第参幕 九

「ぎんぎんぎぎーん、むかーし、むかし」

 アイスピックが振り下ろされる。透明な破片が不規則に飛び散り、四方八方に裂け目が伸びて、真四角の板氷は個性的な形に着せ替えられていく。アイスピックの柄を握る主は、威厳に満ちた銀の毛を蓄えた仮面を外して、生まれたときから備わっている生の顔を空気に晒している。

「ごんごんごごーん、昔話を始めようっていうの? 辛気くさくなるからやめにしない?」

「大事な話なのだわ。わたしとあたしがどうして生まれたのか」

「そりゃあ、お父様とお母様がぺっちん、したからに決まっているでしょう」

 金狐はバーカウンターの前に置かれた丸椅子の腰掛け、ぞんざいに肘をつき、あごをくいと傾け、窓を見やっている。蒼い惑星を照らす母なる太陽は建造物の群れに阻まれ、存在感を失いつつあった。こちらの顔にも仮面はない。

「生物学的には確かにそうかもしれないわ。でもね、あたしたちはそうじゃないでしょ」

「そうね、分かっている。認めたくないけど」

 金狐は木皿に盛られた乾き物に手を伸ばした。

 焦げ目の付いたエイヒレに、岩塩と胡椒がまぶされたビーフジャーキー、斑点がアクセントになっているブルーチーズがきっちりと区分けされている。中央には殻付きのナッツが丘を作っていた。

「兄さんは……」言いかけた銀狐を金狐は睨め付けた。不満そうに閉じられた唇には、薔薇の花弁を溶かし込んだような紅が色づいている。

「酒之助でしょう。あんなの兄じゃない」

「生物学的には兄よ」

「何かの間違いよ。遺伝子検査をやったほうがいいわ」金狐はエイヒレを唇の狭間に押し込み、咀嚼する。再び伸ばされた右手がブルーチーズの上に影を作った。

「酒之助はあたしの兄よ。そして、わたしの兄でもある。事実は認めなくちゃいけない、目を背けてはいけないの」太くもなく、細くもない、くっきりとしたアーモンドの輪郭を描くには丁度良い幅のマスカラが塗られた目が瞬く。わずかに血管が浮いた白目に囲まれた瞳には銀色のカラーコンタクトが装着されている。

「銀狐のそういうところ、嫌いだわ」金狐はブルーチーズをふたつに割って、小さくしてから口に運ぶ。青い部分も容赦なく食んだ。唇が有能な捕食者のように伸び縮みする。

「いくらでも言うといいわ。目は口ほどに物を言うもの」

 銀狐はまぶたを大きく見開いてから、砕けた氷の塊をアイスペールに盛った。金狐はトングに手を伸ばし、カツカツと音を立てながら、小さな氷を選んでショットグラスへと移した。からんと氷がグラスの底で踊った。

「何か呑む?」

「うーんとね、罪深いのをひとーつ」

「抽象的過ぎて分からないのだわ。消毒用アルコールでいいかしら」

「いじわるぅ」金狐はバタバタと両足を動かし、唇を狐の鼻のように尖らせた。

「あたしの専売特許を真似しないで。強欲で、怠惰で、性に奔放で、嘘つき」

「知的で、大人びて、冷静で、いろけを持つわたし」

「反対になることがあり」

「逆さまになることがある」

「かつらを付け替え」

「かめんを取り替え」

「金狐は銀狐に」

「銀狐は金狐に」

「どっちがあたしで」

「どっちがわたしか」

 金狐の隣に銀狐は腰を下ろす。セクシィに尻を肥やした貴婦人のようなボトルの首ねっこを掴み、バーカウンターの上を滑らせる。ラベルはなく、刻印もない、琥珀色をした瓶には細かい傷が白い靄のように全体を覆っている。

「初めて見るわね」

「兄さんの作よ」

「嘘でしょ、酒之助が作ったの? あいつは呑む専門でしょう」

「まだ、酒に呑まれる前に一緒につくったの。お父様の真似事をしたくて、仕方なかった時期にね。杜氏の仕事って格好良いのよ。手際よく、とんとことんって進んで行く仕事ぶりにね、あたしも兄さんも釘付けだった」

「知らないわ、それ」

「そうね、金狐はいなかったもの」

「……」

 銀狐は瓶の口から半分ほど伸び上がっているコルクを指で引き抜く。凍結された時間に流れを呼び戻すように、アルコールと香りを含んだ空気が外気と混ざり合う。

「開けていいの? もう、酒之助は酒をつくらないんでしょ」

「へえ、貴重って言いたいわけ?」

「ふん、素人の酒が貴重なわけないのだわ。反吐が出るほど、まずいはず」

「じゃあ、あたしは毎日反吐を呑んでいるわけね」

 金狐の下唇が不思議そうに、くうっと前方へ突き出される。

「毎日?」

「そうよ、あたしが呑んで、あたしが新しいものをつくり、あたしが足しているの」

「秘伝のタレは代々継ぎ足しているものでありんすっていうわけ?」

「そうよ。びっくりした?」

「それって、もう酒之助の酒じゃないのだわ。銀狐がつくった酒じゃない」

「そうだけど、兄さんの魂は入っているわよ。思い出すの。順番に麹を混ぜたことや布でくるんでぎゅっと漉したこと。白濁とした樽の底から泡がぷかぷか浮かんでくるところ、何より、兄さんは優しかった。吟子も一緒にやろうって、本当は自分が真っ先にやりたいくせにね、いつも最初にやらせてくれたの。それをお父様は見ていた。目は細くなって、頬が緩んで、歯が見えていたわ。あれって、なんていう表情なのかしらね。お父様はいつも厳しかったから、戸惑ったのを覚えているわ」

「ぎんこぉ?」金狐の唇に強烈なしわが寄り、血の気を失った舌先がちょんと顔をのぞかせる。体を震わせ、肉を食らう獣のような形相が浮かび上がる。

「ごめんごめん。あたしは狐。銀狐」ぎんぎんぎぎん、先ほどの言葉を削り取るように節を付けて銀狐は口ずさむ。

「次、言ったら消すから。妖頭芭蕉様の連続殺人の被害者になってもらうの」

「頸を絞められるってぇわけね。おお、怖いわ」

「全然、怖そうじゃないのだわ……」金狐の唇がやじろべえのように下の方へ伸びる。

「だって、いつもあたしが兄さんの頸を絞めるのよ。ベッドで泡を吹くまで」銀狐は顔にぶっしとしわを作ってから、蟹の脚のように広げた指先で何かを掴む真似事をした。

「聞いているだけで、吐き気がするのだわ」

「お水を持ってこようかしら。ちょっと、呑みすぎじゃない?」

「まだ、一滴も呑んでないわよ」

 琥珀色の瓶が傾きを深め、口から液体を紡ぎだす。ショットグラスを半分ほど埋めたアイスロックが一瞬にして透明な米の衣を纏う。

「日本酒のロックなんて聞いたことがないのだわ」

「味が落ちるもの、冷やすか燗にするか、どちらかが一般的よ」

「じゃあ、酒之助の酒は一般的ではない、特別なお酒ってこと?」

 表面張力で浮遊した酒に、金狐が顔を近づけた。

 瞳を繭糸のように細めて、銀狐が観察している。

「お酒に普通も、特別もないわ。ただ……」

 金狐の唇が酒の上空で止まる。ぎょろんと首を捻って、観測者然としている銀狐を見上げる。

「ただ?」

「呑むと消えちゃうから」

「どういうこと?」

 金狐の唇がうまそうにグラスの中へと沈み込む。

 舌先でアルコールの痺れを感じ、

 冷感を頬で受け、

 鼻から米の風味が抜け、

 喉の奥が熱く盛っている、

 はず。

「そうやって現実からしゅっと、いなくなる。兄さんのお酒はね、そういう扉なの」

 長い溜め息が漏れる。複雑に入り組んだ感情が隅々まで練り込まれている。金狐が放ったものかもしれないし、銀狐が放ったものかもしれない。銀狐の傍らにある背の高い丸椅子には誰も腰掛けていない。

「悲しいわね」銀狐は呟いた。

「寂しいわね」銀狐は嘆いた。

「会いたいわ」銀狐は囁いた。

 銀狐は主を失ったショットグラスの壁面を爪で突く。

 白いベースコートに金色と銀色が入り交じったラメが塗られたネイルに水滴が落ちる。そして、ぱっくりと腹を割った殻付きのナッツに手を伸ばした。

 塩と香辛料を適度に振って、カラルコロルと炒めたもの。水気が飛んで、乾ききった植物の種は奥歯の噛み合わせに、癖になる衝撃をもたらす。殻は積み上がり、木皿の中央に取り残されし、果実が姿を現す。

 赤と青を混ぜて、ベリー系になろうと試みたオオカミナスビ。それを酒に落とす。ひとつ、ふたつ、みっつ、ナッツの丘に隠れていた美しい女の瞳孔を開かせる茄子の仲間は、米汁の水風呂にざぶりと浸かる。

 銀狐は窓辺に視線を流す。

 銀のコンタクトレンズにどのような光景が映っているのか、誰も知らない。

 ただ、窓の外はひどい天気だった。蒼い惑星を照らす母なる太陽は一片も存在しない。狂乱な精神を書き躙ったような空模様と、化学物質を含んだ都会の雨粒が一斉に地上へとばら撒かれている。

「あたしね、兄さんのためだったら、どんなことだってできるの。大道具や小道具を拵えて、スピークイジーを作ったり、兄さんが殺した死体をちゃんと埋めたり。兄さんはあたしを兄さんの世界に入れてくれるの。だから、一緒に遊ぶために努力する。上手に演じられたら、頭を撫でてくれる。失敗しても、慰めてくれる。それは、尊いこと。世界のどんな場所を探したって、札束を積み上げたって。それに代わるものは存在しない」銀狐は小さくそう言って、ブルーチーズに手を伸ばした。爪の先を器用に使って、青い部分をほじくって、滓を床に捨てた。

 古い家に憑依しやすい扉の軋みが、銀狐の鋭い聴覚に触れる。頭の上に毛むくじゃらの三角耳が付いていたのならば、動いただろう。銀狐は黴が取り払われて、目立つ凸凹が付けられたチーズを囓った。

 床板を革靴で叩く音がする。湿った空気とペトリコールがわっと押し寄せる。銀狐は首を動かし、それに視線をやった。月を失った空を人のかたちに切り取ったような影が立っていた。立体感はある。存在感もある。ぽたり、水滴が滴る。

「傘はどうしたの?」

「電車に忘れてきちゃった」

 銀狐は丸椅子から立ち上がって、バーカウンターに載せられていたキッチンタオルを手に取った。かつんこつん、銀のヒールを床に打ち付け、真っ黒なそれに近づく。

 表面にタオルを押し当てる。墨のように黒いのに、キッチンタオルは雨粒を吸って湿るだけで、色移りしない。

「金狐は?」

「さっきまでいたわよ。でも、今はいない」

「気紛れな女だね。消えたり、現れたり、忙しい奴」

「服を脱いだら? 風邪を引くわよ」

「あとで脱ぐよ。まずは、酒だ」

 それは動く。金狐が座っていた丸椅子に腰掛けると、バーカウンターに置かれているショットグラスに手を伸ばす。銀狐はその挙動を眼球だけで追いかける。

 一瞬にして、酒が氷ごと消える。空っぽになったショットグラスの底を、それは豪快にカウンターテーブルに叩き付けた。

「なんだ、金狐。いるじゃないか。僕が心配だった? そうか、そうか、良い娘だな。褒美をやろう。大きな声じゃ言えないけどね、上物だよ。滅多に出回らない代物だ。大丈夫、アッパーじゃない、純粋なダウナーだよ。安全だ。禁止されているのは日本くらいなものさ。あれもダメ、これもダメってうるさい国だよ。僕は嫌いだね。狭苦しくて、息苦しい。税金でメシを食っているから、おおぴらには言えないけどさ。もう少し、自由でもいいと思うんだ。少なくとも、マスクくらいはやめないかなって、目には見えない感染ごっこはいつまで続ければいいのかな」

 草を燃やすにおいがペトリコールを上書きしていく。輪郭を描くことを子どもに任せたような形をした黒い丸から煙が、つっぽつっぽと立ちのぼる。

「銀狐もそんなところに突っ立ってないで、こっちにこい。酌をしろ。お前の姉さんは、もっと酒を所望しているぞ」

 銀狐はそれの隣に腰掛けた。瞳には力も気もない。ただ、静かに手製の酒が入った瓶を掴み、傾きを作る。思い出や愛情や記憶が溶かし込まれた透明な液体が、酒となった。

「んんまいな。舌がよう、なくなるんだ。唇が湧き出す泉に縫い止められてさ、旨みが暴力を振るう」それは力強く拳を作った。

「良かったわ。まだ、たっぷりある。どうせ売れないもの。後味にね、臭みが残るの。どうしても取れないのよ」

 あちらこちちで飛び交う電波を受信するように、銀狐のまぶたは俊敏に開閉を繰り返す。

「それがいいんだよ。酒のつまみにはなぁ、糠漬けが合う。きゅうり、にんじん、だいこん、おくら、みょうが。取り合わせはよりどりみどり。ならば、酒に残っていても合うだろうさ」

 銀狐の瞬きがやんだ。切り裂かれたように耳の方へ落ち込んだ目尻にキラリとした何かが光る。酒とよく似た透明感を持つ、その液体はすぐに銀狐の手に握られていた湿ったキッチンタオルによって、拭い取られた。

「優しいのね、そういうの、好きよ」

「褒めたって何も出ないぞ。狐たちは財布の底に穴を空ける。血税が降ってくる前には、じゃらりと音すらしないんだ」それは苦く笑った。

「心臓が動く、息が吸える、脳みそが回転する。それを満たすだけに必要な施しがあれば、あたしは充分」

 銀狐の言葉にそれは眉間にしわを寄せた。のっぺりと周囲に溶け込むような形状をした鼻が押し広がった。

「なんだよ、らしくないな。銀狐はもっと粗雑で、暴力的だったはず。だろう? 金狐」

 それの声に答える者はいない。沈黙を許さないように、雨音が激しさを増す。

「なぁるほどな。銀狐は感傷的になっているのか。親指から数えて、七つ目の男にこっぴどく捨てられたらしい。金狐は何でも知っているんだな。ははあん、今日の下着の色まで分かるらしいぞ」

 それの鼻息が急に荒々しくなる。

 銀狐は何も言わずに丸椅子から立ち上がると、背骨に沿って伸び上がっているファスナーの金具に触れた。人間の範疇から逸脱した方角へ関節を捻じ曲げ、下ろしていく。

 裁縫が施された伸縮性の高いグレイの生地は身体の線に沿って吸着している。フェミニンを表現するために、胸元や腰の辺りには意図的な切り裂きがあるが、生まれつき肉の薄い銀狐には似つかわしくなかった。

 プレゼントの箱を封じていたリボンのように服は解け、身につけた下着が露わになる。どこからか吹き込んでくる風雨に戦ぐ炎の明かりが、無防備な銀狐を隠さんと明滅した。

「ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも」それが詠み。

「茜刺す日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも」銀狐が返す。

「お父様を殺したこと、惜しいと思ってないでしょう」銀狐の声色には呆れがあった。

 慄くほどの悲壮感を被った赤、つまりは茜色の下着が茂みと双子の丘を覆い隠していた。

「そんなことはないよ。妖頭會を運営するのは大変なんだ。それに、何度も夢に出てくる。匕首が喉笛を貫いたときの、あの何とも形容しがたい感触がね、生々しい造形物になって迫ってくる」

「償ったほうがいいわ。そんな罪を背負っていたら生きていても楽しくないでしょう」

 銀狐は哀れなほどに骨が浮いた皮膚にできた無数のアザに指先を這わせながら言った。

「今はとても楽しいよ」

 それは草食獣に狙いを定めた狩人のように、襲いかかり、歯牙をかける。カウンターの上に置かれた酒瓶が衝撃によって、不安定となり、最期を悟ったかのように、床に落ちた。

 子孫を残そうとする生物の本能的なプロセスに付随した快楽装置が、原始的な駆動音を轟かせる。

 濁音や半濁音が爪を立て、肉を咬み、血をほじり、汁や液を飛ばす。

 ありふれた光景は、雨が止むまで続いた。

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