第壱幕 一

相埜谷酒之助あいのやさけのすけくーんはつまらん男だね。煙草は吸わない、博打も打たず、女にも手を出さない。何が楽しくて、人生の坂道をずるずるとはいのぼっているというのか」ピエールは両手を左右に広げて、「Why?」と首を傾げる。

「あなたに言われたくありません。僕はまだ疑っていますからね、浦島ピエール課長が飲酒をしているという噂」

「ははあん、じゃあ、アルコール検査でもするかい? 田島くーん、検査キットを持ってきてちょうだい」

「またあ?」

 面倒臭さを語尾に絡めた田島茜が、キャビネットから検査キットを取り出し、ピエールの正面に置いた。さてさてと、ピエールは両手をさすりながら、マウスピースの包装を破って装着すると、マスクを外してから、かぶっとくわえ込んだ。ふうっと息を吐くと、アルコールの濃度を示す数値は変動せず、ゼロのままだ。

「ほらほら、完全なるしらふ」

「そりゃあ、今はしらふかもしれませんよ。でも、赤提灯に行ったら、違法酒を片手に焼き鳥でもつまむんですよね」

「泡がぶくぶくなるやつだろ」ぶうくっくくうっ、ピエールが喉を鳴らして笑う。

 間違いなく飲酒をしているはずだが、単純飲酒は現行犯で罰金刑相当。運用上は見て見ぬふりと決まっている。

 正義感を押し殺し、パソコンのリーダーにICカードを読み込ませ、厚生労働省、地方厚生局、麻薬取締部の庁内イントラにアクセスする。酒類取締課のファイルサーバーから作りかけの報告書のワードファイルを呼び出し、文書を作成しようとすると、茜がパソコンの画面をのぞき込んできた。

「酒之助、報告書はうちが作っておいたから」

「茜先輩、仕事が速くないですか?」

「ついでに、判子も押しておいたよ」

 ピエールは『ピエゑル』と刻まれた印面を見せびらかす。

「二人だけで仕事を完結させるのをやめてくれませんか。パワーハラスメントです」断固たる意志を持って、ピエールに人差し指を突きつける。

「またまた~、慣れない英語を使わないの。人事にパワハラをされましたと泣きつくのかい? それって、大人としてみっともないと思わないか?」日本生まれ、日本育ち、海を渡ったことは一度もないピエールが、変なイントネーションの日本語を話したと思えば、

「これで、僕の残業代は縮減されて、世知辛い日本の財政に貢献できましたよ」茜が僕の声色を巧みに真似て茶化しにかかる。

「おお、田島くーんは分かっているね。公務員の手本にしたいくらいだ」

「来年は主任よ! イエ」

 ーイとハイタッチをしているので今日も酒類取締課は安泰だ。シリアスでスリリングな展開なんて年に一度くらいあればお腹いっぱいになる。

「わーお、ホワイトオークじゃん。いいにおいだねえ」

 ピエールは正方形のボトルに詰められた飴色の液体に鼻面を突きつけて、ふがふがと小刻みに鼻翼を動かす。

 ウイスキーを醸造する樽に勝るとも劣らない体躯は、脂肪なのか筋肉なのか分からない未知なる弾力性に富んでおり、見る者を圧倒する。

 備品の椅子を何度も破壊しており、総務からもう予算が足りないので空気椅子で仕事をしてくださいと叱られることもしばしば。薄くなった金髪は頭の天辺で渦を捲くように整えられており、体の大きさと比較するとおもちゃではないのかと思うほど小さい丸眼鏡をかけている。

「ずいぶんと摘発してきたけど、まだこんな美品が残っていたのね」

 黒髪をマッシュにカットした茜は意思表示がはっきりとした女。ノンキャリアの事務職として採用されたが、人員不足で空港検疫の現場に配置すると、めきめきと頭角を現し、次々と違法薬物所持の現行犯を挙げていった。

 彼女は、どんな人物を相手にしても動じず、自分の意見を堂々と述べる。そのせいで、敵も多く、酒類取締課なんてうさんくさい閑職に飛ばされたというのが本人の弁。新型コロナウイルス感染症対策の目玉として創設された課なのに、閑職扱いするのはさすがの度胸というべきか。

「課長、飲んだらだめですよ」

「課長でも?」

「人事に言いつけますよ」

 ピエールは残念そうにふしゅうっと肩を下げる。土手っ腹が風船のように萎む。

「大丈夫よ。今度、奢るから」

「何を奢るんですか?」突っ込みを入れてやると、

「嫌だなあ、ジュースに決まっているじゃない」

 きゃははっと鼻にかけた、かしましい笑い声を上げつつ、茜はピエールの手からウイスキーの瓶を取り上げ、しっかりとフタをしめ、ロット番号が表記されたラベルシールを貼った。

「課長に飲まれないように保管庫にしまっておくわ」

 酒類取締課長、証拠品の酒を痛飲! などと、週刊誌にすっぱ抜かれそうなネタではないか。麻薬取締部の面目が丸つぶれで、僕のキャリアを棒に振るつもりなのか。

 日頃から飲酒は厳かに謹んでもらいたいと、ねちねち指導をしているが、残念ながら、ピエールの脳細胞は隅々までアルコールに侵されてしまっているらしく、聞く耳をもたない。が、僕らの仕事は飲酒に耽る不届き者をしょっ引くことよりも、無許可醸造や違法輸入に手を染める輩を吊し上げることのほうが優先度は高い。

「妖頭會(ようとうかい)の動きは?」ピエールの丸眼鏡が鋭く光った。

「真っ当な商売をしていますね。物流の根幹を担うコンテナのレンタルをやっているようです」

「ほほう、コンテナか。今は、引く手数多の商売だからね」

「航路が詰まり、海運に支障をきたしているんでしょ、ニュースで見たわ」

 茜が指先を並べて、琥珀色に塗り染めた爪を蛍光灯にかざしながら言った。

「もちろん、コンテナの中は調べたんだろうな」

「しらみつぶしにやりましたよ。奴らはこれ見よがしに、野菜ジュースを輸入していると言い張って、不味そうな緑の液体を見せびらかすんです。そんなもん、国内でやれと言ったら、栄養成分がどうたら、日本では栽培できない素材がうんたらと抜かしやがるんです」

「はっはっはあー。そう、カッカするなよ。相埜谷くーんは何かあるとすぐに頭に血が上るタイプだからな。おまけに息が抜けない性格ときている。ふーひーと、深呼吸をしたまえ」ピエールは胸ポケットに右手をやって、煙草の箱を取り出すと、再びマスクを外して、唇で咥えこんだ。庁舎内は禁煙だが、彼は紙巻き煙草をくっちゃくっちゃとガムみたいに噛みながら、汁をすするけったいな趣味を持っている。

「娑婆の酒類の供給が飛躍的に伸びているのは、妖頭會が取り仕切る違法輸入酒によるものが大きい。我々はなんとしてでも、妖頭(ようとう)芭(ば)蕉(しよう)を逮捕するんだ」

 妖頭芭蕉。

 違法流通する酒類の全てを手中に収めている元締め。人相は不詳であり、表舞台には姿を現さないのだが、子狐と呼ばれる手下たちが暗躍をしており、網にかかる。

「法律がなんとかならないのかしらね。飲酒、所持が黙認されている以上は、捕まえても逃げられてしまうもの」

 ぷうんとアルコールのにおいが漂う。

 職業柄、反射的に職務質問をかけようとするも、茜の除光液のにおいだと分かると、「それも、違法酒ですよ」と茶化された礼をしてやる。すると、「これは、混ぜものをしているからセーフよ」ときた。

 法定限度まで混ぜものをして薄めれば、酒類として見なされない。一時はこれを悪用してハイボールやら、サワーやらが流行したが、早々に法律が改正されて御用となった。

「罰金を払えば赦されちゃうからねえ。呑兵衛たちに言わせれば、罰金も酒税も変わらないもんねえ」

「と言いつつ、飲んじゃダメですよ」

 ピエールは額に分かりやすい汗をかきつつ、「肝臓によくないからね」などと宣う。よくないどころか、フォアグラにして食えるのではないかと僕は思う。

「泳がせている子狐からの情報によると、今度は横浜港にも進出するらしいわ」

「へえ、本当ですか? というか、泳がせている子狐なんていたんですね。誰なんですか? 今度、僕にも教えてくださいよ」

「嫌よ。酒之助が芭蕉かもしれないでしょ。それに、彼らからは芭蕉に繋がらないようになっているの。振り込め詐欺の受け子と一緒ね」

「そんなわけないじゃないですか」僕が芭蕉だったら笑っちゃうよ。

「横浜中華街か……エビチリ、小籠包、ぐふっ」ピエールの口角から、つうっと涎が垂れている。

「課長って、すぐに食べ物の話に飛び火しますよね」

「食べなきゃ、仕事なんてやってられないからねえ。しかし、横浜港に進出っていうのはチャンスかもしれんなあ。不慣れな現場というのはボロが出やすいからね」ピエールはあごに手をやって考える素振りを見せた。

「人に逃げられてしまうのは仕方ないとしても、物をおさえられれば、うちらの成果にも繋がる」

「つまり、点数稼ぎってことですか」

 僕の言葉を無視して、ピエールは足下に置かれた有名デパートの紙袋に両手を伸ばす。ひいいっと今にも破れそうになっているスーツを気にする様子もなく、ツヤ消しがほどこされた拳大の銃を引き抜いた。

「さて、暴れたい人はいるかな?」

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