第壱幕 二
「シーシャには、ニコチンもタールも入っていないから、いくら吸っても害はないの」
名前を知らない花のかおりを孕んだ煙を、色めかしく、ふふうっと吹き流しながら、ささやくように女は言った。僕は唾液と、臙脂の口紅を混ぜて、おんなが塗り込められた唇をじっと見つめながら、耳を傾けた。
「嘘だね。ニコチンもタールも含まれている」僕はガラスの煙管をこつんと爪で弾きながら言った。
「そうなの?」女は唇をくちばしのように尖らせた。実は、臙脂の口紅は鮮やかな真紅なのかもしれない。が、視界を照らすのは妖しげなブラックライトだけで、つかみどころのない輪郭が揺らめいている。
「じゃあ、あいつは嘘をついていたのね」
「あいつって」
「うーんとね、昔の男よ」唇の頂きがにゅっとつぶれて、隠れ家を失った八重歯が顔をのぞかせた。
「どんな男だったの?」
「どうでもいいでしょ。男の話なんて」八重歯の先端からぴゅっと唾が糸を引いて伸びた。透明でまっすぐだった。
「気になる」
「どのくらい?」八重歯が下唇を噛んだ。
僕は財布から札を何枚か抜き取った。重ねたまま掌に隠れるくらいに折りたたんで、女の手をそっと握った。
「ふふん」口角がみゅっとつりあがった。唇のしわが伸びて、光沢が増し、臙脂がわずかに明るく変色した。
「いい男だった」
「どんなところが?」
「何も聞かないところ」前歯が開いて、舌がのぞいた。血色の良い健康的なもの。
「……」
「おしゃべりなのも嫌いじゃないわよ」舌はすぐに引っ込み、えらあごが張った。
「話をしていないとね、不安になるんだ。だから、僕はずっと、べらべらと話し続けている。たった一人でもね」
「へえ、酒之助はぼっちってわけね。ふんふん、なるほど、そんな顔をしているわ」唇が鍋底の煮凝りのようにふるふるっと震えた。
僕らはシーシャの吸い口を含んだ。
風変わりな洋酒瓶のようにくびれた煙管に溜まった水が、カラコロ、転がる。
ぢゅっとバーナーで炙られたフレーバーが、溶岩のような赤々をまとっている。長く伸びたシーシャの鼻は蠱惑的な女の唇と、僕の唇に伸びていて、煙を届けてくれる。
同じ息を分け合っている。酸素濃度が低下し、忌み嫌われる密になった空気を、肺と肺で共有している。もしかしたら、王冠をかぶり、細胞に吸着して人類を狂気に落とし込んだ、あのいきものが蠢いているかも。
「考えずにはいられないんだ。いつも、何かを探している。角が取れて、丸くなり、磨かれて、艶が浮き出るような何かを探している」
「ああ、分かるかも。わたしも何かを探している。言い表そう、書きだそうとするけど、正鵠を射ているものはなくて、いつもその周辺がぼろっと取れて掌に残る。それは、冷たくて、無機質で、人間的ではない何か」女の唇がだらしなく半開きになって、はあっと息を吐いた。煙が室内を白く、濃く、満たしていく。
僕ではない、僕が、僕の中に入り込んで、僕を操縦している。
本当の僕とはどんな僕なのか。
スーツを着て、犬の首輪のように巻き付けられたネクタイを締めた僕なのか。
女とシーシャを吸って何かを探そうと手を絡ませている僕なのか。
清濁のある、歪さが僕なのか。
僕を解体し、捌こうとするほどに、分からなくなってゆく。僕のことなのに、僕が分からないって情けない。
女がシーシャの吸い口を置いて、ケリーバッグに手を伸ばした。なめされた不揃いの四角い模様は、天然のワニ革で、自然に溶け込むような色合いの深い緑は未だ真新しさを宿している。贈りものだろうか。僕は女に並び立つ、黒塗りに沈んだ男のシルエットを思い浮かべた。
女は誰もが振り向くブランドを象った金色の留め具を外し、掌を滑り込ませると、暗く沈み込んだ色合いの瓶を取り出した。
な、なんてものを手にしているんだ!
「マジ・シャンベルタン グラン・クリュ」
「フランス ブルゴーニュ コート・ド・ニュイ ジュヴレ・シャンベルタン」
「あら、博識」唇が感嘆の息になびく。
「酒屋の息子だからね、前にも話したでしょ」
「相埜谷酒蔵だっけ。お父さんは酒類取締官に殺されたのよね」
「うーん……まあね」石畳に流れたおやじの血を思い出した。息をするのも億劫になるくらいに暑く、蝉がやかましく鳴る夏の日のことだ。
「でも、お酒をつくっただけで殺すなんてひどいわね」
「刃物を振り回したんだ。権力に抗ったわけだ」
「復讐しようとは思わないの?」唇がクエスチョンマークの曲がりに沿うようにして弓なりになった。
「いつかしようと思っている」
「へえ、いつか、ね……」
女がコルクの中央にひゅろり、らせんを描くワインオープナーを宛がって、滑らかな手つきでボトルから栓を引き抜いていく。ぽんと空気を弾く音は嫌いではない。パーティの始まりって感じ。
カウンターテーブルの上にはワイングラスが置かれていた。それは酒類付属品として取り締まりの対象であり、見つければ現行犯逮捕ができる。
女はワインボトルを傾けて、葡萄色の液体を注ぎ入れた。とっくとっくと生き物のように流れ落ちたそれは、独特な気品さを漂わせていた。ひとつ注ぎ、女も首を傾げた。下唇がいたずらっぽく前に突き出している。
「酒之助も呑むでしょ?」
「呑んじゃだめだ」
「下戸なの?」
「そうじゃない。飲酒は犯罪だ」
「ふーん、わたしのお酒が呑めないわけ?」小刻みに動くおんならしい丸みを帯びた喉仏は魅惑的だった。あそこに僕の唇を埋めて、ちゅうっと吸い出してやりたかった。女のはつらつとしたいじわるを語る若い声を舌の上で転がしてみたかった。
「帰るわ。そろそろ、終電だし」
「もうちょっと一緒にいようよ。タクシー代は出すから」
「お酒を飲まないと、楽しくないの。別に、酒之助じゃなくてもいいのよ。きゅうと可愛く鳴けば、尻尾を出してついてくる男はたくさんいる。彼らはアルコホォルはもちろん、もっと複雑な化学の粉も持っているのよ」
女は僕が掌に握らせた札の一枚をくるくるっと丸めると、鼻の穴に当ててすうっと吸い込む真似ごとをした。
「そんな君は見たくないよ」
「わたしも、体に悪いことはやりたくないわ。だから、酒之助がいいの。あなたはわたしに丁度良く、デンジャラス。酒之助と酒を飲んで、正義の突起を指の腹でこりこりとやりながら、朝まで過ごしていたいの」
「悪趣味だね」
もうひとつのグラスに、ワインが注がれる。渦を巻いて、僕を威嚇するように揺れていた水面は時間がたつと、諦めたように静かになった。
女は金縁のお洒落な平皿に盛られた果実をひとつ、指先でつまみ上げた。黒くて赤みを帯びたそれは、ブルーベリーだろうか、若い娘のようにぱつんと張った皮には汗のような雫が浮かんでいる。
女は果実を指先で潰した。ぶしっと、とろみのある赤い汁が湧き出して、血のように滴り、透明感のある白をベースコートにして、金色のラメが散りばめられた長い爪に絡まる。
「かんぱい」
ワイングラスのボウルを掌で包み込むと、ひんやりしていた。
計算されている、
ケリーバッグから取り出し、
僕のためらいをなだめ、
グラスに注ぎ入れ、
掌で温度を推し計る瞬間に、
丁度良い塩梅になるように、
ワインセラーの温度を調整しているのだ。
女は分かっている。
何もかも、月の裏側や細胞の中まで知り尽くしている風に、
唇をぱちゅぱちゅ、動かす。
手首をしなやかに、一定のリズムでワインを攪拌させる。空気中の花を取り込んで、より濃厚な香りとなるように調える。
「酒は生き物。世界を支配するあらゆる要素によって、微細に変動する。変わるものを、変わらない場所から観察し続けろ。それが杜氏だ」
じっくりと焙煎された渋みを持つおやじの声がシンクロするように目を覚ます。
僕は場所を変えてしまった。
変わるものを変わらないものにしてしまった。
どうすればいいのだ。
しかし、時は刻まれる。事実を風化させ、衝撃をなかったかのように和らげる。
グラスに唇をつけた。鼻息がボウルの中で広がって、ほのかなビタァとした葡萄の風味を感じた。
女の嬉々とした好奇心の塊が、
罪をすすろうとしている僕の唇を眺めていた。
本当に呑むのね。
呑んでいいの?
犯罪よ。
取り締まる立場でしょう。
嘘つき。
罰金だ。
金を払ったら許されるのか?
牢屋がお似合いだ。
鉄鎖の向こうに閉じ込めてしまえ。
今まで聞いた言葉がカクテルされて、頭に散らばる。罪を犯すとき、人は頭の中で聞こえた声に従うらしい。呑め、飲め、のめ、のおめえ。
女の唇には動きがなかった。
僕は喉を鳴らした、じんとした熱が、えらく染みた。
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