第参幕 六

 冗談じゃない! スピリタスだぞ。

 そんじゃそこらの酒とは訳が違う。アルコール度数九十六%。ジャガイモの蒸留酒は、日本では酒というよりも、危険物として取り扱われる。ガソリンと同等に扱われるのだ。火気厳禁はもちろん、呑むのだって相当にヤバい……。

「負けたら呑むものじゃないのか」

「いえ、勝って相手のスピリタスを手にしたら呑むのよ。だって、そうしないと意味がないわよ。単なるチップでも良いものをわざわざ酒でやっているのよ。勝って、勝ち続けて、相手が保有しているスピリタスを空っぽにして、ようやく、トマーティンが出てくるわけ、国王陛下のおなーりってね」

 うきょきょ、

 きゃらら、

 ころろ。

 気の触れた笑い声を銀狐が発する。

 謀られた、

 仕組まれた。

「そんなの聞いていないぞ、僕は承知していない」

「あら、ポーカーをやったことがあるか聞いたわよね? そして、ルール説明は不要とした。酒之助も了としたじゃない。説明はちゃんと聞かなきゃだめよう。だって、どこに落とし穴が潜んでいるか分からないわ。説明が必要なほど、小難しいものって、相手を奈落の底へ落とすように、設計されているの」

 言い訳、

 逃げ口上を探そうと、

 唇を擦り付ける。

 乾ききった唇には死んだ皮膚細胞の滓がこびり付いている。

 どう考えても、僕の落ち度。これは呑むしかあるまい。

 僕はスピリタスが入ったグラスに手を伸ばした。氷によって冷たく冷え切っているはずのそれに、ほのかな温もりを感じるのは気のせいだろうか。燃えているのだ。グラスに集中したアルコールの群れが意思を持って、発熱している。

 もうすぐ、酒之助の口の中に入る。胃の中に流し込まれ、血管に浸透し、脳細胞にぶっかけられる。それが分かっている。だからこそ、熱い。

「ワン・ツー・スリー」

 金狐が陽気な声でカウントアップをし、

 銀狐が日本刀を指揮棒のように振るう。

 不協和音を基調とした、狂騒曲を楽譜の中から引きずり出すように子狐たちは楽器を演奏しはじめる。

 呑まねばばば、

 男が廃るるる。

 女を前にして、男を貶めることだけは許しがたいことだった。

 酒がつるんと滑る、

 あおる、

 注ぎ入れる。

 爆裂なるアルコールの刺激臭に、

 喉がやられ、

 鼻腔がかきむしられる。

 噎せて、

 喉仏を鳴らし、

 不様に鼻からぴょぴょうっと、スピリタスが吹き出す。

「ふん、アルコール消毒は大事よね。感染予防対策にご協力くださいまし」ひーひひひ、お腹が痛いと言わんばかりに、銀狐が大笑い。

「さあ、呑んだぞ、飲んだ。ビットだぁ、ビット」

 空っぽになったショットグラスを二つ見せつけ、山から新たなスピリタスが入ったグラスを迎える。

 ひっぃくく。しゃっくりの奴が喉仏を滅多打ち。

 祈りを込めてカードをシャッフルぅ。

 役よ来るな、最弱よ、僕を愛せ。

 山崎の天使なんてぺっぺだ。

 ほうれ、リフルシャッフルだってやってしまうぞ。

 不幸を吹き付けたトランプを金狐に渡す。

 彼女もカードをポーカーマットに広げて両手を滑らせるようにして混ぜる。

 大きく、拭き掃除をするようにがちゃがちゃと混ぜる。

 また、酒之助が勝って、スピリタスの在庫が減りますようにと願っているのかもしれない。冗談じゃねえ。これ以上飲んだら、急性アルコール中毒、真っ逆さまではないか。

 砂の中から砂金を探すようなシャッフルを終えると、山札にまとめて、ポーカーマットの中央に置く。金狐が、「お先にどうぞ」と言った。

 山札からトランプを五枚、ぴっちりと揃えて持ってきて、扇のように正面で開く。

 お、おお!

 キングのスリーカードじゃないか!

 なんという、強運。

 引き寄せてしまった。

 何度も目を擦った。額から粘ついた脂汗がだんだらだらら。

 確かにある。

 酒が見せる幻覚などではない。

 王様が三人、我、統治者なりとぞんざいな顔でこちらを見やっている。

 よくシャッフルをして、カードのばらつきを運に任せているのだから、ポーカーで役を揃えるのはかなり難しい。それをやってのけた。わずか、二回目にしてキングが三つ。

 ロイヤルストレートフラッシュから比べれば、スリーカードなんて、下々の幸運かもしれない。だが、勝負に出られる小さな幸運はこのくらいではないか。

 ごく自然な、丁度良い役と言えるのではないか。

 金狐もカードを引いた。

 目線をさっとカードに走らせ。

 大袈裟にだらりんちょと項垂れた。

 嘘くささが鼻に障る。

 どう捉えればいいだろうか。お目当てのトマーティンや山崎が遠い以上は、相手にどうやってスピリタスを飲ませ、判断能力を奪うかに懸かっていると言っていい。

 まずは、負けることが何よりも優先されるはずだ。ということは、役があるということか、それも思いの外、強い役で、これで負けるのは難しいと考えているのかもしれない。

 ストレート、

 フラッシュ、

 フルハウス。

 いやいや、そんな役が一発で揃うとは考えにくい。ならば、僕と同じスリーカードが無難な線か。

「ビット」金狐はたっぷりと数分、熟考してから宣言をする。

 ちょっと待て、ドロップだろう。

 だって、ビットをして僕がドロップをしたら、スピリタスを飲まなければならない。それは避けたいと思うはず。

 が、金狐は酒に強い。

 ショットグラス一杯程度のスピリタスでは屁とも思っていないのかもしれない。ここは一杯呑んで、ゲームを先に進めておきたいと考えているのかも。ならば、ここで限界までレイズをするっていうのもまた、一興なのではないだろうか。

 トマーティンまで、一気に大手をかける。

 いけ、酒之助。勝負のお時間。

「コール」攻めの手に打って出る。

 ショットグラスを突きつけ、スピリタスの弾丸をポーカーマットの中央に射出する。双方のチップが出そろったので、カードチェンジである。キングのスリーカードはもちろん残し、他の二枚をお役御免とする。

 山札からカードを二枚、新たに調達して、ちらっと表面をのぞく。

「……」息が誘拐された。

 キングがもう一枚、

 僕の手元にあった。

 フォーカード。ポーカーで三番目に強い役。これなら、負けない。だって、上にはストレートフラッシュとロイヤルストレートフラッシュしかない。ストレートフラッシュはバカみたいな偶然の番号とマークの連続だ。それに、キングのフォーカードならロイヤルストレートフラッシュの役はない。

「レイズ」ショットグラスのピラミッドからチップとするべき酒を引き寄せ、場の中央に並べる。

 ポーカーテーブルの端っこに置かれた山崎が僕を見ている。

「ここで、勝負に出ろ、相埜谷酒之助。トマーティンを手に入れるのだ。そして、茜ちゃんを救出し、一緒に記念撮影をして、トマーティンを愛撫するのだ。そのためにありったけの王を派遣した!」山崎の叱咤激励は幻聴などではない。

 僕は僕以外とどうやって分離するべきか、悩むことは多いが、今日ばかりはいつも以上に思考が冴え渡っているし、二杯のスピリタスの影響は最小限に留まっているような気がする。

 絶対に、誓って、僕は酒に溺れてなんかいない。

 普段もこっそりと人に言えないような飲酒を繰り返しているが、ちゃんと仕事はできている。

 最近、調子が悪くなった茜の仕事を肩代わりしているし、ピエールの面倒もよく見ている。アルコールを完璧にコントロールできている。

「コール」ショットグラスが二つ並ぶ。

 金狐の様子を見やる。

 仮面の裏側にはどんな表情があるのだろうか。

 ええい、限界まで……ハルゾ。

「レイズ」一気に攻勢を仕掛ける。

 トマーティンを手に入れる最適解は、キングのフォーカードで一気にけりをつけることだ。ドロップを繰り返し、その度に酒を呑み散らかしていては酔いばかり回ってしまう。吐瀉物をまき散らし、尚も、プレイに興じるなんてことはやりたくない。

 しかし、三杯を場に出したところで、やり過ぎたかという不安に襲われた。

 強引なるレイズは相手に圧力をかけることになる。

 訝しい、こいつの役は非常に良いものではないか。ならば、ここは一度ドロップをしておいて、次の勝負に持ち越すのがいい。そう考えるのが妥当ではないだろうか。

 僕はショットグラスを引っ込めようとしたが、「ダメよう。一度、場に出したものは引っ込められない。人生を巻き戻すことなんてできないし、永遠なるループの袋小路に閉じ込められて、当たりの目が出るまで、何度でも不幸を繰り返し、運命を呪うことは許されないのだわ」金狐は言った。

「時間はね、戻れないから美しいの、人生は一筆書きで、有限なる紙幅に文字を刻むことしかできないのだから、希少価値がある。幸せのために、何度だって努力できる。そのものはね砂糖菓子よりも甘いのよ」銀狐がぺちゃくちゃと口を踊らせる。

「男に、二言はない」

「ふぇっふぇっの、ふぇえええー。二言が喉元まで出かかって、格好良くないのだわ。でも、言葉を引っ込めたのだから、褒めてあげる。偉いわ」

「よしよしよーし」銀狐の冷やかしが耳に染みる。

「キッスも必要かしら」金狐がぷちっと唇を鳴らす。

 金狐はどるどるどるゥっと口内で、

 お手製のドラムロールを奏でながら、

 ショットグラスを並べていく。

 ひとつ、

 ふたつ、

 みっつ。

 コールなのか。

 策士、やりおると思っていると、よっつが登場する。

 いつつ、

 むっつ。

 際限なく、グラスとグラスが整列をしていく。

「レイズ」宣戦布告、挙兵せよ。

 べべんべんべんべん。

 三味線に導かれ、

 奇天烈なる日の丸な音色が空間を刻む。

 室内に長く伸びた、金狐の影が鬼のように見えた。

「し、死んぢまうぞ」僕も、狐も、命の型から逸脱してしまっている。止める者はいない。そんな常識を持った生き物はこんな穴にはやってこない。

「酒之助。誰もが、いつか死ぬでしょう? 早いか、遅いかでわあわあ言わないの。今、発熱し、盛り上がった。綺羅星となって、すっと夜空に流れた。短かったけれども、濃かった人生、やりきった、賭けきった、最後は自分の心臓まで賭けた。生きることを自覚するのって、そういう瞬間だとわたしは思うけどね」

「我々は狐でござんす。一万年くらい生きるのです」

「しかし、まあ、今死ぬ、狐がいてもいいじゃない」

 レイズ、

 コール、

 ドロップ。

 何を迷っているのだ。

 もう、引くべき刻はとっくの昔に過ぎているではないか。

 涙が視界の縁をにじませる。

 だが、しかし、死にたくないよぉ。

 もっと、生きていたい。

 だのに、僕は己を止められない。

「レイズだ、レイズ、レイズ!」拳を作り、鼓舞するように身体の前面で振るう。

 降りねえ!

 ここで降りたら、いつ登るっていうんだ。

 登らねえ龍は、地を這う蛇だ。

 首をもたげて、

 空を見やっても、

 飛ぶと決めなければ、空には舞えんのだ。

 一杯ずつ賭けるのは億劫だった。

 残りのピラミッドごと賭ける。

 グラスを引きずり、ポーカーマットの中央に並べていく。

 勝てばええ。

 トマーティーを抱きたい。

 金狐や銀狐が屈服した姿を見たい。

 茜ちゃんを助け出す。

 僕はヒーローになりたい。

 それらを叶えるのが、

 人生ダロ? 

「見ろよ、火事になりそうだな。救急車じゃなくて、消防車を呼ぼうか? 同じ番号ですっ飛んでくるぞ」

「……いい」

「なんだ。びびったか? 降りてもいいぜ。ああ、スピリタスは全部呑まなくてもいいぞ。僕は優しいから。呑んだということにして、バケツに捨てるか?」おい、バケツを持ってこいと子狐に指示を飛ばす。

 虚栄心がまっわる、回る、廻る、

 舌がこんがらがることはない。

 ぬめっと唾液をひっかぶって、滑走する。

 整えられた日の丸の言葉たちが、一点の曇りもなく、吐き出される。

 そして、スピリタスのグラスの上、口が並び、面となった場所に山崎を寝かしつける。

 彼は醒めることはない。もう、五十年は眠っている。あと、五十年は眠り、僕が老いてゆく姿を見てもらわなければ困る。

「いいわねええ。ぶっとんでいる。頭が千切れ飛んでいる。引っ込められないのよ。待ったなしなのよ。死ぬわよ」

「勝てばいい。難しいことじゃない。このカードをばら撒けば、畳に転がるのは狐の骸じゃああ!」

「ふふーん」金狐は面白おかしそうにたっぷりと鼻息を吐いた。

「ほほーん」銀狐はびゅっと白銀の刀身を振り抜く。

「殺してもいいかしら、銀狐」

「許可するわ。あとで、お酒に漬けておきましょう。酒之助の酒の字がじっくりと染み出すまで暗がりに保管しておくのだわ」

 白いベースコートを纏い、金色の雪を降らせるラメが散らばった金狐のネイルが、ぱっくりと破裂したような鳴りを奏でると、「こんこんこん」と意味深が狐声を出しながら、子狐たちがカラクリ扉から外へと飛び出していく。

 息をする間もなく、それはやってきた。

「樽酒やぁ爽やかな縷々杉の木よ」金狐が五・七・五と呟けば。

「底まで飲みて散らす屍」銀狐が七・七と歌を完成させる。

 子狐たちが転がしてきた台車の上には相撲取りのようにずんぐりとした樽が鎮座していた。筵ですっかりと包まれ、しっかりと綯われた縄が強固にその酒を封入している。

「お、おやじの酒じゃねえか」

「そうよ、酒之助が酒類取締官として押収し、酒之助が妖頭芭蕉として闇に売り捌いたおやじの酒」

「まだ、あったんだな」

「そりゃあね。先代は色んな所にお酒を隠していたから」

 金狐はそう言うと、銀狐は刀でざっくざっくと誓い合った愛のような結び目を切り裂いて、酒樽の皮を剥いていく。

「ほれ、鏡開き、やったことはあるかしら?」

「酒屋の息子だものね。当然にあるはず」

 木槌を受け取り、フタを叩き割る。

 子狐たちからやんややんや、満場の拍手が湧き上がる。酒樽に鼻を近づけるまでもなかった。親父が作ったすっきりとした米の風味を持つ日本酒のにおいが漂ってくる。

 僕はこのにおいが嫌いだった。

 僕を僕以外の者に染めようとして吐き気がする。

 僕は僕なのだ。

 僕以外の誰かではない。

「ううん、分量的にレイズってところかしらね、もちろんトマーティンもレイズをするわ」

「でも、もう、酒之助には酒がないのよ。コールするのは難しいんじゃないかしら?」

 もう最後の酒、山崎五十年まで賭けてしまった。

 僕には賭けられる酒はない。

 だが、しかし、今、手元に握り込んだ役は最高の一手なのだ。勝利がすぐそばにあるのに届かないなんて、そんなのあっていいはずない。

 頭の中のスピリタスが混合された血が沸騰する。

 心臓がドラムを叩き、呼吸が重厚なるベースを弾き騙る。

 叶うことならば、レイズがしたい。

 酒を上乗せして、優位に立ちたい。

 それが叶わないのならば、コールだ。

 カードをオープンにさせて勝負に持ち込む。

 キングのフォーカード、通常、常識的範囲内で拾える最良の目。それが日の目を浴びられるのだ、何もせずに箱に戻ってしまうのは、つまらないではないか。

 僕はトランプをポケットの中に収めた。そして、右腰のホルスターのボタンを外し、拳銃を抜き放つ。立ち上がり、その銃口を銀狐のほうへ向けた。

 銀狐は春一番とばかりに、中段の構えから刀を解き放ち、僕の方へ刃を滑らせていた。僕がトランプをポケットに収めるときから、彼女は動いていた。速えわ。

 燻された銀を名乗る狐。僕が人差し指の腹で引き金に触れ、射撃装置を起動させる前に、刃が肉に食い込むのは明白だった。

「自暴自棄になるのはよくないわよ」金狐は言った。

 刀剣はぴんと伸ばした僕の右腕の内側に食らいついた。そこには比較的大きな血管が走っている。

 ざっくり、肉がえぐられ、骨が削られる感触が体内に進軍する。痛いという言葉は相応しくない。新しい痛覚の概念を創造すべきだ。

 激痛を声に載せ、あらん限りの悲しみで包装をして、僕は鳴いた。断末に等しい、耳を覆いたくなるほどの叫び。

 あの子狐も、

 おやじも、

 こんなふうに死んでいったに違いない。

 因果応報、天誅。

「酒之助って本当に弱いわね」ぬらりとした血染めの刀をしゅっと一回しして、銀狐は鞘の中に収める。

「人が死ぬのはいつだって悲しいわ。酒之助の死体も道路に転がしておきましょう。妖頭芭蕉が殺したということにしておくわ」

「ぎんぎん、次なる妖頭芭蕉を決めなければならない。誰にしようかしら」

 金狐と銀狐が顔を寄せ合って話をしている。

 僕は銃を握ったまま、左手で右腕に刻み込まれた刀傷を触った。そこに爪を立てて、中に詰まっている肉をほぢる。

 毛細血管をぶちぶちと引き千切る。

 手に馴染んで、癖になりそうな感触だった。

 もっと奥へ、爪をノバセ。

「何をやっているのかしら? もともと、頭がおかしいけど、さらにおかしくなった?」

 銀狐が近づいてきて、不思議そうに首を傾げた。

 小さな血飛沫が個性的な模様となって、銀狐の仮面を汚す。

「ーる」

「はあ、何かしら? 聞こえないわ」

「こーるだ」

「コール? どういうことかしら? 酒はないわよ」

「あるさ。血の中にさっき呑んだスピリタスが含まれている。アルコール検査をしたっていいぜ」

「……足りないわ。全然、足りない」金狐が首を横に振った。

 この、悪魔め。

「ならば、もっと絞り出す。新しい傷も必要か?」

 僕は震える右腕をうろうろと動かし、銃口を自分の右耳に押し当てた。最大化された心音が右耳の穴から這いだし、銃身に跳ね返って耳の中に戻ってくるような感じがする。

 引き金を引いたら死ぬ。

 だのに、僕は死なない自信があった。

 どこか別の場所で、僕とそっくりな顔をした人物が暗がりの中からむっくりと起き上がり、物語の続きを紡ぐ、演者となるような気がした。

 そんな僕以外の誰かが僕の続きをやってくれるというのならば、僕はまだ生きていると言えるのではないだろうか。

 僕以外の誰かを認めたくないのに、いざ、僕が死ぬとなると僕以外の誰かがいて欲しいと願う。矛と盾がえいやと綱引きをしている。

「……分かった。酒之助の気概は充分に理解した。認めましょう。あなたのコール」金狐の声には敬意が含まれていた。先ほどまでの嘲りが嘘みたいに溶けていた。

「芭蕉様」

「芭蕉様」

 何匹かの子狐がやってきて包帯やら、アルコール消毒液やら、手当をしていく。このくらいの傷を拵えてしまったら、死んでしまうかもしれないと思ったが、子狐たちの手際の良さは舌を巻くほどで、なんと縫合用の細い針まで取り出している。ぷちりぷちりと縫い始める。

「そんなの、かすり傷よ。大袈裟な」銀狐は不満そうな口ぶり。銀狐にとっちゃあ、どんな傷でもかすり傷なのだろう。

「ポケットの中を改めてくれ。ポーカーの続きをやろう」

 銀狐は僕の指示に従ってポケットを弄る。

 熱を帯び、

 折れ線がたくさん入って、

 もうトランプとしての役割を果たすことは難しそうな手札がゆっくりと姿を現した。

「な、キングのフォーカードですって」

「役なしエースもあるわ」

 驚き、賞賛が場を支配する。

 ゲームを見物していた子狐たちも、興奮が冷めやらぬといった感じで、ポーカーテーブルに釘付けになっている。

「イカサマなのだわ」銀狐が断言するように、中指を立てる。ブーぶー。それに同調した一部の子狐が親指を逆さまにして、奈落を指さす。

「イカサマじゃねえよ。強運だよ。掴み取ったんだ」

「嘘よ。キングのフォーカードなんて出るわけがない。役無しエースで相手の手も封殺する。明白じゃない。僕は嘘つきの狐ですと、わめき散らしているのと一緒よ」

「銀狐。イカサマと思うのであれば証明して」

「ぎぎぃんぎん。証明なんていらないのだわ。一回のドロー、一回のカードチェンジで起こるはずがない」

「愛されているんだ。僕は、酒と対話をしている。声が聞こえるんだ。こういうシャッフルをすれば、酒之助に有利の目が出る。その役で勝負に出れば、勝てる」

「ふ、ふざけているわ。ごんぎつねぇ、このままじゃあ、トマーティンが取られてしまうのだわ。あたしはベッドでうずくまって、消えてしまったトマーティンの輪郭を思い出しながら、しくしくと泣く金狐を見たくないのだわ」

 銀狐はカードを何度も検分する。

 しかし、しわや傷だらけになったトランプから何を見いだせるというのだろうか。印をつけていたとしても、細工を施していたとしても、それらを今から判断するのは難しい。

 僕はポーカーテーブルに山と盛られたスピリタスに手を伸ばした。勝利の美酒に酔いしれる。トマーティンにたどり着くまでに賭けられた酒を全て呑まなければならない。

 が、今すぐに飲み干す必要はない。中毒にならないように水や炭酸水で割って、ちびちびと時間をかけて呑んだっていい。なんせ、ゲームは終わったのだ。

 もはや、勝負をする必要はない。

「さあ、トマーティンを見せてくれ。じっくりと観察したい。僕の掌に収まり、その表情を少しだけ赤らめて、丸くなる姿を。ああ、辛抱ならん」

「何を言っているのかしら。酒之助は物事を強引に進め、すぐに完結させようとするのね。まだ、終わっていないのだわ」表情が少しも感じられない金の面が僕を見やった。

「終わっていない?」眉根を寄せて、金狐を睨む。

「わたしのカードを見てよ」

「キングのフォーカードよりも強いっていうのか?」まさか、ロイヤルストレートフラッシュか? 嘘だろ。

 金狐がポーカーテーブルに伏せっていたカードを持ち上げる。

 一枚、

 一枚、

 濡れせんべいの表面に焦げ目をつけるようにして、ひっくり返していく。

「エース、エース、エース、エース」金狐が猥雑なる表情を浮かべ。

「エースのフォーカードなのだわ」銀狐の瞳が幽玄なる蒼き焔のようにめらっと揺らぐ。

 イカサマだ。

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