第参幕 十

「そう、良い感じ。ちゃんと、化けられている。仮面は取っちゃダメよ。田島茜だってバレないようにしなきゃ」

 狭い空間に体をねじ込むようにして、入ってきた茜ちゃんはそう言った。茜色の着物を着て、画用紙にクレヨンで「じゆうにかきました!」という感じの狐の仮面を被り、三味線を握りしめている。三味線の先端である、天神には掌ほどの小さな狐の仮面がぶら下がっていて、長く伸びた鼻の部分は燭台になっていた。

 ゆぅらっとろうそくの炎が広がって視界を作った。

「あなたが茜ちゃんなの?」

「そう、浦島茜。あなたが田島茜ね」

「うちを知っているの?」

「もちろん、パパから何度も聞いたことがある」

 パパという言葉に背筋を刷毛でなぞられたようなむず痒さが走る。

「パパは死んでしまったわ」

「知っている、見ていたから」茜ちゃんは塩気のないスープのような声でそう言うと、「悲しいね」と付け加えた。まるで、ずいぶんと前から知っているといった口ぶり。

 あの場には茜ちゃんの姿はなかったけれど、酒樽の後ろにでも隠されて、こっそりと様子を窺っていたのかもしれない。出てきてこなかったのがせめてもの救いだわ。茜ちゃんを守りながら、酒之助や銀狐と戦うのは難しかった。

「ここはどこなの?」うちは薬剤を注射されてしまった瞬間に切れてしまった意識の断片を現在に繋ごうとする。

「ここはね、相埜谷酒之助と田島茜を司る精神の舞台裏」

「どういうことかしら、分からないわ」

「分かるように説明するとね、田島茜はもうすぐ死ぬってこと。薬物が致死量を超えて、口から泡を吹いて、痙攣を起こしている。呼吸数は落ち、まもなく心臓が止まる」

「嘘でしょ」何度も首を横に振った。

「それでもね、あなたは立っている。相埜谷酒之助に一矢報いようと、命の端っこでまだ頑張っている、そんな最期の雌雄を決する場所」

「…………」

「田島茜は、まだ生きていたいの?」

 顔を上げた。

 息を吸った。

 切り取った爪の破片のような形をした仮面の穴から、茜ちゃんの仮面を見る。生きたいに決まっているじゃないという言葉が喉元まで出かかった。が、勢いは死ぬ。

「今までの田島茜の人生は苦しかったよね。でもね、これからはもっと苦しいよ。ベッドで寝たきり。薬物依存症の治療は想像を絶する、パパを殺した容疑を被せられ、薬物の罪と一緒に監獄へ入るのは必至、もう酒類取締官の地位もない。どん底で這い回るしかない。客観的な立場で助言をするとね、死んでしまったほうがいいと思う。来世でやり直してみるのが賢明。この命は捨てるべし」

 ひとつ、ひとつ、言葉が縫い針のように鼓膜を突き刺す。しかし、ずっと前から答えは決まっていた。奥歯を噛みしめるいつもの癖が、きんとした痛みを生んで上顎を駆ける。

「うちって恵まれているわね」

 茜ちゃんは不思議そうに首を傾げた。

「普通はね、選べないと思うの。心臓が止まったら、再起動せずに死ぬ。でも、こうして、選択肢が提示された。ねえ、あなた、ピエールの差し金でしょう」

 茜ちゃんは三味線をぽろんと掻き鳴らし、悲しげな和音を奏でる。是とも非ともつかぬ調べは、広がりを見せぬうちに溶け出したラムネ菓子のように解けていく。

「生き物は役目が終わったら、選ぶ間もなく滅びる。それまでは頑張りたいわ。それにね、うちが死んだら、ピエールのことを想う人が減ってしまうでしょう。好ましくないわよ。狂おしいほど、愛した人よ。この気持ち、もう少し地球で引きずっておきたいの、うちはね、そのくらいはセンチメンタルで乙女なの」

 笑った。涙がしずしずと音を立てることなく、頬の曲線をなぞるのが分かった。仮面って素晴らしい。誰にも見られることはない。なるほど、だから社会に出たら見えない仮面を被るのね。

「田島茜のことをパパが好きだって言った理由が分かった気がする。ママもいい女なのよ、顔立ちは整っているし、胸もあるし、良い大学を出て頭がいいの、名の知れた商社に勤めている。でも、ママにはないものを田島茜は持っている。ここで死んでしまうのは本当に惜しい」

「そう言ってもらえて光栄だわ」

「覚えた? 一言一句、一挙手一投足、間違えないでね。下書きは、もう、誰もが知っているから。だから、ちょっとでも違和感を悟られたらつまみ出される。チャンスは一度きり、何度も繰り返せるほど甘くない」茜ちゃんは人差し指をぴんと立てた。桜貝のような淡紅色をした爪には羨ましいほど若い艶が浮かんでいる。

「分かっているわ。そういう、設定なのでしょう。薬物中毒者が見ている夢」

「そうかもしれない。今度は本当に会えるといいね。浦島茜はあなたに会うのを楽しみにしているの」

 ふっと、ろうそくを明かりが消えた。暗闇が光を滅する。

 息を吐いた。

 幻覚だって分かっていた。

 幻覚? 

 本当に? 

 今際の際なんて、科学的に証明されたわけじゃない。

 確信は持てないけれど、ここはうちにとって現実なのかも。

 そういう希望があるから、手足は動く。

 座して死ぬくらいならば、賭けよう。生きる方へ全て、最大レバレッジで。

 両手の手指をがっちりと組み合わせて祈る。

「お願い、守って、ピエール」

 仮面の下で小さく呟くのと、

 壁に亀裂が走ったのは同時だった。

 夜空が砕け散ったかのように光が蘇る。磨き上げられた革靴が眼前の空間を穿つ。

 目を見張ったが、驚きは最小限に押しとどめる。決闘の幕が上がったのが分かった。

 鼻を小さく動かす。濃縮されたアルコールのにおいに隠れるようにして、知ったにおいが混ざっている。蒸れた汗の香。

 相埜谷酒之助。

 激烈な殺意が表皮の裏側でさざめく。怨念が筋繊維を動かし、右腰に手を誘導させる。そこにあるべき銃はない。

「な、何をしているのかしら」

「器物損壊! 警察を呼びなさい」

 異なりを見つけるのが難しいほど似通ったふたつの声が、焦りと動揺を表明する。金と銀だわ。酒之助を慰撫するためだけに生み出された存在しないゴールドと、愛人ごっこを続けるシルバー。哀れなコンビ。

「お嬢様、バレましたね」最初の台詞を完璧に発音する。金狐と銀狐とは接点があったという演技。そういう筋書きらしい。

「むぎぃ。失敗したのだわ。ポーカーテーブルの中に隠れるって金狐が言ったのをまともに受けてしまった」

「銀狐の提案じゃない。わたしはやめたほうがいいって言ったのに。名案だ。銀狐は天才なのよって言うから」

「わふう」

 金狐と銀狐は両腕をぶんぶんと回転させて、互いを攻撃している。

 うちのミスがなければ、相手は決まっているシナリオどおりに動く。

「相埜谷酒之助様、どうして分かりましたか?」

 プラスチックの破片を丁寧に払いのけて、立ち上がった。酒之助を見下ろす目線の高さに動揺する。うちの肉体ではないのは明らかだった。誰かを模した被りもの。懸命に馴染む努力をする。ここはうちと酒之助の精神が絡み合った世界。うちの被りものは酒之助の記憶から抽出された何らかのメタファーなのだと、茜ちゃんは話をしていた。

「横浜港で、コンテナを蹴飛ばして、酒の密輸を暴いたのを思い出したのさ」

「なるほど、あのトリックは白狐が考えましてな。やはり、暴かれた謎をもう一度据え付けるのはよくありませんなぁ」日頃から煙草でも吸っているのか、違和感がすごくて、咳払いをしたくなるが、我慢。一体、この体は誰をモチーフにして作ったのかしら。

 仮面の表面を覆った毛をずりずりと撫でる。これも、このタイミングでやるように茜ちゃんに指導を受けた。毛皮ということは、うちが被っている仮面も恐らく狐。白狐ということは、毛の色は白、いかにもラスボスっぽい感じ。

「お前、何者だ。スピークイジーにもいたよな」

「ああ、よく覚えてらっしゃいますね。あのときはバーテンダーをやっておりました。ジントニックは美味しゅうございましたか」スピークイージーという言葉に狼狽える。あそこで注射を打たれたのだ。コミカルに動く銀狐の姿が目に入った。言葉にするのが難しい感情が肋骨の背後で根を張る。

「なかなかの腕前だったよ。ライムの香りが飛んでないのが最高だった」

「ほう、檸檬の味がすれば良いとする殿方が多いですがね。あの香りを感じ取れるのなら、相埜谷酒之助様はなかなかの御仁。特別に正体を明かして、しんぜましょう」

 人差し指と中指をハサミのように立てて、スーツの胸ポケットから一枚の紙切れを取り出す。

 胸元にある茜色の蝶ネクタイが視界に入る。皮肉が効いているわね。気づけるものなら気づいてみろという布石。酒之助が白狐の正体は田島茜であると看破したら、うちの負けというルールだと、茜ちゃんは言っていた。

 紙切れには『酒類取締官 相埜谷酒之助』の文字があった。

「へえ? あいのやさけのすけ?」

「白狐と呼ばれたり、妖頭芭蕉と呼ばれたりしますが、本名は相埜谷酒之助にございます」

「相埜谷酒之助は僕だろう」

「確かに、そうでございますね。僕と称する相埜谷酒之助様もおります。それは、あなた様のことです。ええ、これは間違いございませんよ。しかし、僕は僕しかいないと誰が決めたのでしょうか? 地球の裏側には同じ顔をした生命がいるかもしれませんよぉ」

「そんなことはあり得ない!」いいぞ、怒っている。このまま、奴の精神の根っこに掌を伸ばす。シャブを打った直後のような高揚感がぞくりと目を覚ます。ああ、欲しい。もう一度、あの薬物に会いたい。唾液が湧く。子宮が疼く。耳鳴りがすっごい。まぶたにぴくりと痙攣が走る。

「そう、自信を持って断言ができる根拠はどこにございましょうか? 僕は……この場合はオリジナルの相埜谷酒之助様の僕ですが、僕以外の存在が頭の中に棲みついていることを知っていますよね」

 誤りはない。一瞬の沈黙も計算のうち。全ては巧妙に仕組んでいる。酒之助を奈落へと誘導するのよ。

「それは、相埜谷酒之助様の声でもあり、白狐のものでもあり、探し求めてきた妖頭芭蕉のものでもあります。我らは一心同体なのであります。密接不可分であり、切れ目がなく連鎖した自家撞着なのであります」

「てめぇなあ、ごちゃごちゃと抜かしやがって。お前が妖頭芭蕉なのか」

「そうですよ。妖頭芭蕉にして、相埜谷酒之助です。酒の違法流通を一手に引き受け、血なまぐさい殺人をやってきました」一体、どれほどの人が死んだのだろう。全容をうちだけでは観測できない。きっと、見つかっていない死体もたくさんあるに違いないわ。殺しの快楽って、覚せい剤よりも勝るのかしら。

「間違っている」

「何が間違っているのでしょうか。認めたくないだけでは、嗚呼っりませんかぁ? まさに、現実逃避という言葉がお似合い」笑う。カタカナのヒを卸し金ですり下ろしたかのように。狂気を植え付ける。うちは酒之助にとっての恐怖の対象。

 ああ、そうか、白狐のモデルはきっと、あの探偵を名乗る鳩貝だ。深層心理では彼に逮捕されることを恐れているのかも。現実を切り刻んで作られた精神世界はよくできている。

「そうやって、わたしを作ってきたのでしょう?」

「そうやって、あたしを作ってきたのでしょう?」

 金狐と銀狐の言葉が割って入る。

 個性的で、てんでばらばらだった狐たちの仮面が変わる。人間の顔。双眸があり、げじげじとした眉があり、どっしりとした翼が生えた鼻に、皮がめくれて肉厚の唇。

 相埜谷酒之助の顔。

 時間の共に変わる表情をひとつずつ顔面から削ぎ落としてきたかのように、それらは各々に違いがあった。

「な、なんだその顔は!」自分の顔を再発見したかのような声。確かに、そうかもしれないわ。自分の顔なんて、鏡で反対にしか見たことがないもの。

「驚いては困るわ。酒之助の顔でしょう。わたしたちは酒之助によって作られたの。だから、酒之助の顔を持っていてもおかしくはないわけ」金狐は言った。

「この顔はあまり表に出したくないのだわ。不評なのよ。不細工で、弛んでいて、醜い。美しい銀の狐が台無しなのだわ」銀狐は言った。

 それにしても子狐たちははひどい出来ね。

 デッサンが傾いていたり、

 目が左右対称になっていなかったり、

 鼻がぐにゃんと曲がっていたり、

 わざとにしても、酒之助に対する悪意が相当に強いわ。

 それもそのはず、ここにはうちの精神も反映されている。

「狐はみんな僕だって言いたいのか!」

「そうでございます。真相は分かってみると呆気ないものですね。謎は謎のままにしておいた方が美徳だと、白狐は思います」

 うちの仮面は変わらない。ここは、大事なポイント。

「お前も僕なのか? 他の狐と同じように、顔を晒さないのか」

「おやおや、白狐の顔が見たいというのですか」キタ、食いついた。じっくりと、駆け引き。そのタイミングはもう少し先。

「そうだ。お前も僕なのだろう。ならば、僕の顔を持っているはずだ」

「確かにその通りでございます。しかし、白狐は顔をお見せしたくないのです」

「なぜだ」

「それはですねえ。相埜谷酒之助様が白狐の顔を見てしまうと、死んでしまうからです」

「ウィリアム・ウィルソンか」

「そうです。ウィリアム・ウィルソンを標榜する者としましては、オリジナルが死んでしまうのは困るわけです。相埜谷酒之助様が死んでしまったら、オリジナルの近似値として位置づけられている、いかにも主犯格っぽい白狐が相埜谷酒之助様を演じなければならないではありませんか。密造酒の違法流通のスキームを引き継ぎ、連続殺人の連続性を維持し続ける。それ、大変ですよ、オリジナルの相埜谷酒之助様、どうやってやればいいか教えてくれませんか?」

「やめればいいだろう。酒を流通させるのはよくない。人殺しなんて言語道断だ。常識だろ」

 支離が滅裂とする。論理と倫理がぐっちゃぐちゃ。罪を犯す人の弁ってみんなそう。

「アラ、キレイゴト言っちゃって。だから、女の子にくさいって言われるのよ?」金狐は酒之助を焚きつけ。

「狐との逢瀬を妄想しながらするオナニィするのって楽しいの? いい加減さあ、やめようとは思わないわけ?」銀狐が酒之助を煽る。

 酒之助が咳をする。肺の袋が口の中から飛び出しそうなほどひどい。顔も赤く、目玉の白も充血をしている。唇の端っこに泡が溜まっている。もうすぐ痙攣が始まって、彼も死ぬのかもしれない。うちと同じで覚せい剤もやっているのかしら。

「コロナかも」金狐は言った。

「隔離しなきゃ、殺処分をしないと」銀狐が提案をする。

「ワクチンは五回も打った。僕は健康で、健全で、文化的だ」

「っていう、洗脳でしょ?」

「PCR検査が必要ね。ついでに、アルコール検査もしておきましょうか」

「しらふだ。酒なんて呑んじゃいない」

「あ~あ、ついにボロが出ましたねえ。この、大嘘吐き。あのテーブルはもう見えないんですか? グラスが折り重なるピラミッドを視認できますか? 呑んだのですよ? それを覚えてないというのですか。客観的証人はたくさんいますよ」どれだけ嘘を吐けば気が済むのかしら。現実を歪め、都合の良い妄想に入り浸る。見るのも嫌、近づくのも嫌。それでも、うちは狐になりきる。

「そういう、嘘をつくな。僕は一滴の酒だって、口にしていない!」

「落ち着いてくださいませ、相埜谷酒之助様。あなた様はちぃとばかり、偏っておるのですよ。そういう人間は塵や芥のようにたくさんおります。大切なのはですね、バランスなんです。手を広げ、多様性を受け入れ、他者の意見を聞き、常識を身につける。しばし、お待ちくださいまし、まもなく全ての記憶は連結されます。自分が妖頭芭蕉であると認識して、そういう風に立ち回れるようになります。情報量が多いとですね、遅延してしまうのです。脂でできた前頭葉の働きには限界がありますから。適宜休息を取り、栄養を補給し、再稼働させてやる必要があります」

 右手の人差し指と親指を擦り合わせて、パチンと弾く。言うなれば魔法。失調し、分裂した精神を統合させるための。

 酒之助は頭を抱えた。上半身を振り子のように振って、耳を覆いたくなるような奇声を発する。彼の頭の中でどんなことが行われているか分からない。が、想像できる。連鎖的フラッシュバック。うちも毎日のように悩まされるそれは、全身の感覚器官に記憶の粒が埋め込まれているかのように鮮やかで立体的。

「お祭りはもうおしまい」

「広げた風呂敷は畳まなければならないの」

 金と銀の声がぶつかるようにして甲高く響く。終演は近い、そろそろ幕引きね。

「完成しました。相埜谷酒之助様が狂った殺人鬼であることが」

「全部、僕の犯行だって言いたいのか」

「そうでございます。オリジナルの相埜谷酒之助様」

「ふざけるな。妖頭芭蕉、お前を逮捕する」

 酒之助は右腰のホルスターから銃を抜き放った。

「あら、自分を殺そうっていうの? 考え直したほうがいいわよ」

「自分の行動をよく見て、大変なことになるわよ」

「うるさい、うるさい。その化けの皮を剥ぎ取ってやる」


 手が、伸びる。それは緩慢で、幻想的で、骨なんて存在しないかのように波打っていた。

「人が最も無防備になる瞬間っていつだと思う?」

 台詞や筋書きを教わる前に、茜ちゃんはそんなことを訊ねてきた。

「寝ているときかしらね」

「田島茜は寝ていても、危険が迫ったら銃を握るくらいしないの?」

「確かにそうね、じゃあ、どんな場合かしら」

「誰かの正体を暴こうとすると、人はね、防御を忘れるの。目の前の謎に夢中になってしまうから」

「つまりは、酒之助の前に謎を提示し、正体を暴かせようとさせるってこと?」

「理解が早いね。でも、田島茜だって分かってしまったら、奇跡は起きない。田島茜はセオリーどおり、相埜谷酒之助に殺され、全ての罪を背負った妖頭芭蕉の死体になって、世の中にデビューする」

「薬物をやっているから、いくらでも理由は付けられるってわけね」

「危険な賭け。チャンスは一瞬で、一度しかない。本当はこんな茶番劇は実現しない。でも、誰かが祈ったの。田島茜に生きるためのチャンスを与えてやってくれって」

「ピエールのこと?」

 茜ちゃんは何も言わなかった。

 でも、うちはそれがピエールのことだと信じることにした。

 救われるのは信じる者だけ。

 意識を目の前で進行している事実へと向ける。ここまでは用意された台本があった。ここからは自分で作らなければいけない。

 伸びゆく、酒之助の手を掴もうとする。仮面を剥ぎ取られてしまったら、うちは負ける。拮抗させる必要がある、手を押しとどめ、払いのける。難しいことではない。奴はもう、うちの仮面を剥ぎ取ることに夢中だから。

 手指を広げ、酒之助の手首を握る。が、砕けた。水分を失った砂像のように形を失い、粒子となって掌から崩れ落ちる。

 驚愕が目玉から飛び出そうになった。クエスチョンマークが火花のように散ってばらけた。顔を上げ、視線を手首から酒之助の顔にやった。

 わ、笑っている。

 唇の端っこを痙攣させて、

 つばきの泡を撒き散らしながら、

 歯を見せている。

 気づいたってこと?

 うちが田島茜であると、看破したの? 

 言い間違いはなかった。

 動作も茜ちゃんの言うとおり忠実に再現した。

 うちは完璧だったはず。

「覚せい剤って、怖いよな。意識とは関係なく目が震えてしまうんだから」

「……」句が継げない。心臓の鼓動が一拍、二拍、飛ぶ。

「少なくとも、お前は僕じゃない。分裂し、増殖し、嘘を嘘で塗り固めた僕じゃない。自分のことはね、自分がよーっく分かっているんだ。僕の妄想に入ることを許しているのは吟子だけなんだ。お前のせいで、何もかも台無しだよ」

 金狐も、銀狐も、無数の子狐たちも、動きを止めていた。身じろぎひとつしない。

「誰なんだろうな。覚せい剤に依存して、幻覚や幻聴に苦しみ、それでも義を貫こうとして銃を握る。多分、女だよ。吟子が嫌っているから。彼女は僕に付く、悪い虫が嫌いでね」

 絶対に知っている。

 田島茜と口にしただけで終わるのか?

 仮面を剥ぎ取ったら終わるのか?

 ルールは? シナリオは? プロットは?

「分かってないね。そんなものは存在しないんだよ。お前は誰かが考えた、お粗末なシナリオに沿って、生きているのか? ああ、つまんねえ女だな。そんなことだから、お前は豚の性欲の捌け口にしかなれないんだよ」

「ピエールを侮辱するなああああ! あの人は、そんな男じゃない」密集した絶叫が決壊する。しゃがれた喉が裂けて、毒針を飲んだような痛みが走る。

「気持ちわりいんだよ、お前は死体になって、めそめそと、金髪野郎を想って泣き続けるといいさ。お似合いの末路だよ」

 ああ、ああ、ああ。

 悲鳴が喉の奥で暴れ回る。

 生まれてから一度だって消えることがなかった小さな炎が消えようとしていた。

 あと、どのくらい頑張ればいいのだろうか。

 あと、どのくらい劣等感に苛まれればいいのだろうか。

 あと、どのくらい悪い評価に甘んじればいいのだろうか。

 幸せなんていらない。

 普通でいい。

 それは絶望的に遠く、段差があり、裂け目があり、茨が蔓延っている。

 普通は高望み。求めた代償は重い。

 死のう。

 生きていたって、ピエールはもういない。

 あの人がいない世界に何の価値があるというのか。

 手が伸びる。地獄へと誘う手が、うちを迎えにやってきた。

 その手に焦点が定まらない視線をやる。

 奥歯を噛んだ。

ぐ、ぐやぢゐ。

 どうせ死ぬのならば、ピエールにちゃんとお別れを言いたかった。お通夜やお葬式にも参列したかった。仏壇の前を手作りのお菓子で山盛りにしたかった。月命日にはお線香を上げて、命日には墓参りをして、墓石の前でブルーシートを敷いて、お弁当を広げながら、一人でずっとピエールに話しかけたかった。一緒に呑もうと約束した、とっておきの甘いお酒はまだ封も開けていない。でも、彼はキリスト教徒だから、仏壇やお線香じゃなくて……。

 触れたのは多分、中指の爪だけ。

 間一髪、膝を曲げてしゃがみ込んだ。鼻腔に溜まった鼻水をじゅじゅっと吸って、吐き出し、呼吸を確保する。

 そんなことで、田島茜は死なない。

 臼歯が砕ける音が脳天を衝く。

 頭の中枢は今までに感じたことがないほど、冷え切っていた。シャブ中毒の高揚感は微塵もない。

 次に何をどうすればいいのか、明確に理解をしていた。

 右手に拳を作る。

 親指は折れないように人差し指にしっかりとくっつける。指の第三関節と肘の位置を平行にして、脇腹をしめて、背後に引く。腹の底に溜まったガスを押し出すように、息を吐く。酸素をモヤセ。発熱シロ。

 人体の中で最も柔らかく、衝撃に弱い箇所を狙う。

 一撃で、酒之助は膝を突いた。両手を畳に付けて、両肩を震わせ、嘔吐する。

 可哀想ではなかった。そうね、お似合いの末路。

 追撃は背中に落とす。吐瀉が止まり、のたうち回って、痙攣する。

 全然、足りないわ、

 追い打ちは……と、拳を引いたところで、金切り声があがった。

 拳を開いた。固く握ったせいで、爪が食い込んでいて、掌から血が滴っている。

 右目の景色と、左目の景色は同じだった。仮面は外れ、体表には酒でジメッと湿った官服の感触が蘇ってくる。ポーカーテーブルはない。狐の仮面がびっしりと埋めつくされた壁もなかった。床はコンクリート敷きで、巨大な樽がいくつも並んでいる。血溜まりの中でピエールが倒れていた。酒之助も倒れていて、その体に銀狐が覆い被さっている。

 ここはどこかしら。首を傾げる。骨が小気味よく鳴った。

 戻って……来られたのかしら。

「もう、兄さんを殴らないで」

「殴らないで? ピエールを殺したのよ」

「やめて、あたしの兄さんが死んじゃう」

「まだ、酒之助は生きているじゃない。ピエールは死んでしまったのよ。何人殺したのよ、何人アルコール中毒にしたの、うちの健康な体は? それで、兄さんが死んじゃう? 頭が……」

「頭がおかしいのはあんたよ、田島茜!」

 酒之助に覆い被さっていた銀狐が顔を上げる。その面を直視して、うちは口を閉じることを忘れた。

 相埜谷酒之助の顔。

 目を擦った、

 瞬きを繰り返した、

 頬に張り手をした。

 だのに、どう見ても、相埜谷酒之助だった。

 コンクリートの床に倒れている相埜谷酒之助は背を向けていて、その顔を拝むことはできない。もはや、なんと呼んでいいか分からない銀狐は左手に何かを握っていた。熱した黒曜石を溶かしたような闇色をした鞘から、それは抜き放たれる。

「ぎんぎんぎぎん」酒之助の顔をした銀狐は声の調子を変えるのをやめた。野太く、男らしい、事務室で何度も聞いたあの声で銀狐のようにしゃべる。

 美しい動きだった。上半身を左に捻って、刀の助走経路を確保し、腰を落として、下段に構える。的の中央を射貫くことが約束された弓矢のように、銀色の酒之助は駆け出した。酒之助の顔のままで、その底なし沼のように黒ずんだ瞳は、明らかにうちの首を狙っていた。

 倒れているのが酒之助ではないの?

 いくら兄妹だからと言っても、男と女の差分はあるはず。が、眼前に鬼気として迫るニンゲンはどう見ても、戦闘術を心得ている男でしかない。

 耳の奥に雷撃の音が聞こえ、フラッシュバックの稲妻が視界を覆う。いつか、見た妄想の欠片。己を守るために、左腕を捧げた。三度目の、

「デジャ――――」ヴという言葉は小太刀の一振りを回避するために、千切れ飛んだ。

 受け身を取りながら前方回転し、地面に転がっている拳銃を回収する。達磨のように丸めた体を伸び上がらせ、銀色の酒之助の挙動を注視する。背後に回り込んだ形を取ったのに、狐はもう体の向きを変えている。

 驚きが意識を追い抜く。

 あり得ない。下段の構えから胴体を斬ろうとしたのだ。当然に、小太刀を振り抜いたはずだし、背中を反らした体勢から即座に反応するのは難しいはず。

「シナリオだよ、茜先輩。お前が、前方回転をして、拳銃を回収する。そういう筋書きなんだ。僕に簡単に殺されちゃったら面白くないからね」白目を剥いて、ヒステリックに笑う。

「そして、シナリオはこう続く。銃口をうつ伏せで伸びている僕に向ける。そのために計算したんだよね。どういうルートで転がって、拳銃を回収し、僕の体の側に陣取れるか」その体に銃口を向けようとした手を止める。いつもの癖で、引き金に触れないようにしている人差し指が震えていた。

「撃ちなよ。撃てばいい、それで終わりだ」

「嫌よ、撃たない。刀を置いて、両手を挙げなさい」

「嫌だと言ったら?」

「撃つわよ」

「撃つと言ってみたり、撃たないと言ってみたり。優柔不断だね? まるで課長を見ているようだよ。僕はどっちでもいいよ。僕が死んでもね、僕はいるんだ。僕の親父もね、僕みたいなものだったんだよ。金で雇った子狐たちもさ、拡張された僕なんだ。その足りない頭で理解できるかな。僕はね分裂して、際限なく増殖していく。細胞組織の複合体としては、それは自然なことだろう。それらの統合は難しいんだ。分裂を辞めた退化した人類には分からないかもしれないけどね。だから、僕は僕を定期的に処分しなきゃいけない。そうしないと、僕が僕を保つことが難しくなる。言わば、アポトーシス、増殖制御機構として管理、調節された能動的な死でしかない。それを、人々はこぞってこんな風に呼ぶけどね……ひとごろ」

 シイィっと歯の隙間から息を吐く音が聞こえて、銀色の酒之助の姿勢が低くなった。きっと、銀色の酒之助はうちを殺して、こう言うのだろう。「お前も僕だったのさ。全てのアポトーシスの責任を被った、妖頭芭蕉の死体」そんなわけないでしょ。

 両手で握った銃を正眼に構える。当てる自信はあった。ただ、急所を外したところで立ち止まるとは到底思えなかった。太股を狙って転倒させるか、肩を撃ち抜いて、小太刀を握れなくするか。

「心臓を狙え田島茜」酒之助の声がした。銃口の先にいる銀色の酒之助は口を開いていない。両の足に掴まれる感触が走る。思わず、狙いから視線を離し、足下に移す。うつ伏せのままの相埜谷酒之助がうちの足を掴んでいた。

 銃把から右手を離し、汗と血液で湿った短い髪の毛を掴む。ぐっと持ち上げて顔を見ようとした。どっちが本物の酒之助か謎を暴こうとする。

 刹那に、茜ちゃんの言葉が蘇る。

 人が最も、無防備になる瞬間――――。

「頭を狙え田島茜」酒之助の声がした。小太刀を操る銀色を酒之助は渾身の力で刃を振り抜き始める。その軌道はうちの首まで続いていた。

 引き金を引け。

 奇跡は起きる。

 頑張り抜いた。

 全力を尽くした。

 絶望でもいい。

 もっと、苦しむから。

 もう少し、この息を続けさせて。

 引き金は引けなかった。

 銃を握っていたはずの左手が落ち、

 コンクリートの地面に跳ねて、転がった。

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