優秀な警察庁に属する警視正ポストの人間が突如として組織図から抹消される。そして、消えた人間にはチヨダという名前だけが与えられるの。そこのぽっぽさんがなり損なったポストね」
チヨダは黙ったまま、右手に持っていたアルコール検知器をポケットの中へとしまいこんだ。
「チヨダ。相埜谷酒之助はどこにいるの? 匿っているんでしょう。国家にとって、相埜谷酒之助は必要な存在。だって、もうすぐ酒類取締法は撤廃されるから。政権与党で内々に話がついているのよね」
「誰から聞いたんだ?」
「酒之助に決まっているじゃない。あの子はおしゃべりだから。酒が入るとなんでもしゃべっちゃうの。自分はどんなことをしても絶対に逮捕されないって自信を持っていたわ。だって、酒の全てを手中に収めているから。法律が撤廃されても、肝心の酒がないと、どうしようもない。酒之助だけが酒が流れる大動脈を動かせる。国内の醸造メーカーを復活させるにも、彼が握るレシピが必要だし、日本に古くから存在した酵母菌だって、彼しかサンプルを持っていない。輸入を再開させるにも、彼の伝手なしじゃ見向きもされないのよね。外交で解決するまで、世論を抑えることはできるのかしら?」
「撃て」
チヨダの周囲をがっちりと固めるスーツ陣にどよめきが走る。
「しかし……」
「撃つんだ。国家の安全に関わる」
「人質が……」
「構わん、ぴょこぴょこうさぎだったかな。彼も公安の人間だ」
右耳に銃口を押し当てられたうさぎの顔からは表情が溶けて、滓のような残像がこびり付いていていた。「キャプテン・チヨダ……」と精一杯の懇願をするが、チヨダは黙殺する。
「ああ、ダメね。人命は国家より、軽い」と田島茜はひとりごちた。
銃を握ったスーツの一人が意を決して、引き金に人差し指をかける。緊張のためか、銃口が左右に僅かに振れた。それを見て、田島茜はうさぎに突きつけていた銃口を背後に向けて、流れるままに引き金を引いた。
発砲音が迸り、空薬莢が宙空へと弾け飛んだ。
室内に明かりを呼び込んでいた窓ガラスは粉々に砕け散り、強風が流れ込む。
チヨダやスーツの連中、うさぎやムジナは顔を背けた。各々の銃口はしっちゃかめっちゃかに動く、とても、田島茜を狙い撃つ余裕はない。
そんな強風の中で、鳩貝は目を開いていた。瞬きひとつしなかった。
田島茜はうさぎを突き飛ばすと、風が吹き込む窓辺の桟に飛び乗った。ガラスの破片が食い込み、血が飛び散るが、構う様子を見せない。
そして、転落防止用の柵を乗り越え、その身を下界へと投げようとした。
「やっぱり、狂ってやがるか」鳩貝はそう叫び、窓辺へと走りだす。
鳩貝は窓に飛びつき、転落防止用の柵から上半身を乗り出して、田島茜の自殺を阻止しようとした。
女一人くらいなら、引き上げられる。鳩貝は腕力に自信があった。
田島茜を救うために伸ばされた鳩貝の右手はぐっと重くなった。まるで、そこだけアイザック・ニュートンが地球で通用する重力の法則を書き換えたかのように、激烈たる剛力が手を引っ張った。
鳩貝の体が宙に浮かぶ。
体重六十五キログラム、程よく鍛えられている肉体は、先ほど田島茜が辿った経路をなぞるようにして、病室から外へと押し出された。
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