第参幕 七
すっかり酒に浸かってしまっていても、拳銃は正常に作動した。
日頃からきちんと整備をやっていたおかげというのもあるし、戦場で使うことが想定されて頑丈に作られているというのもあるわ。
火薬の力を借りて、加速のついた弾丸は猛烈な速さで銃口を飛びだし、空気中を駆ける。
目指すは狐の面を被った連中。
酒を売り歩いて、
人々を堕落へ導き、
コロナウイルスをはびこらせ、
クラスターの温床を作る悪の組織。
その親玉の顔はよく知っているわ。
一緒に働き、談笑をして、志を同じくしていたの。
相埜谷酒之助に銃を向けるのは恐ろしいという気持ちはある。いつも、銃口を向ける相手は素性を知らない人間だった。酒や薬を扱っているという情報を掴み、それを根拠として銃身をチラつかせ、脅していた。「あなたが酒を持っていることは分かっている。大人しく、投降しなさい」と叫び、逮捕を繰り返してきた。
知っているというだけで、これだけ心がざわつくとは思わなかったわ。仕事だからと何度も言い聞かせ、引き金を引いた。
きっと、ピエールも同じ気持ちだと思う。
酒樽の影から身を乗り出す前から敵は動き始めていた。
まるで、数瞬先の展開を完全に読み尽くしているように、その刃は構えられていた。
ぱしゅっと空気を切り刻んで、敵が繰り出した刀身は銃口から伸びた射線の先でぴたりと動きを止める。
そして、あろうことか、うちの会心の一撃を叩き斬った。首筋にざわり、鳥肌が立った。
「やったわあああ! 斬ったっ!」口から漏れた言葉に銀狐は仮面をふるふると震わせた。
「日本の公安職が扱う拳銃ってね、しょぼいのよ。人を殺すように作られていない。口径も小さいし、威力もたかが知れている。なんせ、引き金を引いただけでニュースになるような国だからね。刀を添える角度さえ、気をつければ簡単に斬れる」
喉の奥を鳴らすようにして、不気味に笑う銀狐の側には酒之助が立っていた。傷がつき、毛が毟られ、おどろおどろしい血が付いた面を被っている。
酒之助を囲むようにして、子狐がいる。雑踏に紛れたら分からなくなりそうな普段着で、我を主張するべく、個性的な表情をした面を拵えているわ。
茜ちゃんの姿を探す。
目玉を左右にやって、小さな体躯を視界に入れようとするが、見つからない。どこか別の場所にいるのかしら。
「酒之助、茜ちゃんはどこにいるの?」
酒之助はしゃべらない、寝癖のように跳ね上がった髪が、仮面を被っていても彼だということを証明している。
うちらを目の前にして、彼はどんな表情をしているのかしら。
「田島茜。何か、勘違いをしているわ。酒之助は妖頭芭蕉の手から茜ちゃんを救出しようとしているのよ。自分の大事なお酒を賭けて、へべれけに酔っ払い、右腕に傷を負いながら、勝ちを見出そうと必死になっている」
「そうだとも、相埜谷酒之助は頑張っている。田島茜と同じように生きているだけで逆流する人生の水路を遡ろうと必死になって泳いでいるのだ」酒之助はそれが別な酒之助のことであるかのように話をする。
「何を言っているんだい? 目の前に相埜谷くーんはいるだろう。君が妖頭芭蕉であり、金狐や銀狐と結託をして、闇ルートで酒を売り捌いた。そして、真相が暴かれそうになる度に子狐を殺し、茜ちゃーんを誘拐した」どっしりと股を広げ、銃を構えたピエールには落ち着きがあった。引き金を引けば当てられそうな感じがするわ。
「頭が綿飴でできているんじゃないの? 浦島ピエール。確かに、妥当な結末だと思うわ。あたしたちが逮捕をされて、浦島茜が助かる。それがベター。でもね、そんなすっきりとまとまった、より良い結末だけが真相とは限らないわ」
「真相は人々の思惑によって、常に変化している。それを網で掬い取って、これこそが真実なりやと叫ぶ名探偵は、はっきり言って、センスのないキャラクター造形。まだ、探偵で消耗してるの?」銀狐の声を引き継ぐようにして、金狐が叫ぶ。
しかし、その姿はどこにもない。
子狐たちの髪は黒一色であり、金狐と見間違えることはない。
「金狐はどこにいるの?」うちは銃をあちらこちらに向けながら訊ねる。
「あら、この麗しき金の姿が見えないというの?」
「金狐、田島茜の目は覚せい剤で潰されてしまっているのよ」
「可哀想に、あれじゃあ真相どころか、目の前で日本刀を突きつけられても気づかないかもしれないわね」
方々から葡萄の皮を煮出したような渋さを内包した甲高い狐の声が聞こえる。
まるで、目の前で仮面を被っている狐たちが全て金狐のようじゃない。
ああ、現実を認識できないわ。
閉ざされた左目が再び開くような疼きを感じる。
幻覚、妄想、幻想、幻聴。
現実の二文字が見えないわ。
「分かった。そういうことか」うちの焦燥を打ち破るようにしてピエールが言った。
「どういうことなの?」ピエールの右肩に肩が触れ合う位置まで移動をする。この異常なる穴の中で彼だけが常識と現実を確保し続けている。
離して、なるものか。
「金狐は存在しない。妖頭會内部で、存在するという共通認識によって成立しているんだ」
「共通認識?」
「そ、そんなことはない。金狐は確かに存在するわ。横浜港でご挨拶をしたのを覚えていないの?」銀狐の声に僅かな焦りが見えた。真実という解れが糸の切れ端となって目の前に垂れるのを感じる。
金と銀は確かにうちらの前に姿を現した。あの頃はまだ薬物に溺れてはおらず、正常な理性を保っていたし、ピエールも金と銀の姿をはっきりと視認したはず。
「あれは本物の金狐と銀狐じゃないよね。ほら、ピエールが銀狐を組み伏せたのを覚えているかい?」
「うちが左肩を撃ち抜いて倒したのよね。覚えているわよ」確か、ピエールの巨体をひっくり返すのは難しいと思ったはずよ。
「あれ、男の子だったよ」
「ええ、嘘でしょ」構えていた銃を下げて、ピエールの顔をまじまじとのぞき込んだ。「おんやあ、茜。銃は常に構えてなきゃダメだよ。ピエールたちはあの妖頭會の幹部たちを相手にしているんだから。今こそ、目線の先と銃口を一致させなきゃ」と言った。
しかし、それどころではないわ。
「間違いなく男の子だよ。人を取り押さえることが多い仕事だからね。大体分かるよ。それにさ、あの男の子はもう殺されているよね」
「殺されている?」
「ほらほら、顔が潰されている死体を扱ったことがあったよね。鳩貝警視正の助けを借りて、茜が絞殺だと言い当てたあの子狐だよ」
灰色のパーカーを着て、ダメージが著しいジーンズを穿いた子狐の姿を思い浮かべる。刺し傷があったり、苛性ソーダを顔にかけられたりと、酷い損壊を受けた死体だった。
「確かに死因は絞殺だったし、その他の傷は捜査を攪乱させるための装飾だという、鳩貝警視正の推理は間違っていないよ。でも、もうひとつ、あの死体には謎が隠されているんだよね」ピエールはそう言うと、両手で握っている銃把から右手を離し、左肩に優しく触れた。
「あの死体には左肩に銃創があった。傷は癒えて、うっすらとしていたけれども、確かにあったよ。検死調書にも書かれているはず。その口径は……」ピエールは右手にしっかりと握っている拳銃を軽く振った。
「これと同じでしょ」
「ピエール、すごいじゃない。あなた探偵になれるわよ」
「いやあ、探偵の仕事って地味じゃん。普段は不倫調査や行方不明の人を捜索するんでしょ。殺人や強盗などの物騒な事件の捜査は、なかなか探偵には回ってこないのが現実。退屈だから……嫌だよー」と陽気な調子を崩さずに言った。
「なるほど、素晴らしい。浦島ピエールはそんなに頭が切れる人物だったかな」酒之助はぱちぱちと掌を打ち鳴らして褒め称える。
しかし、銀狐は納得がいかないと首をぶるんと横に振った。
「金狐はいるわ」
「そうだね、金狐はいる」酒之助が銀狐の言葉を肯定する。
「ワインを嗜み、酒瓶で囲まれた屋敷に住み、酒之助の相手をする」子狐が金狐の声色で話す。
うちは脳みその中で否定を作り始めた。
どういう言葉を塗せば、狐たちはその事実を認めるのかしら。
考えを巡らせる。
「茜ちゃんを救いたくないの?」銀狐が思考に張り手をするように言った。
「浦島ピエールも、田島茜も、浦島茜を救いたくはないらしいな。茜ちゃんは磨りつぶして、お汁を酒の中に入れて、煮立たせよう。良い味になるはず」
「待って、そんなことはうちがさせない。必ずや、茜ちゃんを助け出すの。そうでしょう、ピエール」
うちはピエールの方に顔を向けた。
彼は……銃を構えていなかった。
だらんと両手を垂らし、天井を見上げている。
その唇の端っこからはつーっと涎が垂れていた。
「ピエール?」
「あらぁん、効いてきたじゃない」嬉しさをラーメンのトッピングのように載せた口調で金狐が言った。
「そうね、金狐。やっぱり、浦島ピエールも、田島茜も口にしていた」銀狐は兎のようにぴょんぴょんと飛び跳ねながら、喜びを露わにする。
「あの果実は効果抜群なのだな」酒之助は腕を組んで感心するように言った。
「ベラドンナ」「トロカンアルカロイド」子狐が口々に名前を口にした。
頭の中に積み上げられた薬物辞典のページが猛烈な勢いで開かれる。
トロカンアルカロイドという言葉だけで、それがどんな化学式で構成され、どんな成分を持ち、どんな症状を身体にもたらすかは分かる。
副交感神経遮断薬で、アセチルコリンの可逆性拮抗物質。
少量の摂取で、幻覚や錯乱、昏睡、血圧上昇、呼吸麻痺などの症状が起こる。
そして、幻覚に分類されている症状のひとつで、自白や意識操作がある。
同じようにトロカンアルカロイドを摂取した他者によって、共感性が生まれ、思考や行動を誘導されてしまうという作用だ。副交感神経の遮断は交感神経の暴走を意味し、大脳を活発化させる。それに伴って発生した電気信号が頭蓋骨の外に伝播し、それを誰かが受信する。そして、他者を操作できるようになる。
まだ、研究途上の段階だし、危険すぎて証明されたわけではないのだけれど、神経系の研究学会で発表された最新の論文にはそんなことが書かれていたはず。
「うちらはそんな、危険な果実を口にしていないわ……一口だって……」口の中でその味が反芻する。チョコレート味の中にわずかに混ざったお酒の風味。
「アハハハ、受信したわ、銀狐。浦島ピエールと田島茜はね、キッスをしたのよ」
「ビビビビ、そういうことなのね、金狐。もそもそとした携帯食料を唇で咥えてぶちゅっとやった」
「やだ、やだ。言わないで」頭を抱えて、首を横に振った。精神を囲う強固な壁に亀裂が走るのが分かった。
「あの携帯食料を食べていなかったとしても、君たちの体内にはトロカンアルカロイドが回遊しているはずさ。だって、自分で踏んづけたのだろう? ベラドンナの果実酒を注水させるボタンを」酒之助の言葉には不潔だと言わんばかりの不快感が混ざる。
息をするのが苦しくなる。
内臓がよじれて、
両足が諤々と震えだし、
視界に靄がかかり始める。
ほぢゐ~、
ほぢヰ~、
かっくせェざい。
しゃーぶ、
すぴぃーど、
あいす。
自分で自分を保てない。
助けて、
ぴえええええる。
が、彼は言った。
「金狐の姿が見える。見えるよう……」
うちを現実に繋ぎ止めていた唯一の糸がぷっつりと切れたのが分かった。
「わたしの姿が見える? ならば、茜ちゃんの姿も見えるようになるはず」
ピエールの手から拳銃が落ちた。
両手を前に伸ばし、よちよちと歩き出す。
うちは奥歯を噛みしめて、ピエールの拳銃を拾い、両手を武装する。奥歯にざりりと嫌な感触が走るのが分かった。
「パパでちゅよう。帰ってくるのが遅くなってごめんね。茜ちゃーんが大好きなお菓子だよ。うーんとたくさん食べてね。甘いものを食べたら幸せになるんだ。ええ、もうママ以外の女の人に会うのはやめて? ハハハ、茜ちゃーんは何を言っているのかな……」
銃把と掌の隙間から汗が滴る。こんなにも肌寒く、凍えるようだというのに、うちの手から銃を滑り落とさんと、べっちゃりーぬ。汗の湧出が続く。
「もっと一緒に遊ぶ時間を作って、寂しいよう、ああ、泣かないで茜ちゃーん。お菓子をもっと買ってくるから。お菓子じゃ嫌だ? パパが良い? ごめんね、パパはどうしていいか分からないや」ピエールは苦悩を示すようにその巨体を左右に震わせた。
「やめて、ピエール。そんなことは言わないで。うちのことなんてどうでもいいから。茜ちゃんの方が大事でしょ。不妊治療を何年もして、お金も、時間もたくさんかけて、痛い思いや恥ずかしい思いをして、ようやくできた子どもなんだって言っていたじゃない」
心の奥に隠していたピエールの秘密を暴露する。
これもベラドンナによる自白の作用なのかしら。狐たちに聞かせるようなことではないわ。だが、しゃべらずにはいられない。
「足りない、足りないよう。全てを幸せにしなければならない! 努力が足りないんだ。家庭を大事にしなきゃ、仕事もちゃんとやらなきゃ、茜ちゃーんの相手もして、茜も幸せにする。ああ、甘いものが欲しい。脂っこいものが食べたい。食べても、食べても、満たされないや。お医者さんからもうやめろ、死ぬぞって言われているのに、食べ物に手が伸びる。きっと、絶対に、努力が足りないんだ」
「やめでええええ!」絶叫と共に、うちは銃をピエールに向けた。
「あら、仲間割れの発生なのかしら」
「殺し合いをしてくれてもいいのよ。銀狐も参戦したら? 左肩を撃ち抜かれた恨み、まだあるんでしょう?」
銀狐は襟ぐりを捲って、しなやかな曲線を描く鎖骨を露わにさせる。焼きたてのしっとりとした食パンのような素肌。傷なんてひとつも見当たらない。
「ぎんぎらぎんぎん」と銀狐は唄いながら、指先を鎖骨に押し当てる。ぶしゃっと赤黒い液体が模様となって、銀狐の素肌を汚した。どこからか、取り出してきたベラドンナの果実を潰したんだわ。
「素敵な傷跡じゃない」
「そうよ、金狐。トロカンアルカロイドの成分が皮膚から浸透して、思い通りの形に沈着する。真実はね、簡単に書き換えられるの。なかったことをあったことにして、その他大勢の人が納得できる理由を述べる。そうするだけでね、それは真実になる」
「多数決の原則なのだわ。民主主義の根幹。自由、平等、博愛!」
「じゃあ、相埜谷酒之助の殺人もなかったことにしようか。全ての殺人は田島茜の犯行によるもの。覚せい剤による幻覚作用で、精神状態が不安定となって、妄想が爆発し、犯行に及んだ。証拠を作ろう。ほら、写真を撮るんだ」酒之助は子狐たちに指示を飛ばす。
子狐はポケットからスマートフォンを取り出して、うちの方へ向けた。何、どういうことと、混乱しているうちにフラッシュが焚かれる。
「素晴らしい。田島茜が浦島ピエールを殺そうとしている構図だ。浦島ピエールに殺人がバレたことにしてもいいし、奥さんと別れてくれなかった痴情の縺れとして処理をしてもいい。浦島ピエールの死体も道路に転がしておこう。連続殺人だと分かるようにベラドンナの花を供えておく。田島茜がやったという証拠を残し、罪を全部被せてしまおう」
「ごんごらごんごん。良いわねえ、それ」
あっという間にうちが全てを首謀した犯人に仕立てられていく。仮面を脱いで、無関係を装った子狐たちが一斉に都合の良い証言をするに違いない。うちがいくら叫んでも、真実を訴えても、覚せい剤に侵された廃人としか見てくれなくなる。
だめえええ。
鼻翼を広げて、新鮮な空気を大量に吸い込み、血流が巡るスピードをコントロールする。
まずは、ピエールから銃口を逸らした。撃つわけにはいかない。主導権を握らなくてはならない。相手が良いように書き換えている真実の筆をこちら側に引き寄せる必要がある。この場を制圧し、相埜谷酒之助を妖頭芭蕉として逮捕するのだ。
「いい顔ね。やってやるぞっていう女の顔をしているわ。きっと、あたしは田島茜の妄想の中にたくさん出てきた。田島茜を煽り、その度に屈服してきたのよねえ。分かるわよ。どういう幻覚を見てきたのか、その燃えるような瞳がベラドンナの効果によって、ありありと物語っているからね」
ぢゃるる、鞘に収まっている日本刀が姿を現す。
荒れ狂う日本海の荒波のような刃文がろうそくたちの灯りを吸収し、表情を作っている。人の肉に噛みつきたいという飢えが迸っている。
「茜ちゃんこちら、手の鳴る方へ。一緒にあそぼ!」ピエールを背後に隠す。動かないでと何度か言うが、うちの言葉が聞こえていないみたい。トロカンアルカロイドの成分が薄まるまでどのくらい時間がかかるかしら? 庁舎に戻れば、中和剤もあるので、生き延びてこの穴から脱出をできれば助かると思うけれど。
銀狐は刀を真横にピンと伸ばして構える。手首をくるりと返して、刃の向きを回転させ、滑らかに動かす。まるで、歯車を組み合わせて、設計通りの動きをする機械仕掛けの装置のように切っ先が宙を舞う。
うちも伸ばしていた両手の人差し指を引き金にかけた。
銀狐の些細な挙動を頭に叩き込み、体のパーツが空間のどこにあるか、次はどんな動きをするのか推測をする。
引き金を引くときに、今見ている光景に従っていては外す。いくら、弾丸の速度が速いといっても、しっちゃかめっちゃかに体を動かされてしまえば、当たるものも当たらない。重要なのは筋肉の可動範囲よ。今の位置からどの程度動かすか。考えに、考えを重ねて、選び抜く。
右手の拳銃を発砲する。火薬が爆ぜる音がするが、手応えがない。ちっ、外した!
銀狐が暴走列車のように距離を詰めてくる。
うちは左手の拳銃も引き金を引いた。金属を打つ音が鼓膜を叩き、反響をする。
あっさりと刀で弾かれてしまった。
なんてことなの!
銃弾を弾くなんて常識では考えられない。どれだけの鍛錬を積み、軌道を予測すれば成し遂げられるのよ。
「全然、本気じゃないわね。ピエールのことが心配なの? 彼の目には茜ちゃんと茜ちゃんが天秤にかけられて揺れているわ。あら、どっちの茜かしらね。漢字まで一緒だから分からないわ」銀狐は真一文字に刀を振り抜いた。上体を反らし、どうにか避ける。小さくそよいだ風が、死を誘うような圧力に感じられた。
「うちはいつだって本気よ。手加減したことはないわ」
掌に次の銃弾の準備が整った感触が伝わってくる。
拳銃には弾切れという心配があるが、刀は扱いさえ気をつければ、いつまでも切れ味を維持できる。時間がかかるにつれて不利になっていくのはうちのほうだ。
「なるほど、いつも本気だから大怪我をするのよ。気力はね、状況に応じて使い分けたほうがいいの。田島茜は恋愛でも本気になるからね、幸せになれないのよ」
「大きなお世話よ。その減らず口を塞いでやるわ」
左手から発砲。
銃身を下げて、
銃弾が駆け上がるのをイメージして撃つ。
銀狐の仮面から舌を鳴らす音が聞こえた。
一歩、
二歩、
距離を取る。弾丸は銀狐の髪を微かに揺らし、彼方へと消えていった。
間髪入れずに、左上段から鋭い斬撃が飛んでくる。
避けきれないっ!
袈裟をざっくりとやられると思った。左手を捧げた妄想がデジャブのように襲いかかる。
同じことはできない。もう、ピエールは助けてくれない。
ここで、負傷するわけにはいかないわ。
とっさに左脚を蹴り上げた。
安全靴としても機能しているブーツの底には鉄板が入っている。重い衝撃を靴底に感じた。女が繰り出すようなものではない。
なんて、馬鹿力なの。
「ぴゃあああ。動けるじゃない。あたしの一振りを受け止めた人は田島茜が初めてよ」
「そんな賞賛はいらないわ。死んで!」
「逮捕するじゃないの? 私情が交ざっているわよ」
「うるさい。始末書なら、何枚でも書いてやるわ」
銀狐がうちの左の靴底に食らいついた刀を引き抜こうとする。しかし、それはかなり深く刺さってしまったようで、簡単に引き抜けない。
隙を突いた。温存していた右手の拳銃の引き金に手をかける。銀狐の焦りが手に取るように分かった。仮面の内側に顔が隠されていても、その表情を想像できた。
「やめて、撃たないで……」怯えた少女のような声で銀狐は言った。
動きが硬直する。
銀狐の姿形に幼さがオーバーラップする。
引き金が鉄のように固くなった。
覚せい剤によって、歪に曲がってしまった正義の心がためらいを生んだ。凶悪な犯罪者が命乞いをするかしら。
「ばーか。そういう甘さがね……命取りになるのよ!」
銀狐の掌で何かが光った。
二つに分割されたグリップが遠心力によって刃を押し出し、蝶々の羽根のようにナイフが展開されていく。型にこだわった剣士ではない、必要ならばチンピラのような真似事もやるということね。
空間をえぐり取るようにして、何度も刃が空を切った。
刃先に合わせて、後退を繰り返し、ついに背中に酒樽が当たった。
「降伏する? いいわよ、認めてあげる。金狐の存在について、誓約をし、その澄ました鼻柱を削り取って台無しにしてから、生かして返してあげるわ。茜ちゃんはなしね。彼女はお酒の材料にするの。芭蕉様のお気に入りなんだから」
うちは正眼に構えたままの銃を動かさない。
撤退の二文字はあり得なかった。
どんな修羅場であっても乗り越えてきたのだ。
著名な組の名前で脅されても、レイプされかけても、武器を構えたまま反発を続けてきた。敵に負けないためではない。自分に負けないためだ。
前へ踏み出す。
振り抜かれたバタフライナイフの一撃が閃光となって網膜に焼き付き、鋭い痛みが顔面にひた走る。銀狐の動きが止まる。その隙をうちは見逃さなかった。手加減はしない。左手の銃を獣のあごのように銀狐の体へ突き出す。
銀狐が地面へと倒れ込んだ。
左肩をぎゅっと押さえている。今度こそ、はっきりと銀狐に弾を当てられたらしい。
「勝負あったわね」
「……兄ちゃん、助けて」銀狐のか細い声が聞こえた。
狐が兄と呼んだ人物に視線をやる。
正義感が強く、行使のためであれば手段をいとわない。
相埜谷酒之助は、銃を構えていた。銃口の先にはピエールがいた。え……いつの間に、そんなところへ……。
「ここは課長とでも呼んでおきましょうか。知っていますか? 公務で死んだら二階級特進らしいですよ。本省の課長になれるんじゃないですか。良かったですね。夢は諦めなければ、必ず叶う」酒之助はそう言うと、「羨ましいなあ」とぼやいて、引き金を引いた。
状況を理解して、
解決策を探し、
行動に移す。
うちは夜空を曳航する星々のような速さで行った。
それでも、酒之助とピエールの間に割って入れなかった。それは予め決められていたかのような、絶対性があった。
「とぉりゃんせぇ、とぉりゃんせぇ、こぉこはどぉこの、細道じゃぁ」
童歌が腹の底を揺さぶる。
誇り高き酒類取締官の制服に濃く、確かな染みを作っていく。
主要な臓器を守るように防弾チョッキを着込んでいたが、酒之助はそれらを避けるようにして、銃口をピエールの腹にねじ込んでいた。どういう思考回路を持っていれば、顔を知り、言葉を交わし、一緒に仕事をして、気心が知れた上司を殺せるのか。
理解に苦しむ。
大樹が天命を全うしたかのように、ピエールの巨体はゆっくりと背中から倒れていった。受け身を取る素振りも見せず、背中と後頭部が強打される。
鼻の奥が真っ二つに割れたような痛みが走る。
呼吸が上手くできず、闇雲に息を吸う真似事を続けた。
頭蓋骨の奥がひどい痙攣を起こしていた。
誰かに助けを求めるという選択肢は跡形もなかった。
うちは拳銃を手放し、ピエールのそばにしゃがみ込んだ。
つぎは自分が酒之助に撃たれるかもしれない。そのほうが良かった。ピエールと同じ状態になれるのならば、それは本望だった。
「もう……ダメだね」
「ダメじゃないわ。傷の具合を見るわね。大丈夫、絶対に助かるから」
半開きになった瞳からは急速に生気が抜けていくのが分かった。死ぬことに抗う、生きることにしがみつく、そんな段階ではなかった。ただ、穏やかに、現在から連結された時間の先に死ぬことがあった。
「煙草が吸いたい」
うちはしゃかりきになって、ピエールの要望に応えた。彼の右腰のポーチから煙草の箱とライターを取り出し、火花を散らして、煙草の先端に火を付けた。ピエールの言ったとおり、全身が酒でずぶ濡れになっても、体に燃え広がることはなかった。
煙草の吸い口をピエールの唇の狭間に押し込む。吸い込む気配はない。燃焼された橙色の火種はただ、ゆっくりと細い煙を吐き続けている。
傷口を掌で強く圧迫する。
少しは出血が弱まるはずなのだが、指と指の間から鮮血がこんもりと膨れ上がる。臓器に繋がる太い血管が切れてしまったのかもしれない。今すぐ、病院に担ぎ込んで、手術をしたとしても助からない公算の方が大きかった。
「死ぬのは、怖くないね」
「何を言っているのよ、怖いでしょ」怖い、怖いと口の中で繰り返す。
「いんやあ、ピエールは一生懸命に生きてきたんだ。やるべきことはやってきた。上手くいかなかったことのほうが多かったかもしれない。ピエールの行動でさ、傷ついて、泣いた人もいるかもしれない。それでも、取り組んだことが大事だと思う」
ひゅろろろと煙草の火種が明るさを増した。
蛍が最後の力を振り絞って、輝きを放っているように見えた。
「うちは怖いわ」
「もうこれからは怖くないよ。向こうでピエールが待っているからね」
「そんなこと、言わないで」
「言うよ、後悔したくない……から」
ピエールはそう言うと、うちの手を静かに握った。いつもは弾けるように温かな掌なのに、冷ややかだった。
「茜、すきすきすきすきすきすきすきすきすきすきすきすきすきすきすきすきすきすき」
「うん、うん、すき、すき、すき……」
ピエールはうちの返答を聞くと、満足そうに頬を緩ませた。そして、ぶるぶるっと体を震わせると動かなくなった。
これも幻覚だったらいいのに。
こんな理不尽なことだけ、
現実に配置するなんておかしいじゃない。
泣きたかった。
暴れ狂って、
錯乱し、
周囲にあるものを破壊し尽くしたかった。
が、それらの感情に強烈なブレーキをかける。
摩擦で心が焼き切れそうになっても、
深呼吸をして耐え忍んだ。
心の肉が焼ける煙が胸一杯になって、
どうやって吐き出していいか分からなかった。
地面に落ちている拳銃を拾い上げる。
銃弾を補充すべきだが、そんな余裕はない。
振り上げたうちの拳銃と、
相対する酒之助の拳銃が、
邂逅するのは同時だった。
「よくも、銀狐を撃ってくれたな」
「急所は外したじゃない。病院に行って、治療をすれば治るはずよ。でも、ピエールは蘇らない」体を左右に振り乱し、感情を外界に発露させる。
「あんな野郎、死んで当然だろ。田島茜を裏切ってきたんだ。君が一番じゃなかった」
「順番なんて大した問題じゃないわ。うちはこのままでも満足だった」
「もう死んだからな。どうとでも言えるさ。知っているか、田島茜。浦島ピエールは悪なんだよ」
こいつは、死んだピエールを愚弄するのか。
絶対に、許せない。
「何度も、飲酒を黙認してきた。逮捕しても、嫌疑不十分を連発し、検察へ調書を送ることもしなかった。それって、職務怠慢だろう。酒類の取り締まりじゃない」
「そういうふうにしろって、上から指示があったからに決まっているでしょう。新型コロナウイルスの変異型がたくさん出てきて、ワクチンの接種も始まった。重症化するリスクは限りなく抑えられて、もはや、酒だけが敵ではなくなったの」
酒類取締課が解体されるという噂があった。国民の反発が根強く、与党が政権を維持できなくなってきているからだ。
しかし、誰もが決められない。
一度、振り上げた拳を誰が下ろすのか。常識的に考えれば、それは政治家の仕事であるのだが、彼らだって失敗はしたくない。マスコミから叩かれ、支持率が下がる。
照準をぴたりと酒之助に合わせたまま、隙を探す。銃弾が撃ち込めそうな場所。当たっても死なない場所がいい。
急所を狙いたい気持ちはある。
このまま殺してしまいたかった。しかし、殺しをやれば、酒之助と同じになってしまう。
うちは殺人鬼じゃない。
動きを見せたのは酒之助だった。
銃口をわずかに逸らし、発砲をする。酒之助の癖は熟知している。発射された弾丸が当たるか、当たらないかの判別は容易だった。だから、銃を構えたまま動かなかった。
「田島茜。妖頭會に入るんだ。君が入れば百人力だ。酒類取締課でブレーキを踏み、妖頭會でアクセルを踏む。アルコールを利用して大衆をコントロールできる。こんなに素晴らしい仕事はないよ」
「理解できない。ピエールを殺すことが素晴らしい仕事だって言いたいの? おかしいわよ。うちらの仕事は飲酒を取り締まり、違法流通する酒の網を絶つことでしょ」
「分かってないな。酒を根絶するためにはどちらも必要なんだよ。妖頭會には厚生労働省の幹部や警察の上層部の手も入って運営されている。田島茜が思っているより、相当に複雑なのさ」酒之助はずり落ちそうになっている仮面を被り直しながら言った。
「それを酒之助は見逃しているわけ? あなたの正義はどこにいったの?」
「お前が悪だから、相埜谷酒之助の正義が見えないんだ。それに、妖頭會に入れば覚せい剤の融通ができるぞ。酒と交換をすればいくらでも手に入れられるんだ」
「お断りするわ。やめるって決めたの」自分で放った言葉を耳から再び取り入れ、脳みそに染み渡らせる。
やめる、
やめる、
やめる。
「いや、無理でしょ。僕は知っているよ。やめる、やめると決意してもやめられない。お酒で何度も試したんだ。酒瓶を割ってみたり、排水口に流してみたり。でも、どれも上手くいかなかった。呑め、呑めって、頭の中で声が聞こえる。それに抗うのは難しいよ」
「それでもやめるわ。何度だってやめる。決意は繰り返しているうちに強固になる」
「強いなあ。そういうところ、僕は嫌いでしたッ!」
酒之助の人差し指が引き金に伸びる。
次は当てにくるのが分かった。狙いを付けられないように、左に飛んで、右に飛ぶ。
酒之助の銃はうちの動きを追いかけてはいるが、圧倒的に遅い。無力化するのは難しくない。ヤレる!
「そういう甘さがね……命取りになるのよ!」
どこかで聞いたフレーズだった。
意識の全てが酒之助へと向けられていた。だから、銀狐が生きているということも忘れていたし、強い意志を持ってすれば、動き回れるという可能性まで思考が及ばなかった。
背後に回り込まれ、脇の下からがっつりと腕が伸びる。
しまったと思ったら、身動きを取れなくなっていた。
「トロカンアルカロイドと、メタンフェタミンの欠乏によって、脳の機能が低下している。麻薬取締部の武闘派もついに年貢の納め時ってわけか」
ちゃらちゃらとした様子で、酒之助は銃を構えるのをやめて、子狐に指示を飛ばす。
「ほら、拘束を手伝え。特に足だ。そのブーツにも刃物が仕込まれている。回し蹴りでも飛んできたのなら敵わんからな」
子狐が体に群がってくる。腕が肉の紐のようになって、四肢を封殺してくる。
「抵抗するのをやめろ。自分の立場を弁えろ。今なら、助けてやれるぞ。じっくりと洗脳をしてやる。脳の化学物質の調和を乱す薬物をたくさん持っているからね」
全身全霊で体をくねらせる。
凄絶な拒絶を示す。
その一掻きが自分を救うかもしれない。
相手の気勢を挫くかもしれない。
「警告はしたぞ。田島茜」酒之助は銃を握っていないほうの人差し指を突きつけてきた。うちはその手に向けて、唾を吐いた。
正義と悪を線引く、決別のつもりだった。
酒之助は銃をホルスターに戻すと、右の袖口に付いている小さなポケットから透明なバイアルを取り出した。
ここまで耐えてきたのに、それらは全て無駄になろうとしていた。
化学式が奇声を発しながら、
頭の中で絡み合って、
大動脈の流れの中にダイブする音が聞こえる。
銀狐によってぶちぶちとハンケチが引き千切られるのが分かった。
左右に違う景色を映す。
現実と非現実が境界線を曖昧にして結合していく。
見える視界も、
考える思考も、
発する言葉さえ、
人間のそれではなくなっていった。
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