凹凸がある狐

@hassiy2

序幕

 花芯をぢっと炙ったようなにおいが鼻の奥を焼いた。

 目を覚ました。何かが顔に覆いかぶさっている。視界は漆黒に包まれて、顔の自由を奪っているものが分からない。

 顔にへばりついているものをはぎ取った。

 目をまばたかせて、顔をしかめる。これは狐の面か。

 べべん。

 三味線を爪弾く音。

 視線をやると部屋の隅に童女が座っている。

 へのへのもへじ、子どもが落書きをしたような狐を面として、顔に宛がっている。

 見回すと、こんこんここん、狐に囲まれていた。壁や天井、畳までべったりと狐の面が張りついている。ぶきみ、不気味、背が強ばる。うなじから湧いた脂汗がひやひや、背中を通って尻まで垂れる。

 部屋の中を照らし出すためか、いくつかの狐は燭台をくわえている。先端には今にも溶けきってしまいそうなろうそくがちろちろ、火柱を立てている。

 べべんべんべん。

 鳴りやまぬ、三味線。

 前方、後方、左右、天地も抜かりなく、意識を巡らせる。僕は童女に声をかけようとした。が、それよりも早く、言葉は現れた。

「どぉして、面を外したのぉ?」絶世独立(ぜっせいどくりつ)とした女の声がする。

「何者だ」

「狐よ、見て分からないの?」紅口白牙(こうこうはくが)とした女の声がする。

 ケタケタケタ……タ……タタタタ。

 狐の仮面が長い鼻の下にある口をにんまりと切り裂いて、笑い転げた。気づいた、幻覚、ポケットをいじる、布地を指先が引っかく、からっけつ、怖じ気が走る、正気に戻れない。

「お探しのものはこちらかしら?」羞花閉月(しゅうかへいげつ)とした女の声がする。

 ぽうっと天井付近の面が灯った。狐の口から伸びた燭台に糸がぶら下がっていて、酒瓶がくくりつけられている。びっしりと鳥肌が立つほど、瓶底のぼつぼつが天井を埋めつくしている。

 手を伸ばした。

 が、背丈の倍ほどもある天井は届かない。

 跳躍してつかもうとしたが、ゆうらゆうら揺れるろうそくの炎を見て思いとどまった。

「賢明な判断ね」明眸皓歯(めいぼうこうし)とした女の声がする。

「何が望みだ」

「お話がしたいの」傾城傾国(けいせいけいこく)とした女の声がする。

「話なんぞしたくない。この部屋から出してくれ」

「いいわよ、出るといい。出られるものならね」氷肌玉骨(ひょうきぎょこつ)とした女の声がする。

 立てない。強烈な何かが尻を床へ吸い寄せている。

 恐怖か、磁力か、妖術か。

「なぜ、面を外したの?」国色天香(こくしょくてんこう)とした女の声がする。

「不気味だから外した」

「不気味なのはニンゲンの顔よ」一笑千金(いっしょうせんきん)とした女の声がする。

 顔に手をやる。

 この顔が不気味なのか。

 目や鼻や口の凹凸はちゃんと存在している。鏡を見て覚えた僕の顔は異端じみているはずがない。それに、狐の面なんて普通ではあるまい。

「どうして、狐が普通でないと言えるの?」仙姿玉質(せんしぎょくしつ)とした女の声がする。

「あっちやこっちも化けているかもしれないのに」解語之花(かいごのはな)とした女の声がする。

「見渡してみて、どこもかしこも狐ばかり」沈魚落雁(ちんぎょらくがん)とした女の声がする。

 狐の面を観察した。

 にょっと笑っているもの、

 歯をむいて怒りを露わにしているもの、

 目玉が四つあるもの、

 ほくろが付いているもの。

 同じものは存在しない。

 ずいぶんと手の込んだつくり。

「分かった話をしよう。面も着ける」

 外した面を見て、ぎょっとした。

 生々しい傷跡が、

 ひい、ふう、みい。

 毛がむしられ、肉が露出し、黒ずんだ血がこびりついた失敗作。

「面をしないの? ひどい顔をしている」窈窕淑女(ようちょうしゅくじょ)とした女の声がする。

「すぐに、狐になった方がいい。楽になれるわ」純情可憐(じゅんじょうかれん)とした女の声がする。

「楽になれるのか?」

「そうよ、狐になれば何も考えなくていい」情緒纏綿(じょうちょてんめん)とした女の声がする。

 面を顔に近づける。ひげのような黒い根っこたちがわぁっとやってきて、おいでおいでと手招きをしながら、唇に触れた。再び面を着けたら、引きはがせないかもしれない。なんせ、魅せられている。狐になり、流れに身を任せてこんこん、振る舞うラクがぷんぷん。

「嫌だ。僕は僕でありたい。僕に似た何者かになりたくない」

 動けないが、精神の生足が一歩踏み出した気がした。

「自我か……厄介なものに囚われているわね」錦上添花(きんじょうてんか)とした女の声がする。

「焼いてしまいましょう。また、土をこねて作ればいいわ」雲中白鶴(うんちゅうはっかく)とした女の声がする。

 ふざけるな。

 僕は、再生産できない。

 僕は、唯一無二の存在だ。

 僕は、誰にも真似できない確固たる個性を確立している。

 言葉を塗りしめる。自分という色をぶちまける。

 ぼた、ぼた、ぼたた。

 粘り気のある液体が落ちる音が聞こえた。蝋が垂れた音だ。白濁とした蝋はじうっと熱を放射しながら、狐の面が降り積もった畳に広がると、まっさらな光を放ちながら、燃え広がった。

 顔面蒼白、

 冗談でござい、

 嘘、幻、夢ヲチが相場と決まっている。

 が、ヲチない。そんな夢はありなのか。

 まさか、うつつではなかろう。

 べべんべんべんべべんべんべん。

 三味線の音がかき鳴らされる。

 童女は口を閉ざして、懸命にバチを動かし続けている。

「とぉりゃんせぇ、とぉりゃんせぇ、こぉこはどぉこの、細道じゃぁ」

絶世独立、

 紅口白牙、

 羞花閉月、

 明眸皓歯、

 傾城傾国、

 氷肌玉骨、

 国色天香、

 一笑千金、

 仙姿玉質、

 解語之花、

 沈魚落雁、

 窈窕淑女、

 純情可憐、

 情緒纏綿、

 錦上添花、

 雲中白鶴、

 ぐるぐる、ぐるりり、

 肉体を持たない女たちが輪になって、僕を真ん中にしておどり、めぐり、うたう。びっしりといた狐たちが苛烈な勢いで火焔を吐きながら消えてゆく。左右に開いたあぐらの膝小僧を灼熱がべろりべろりと舐める、皮を溶かし、肉を焼く感触が脳幹を疼かせる。

 焼身、僕は傷だらけの狐の面を顔にやった。

 ひんやりとした冷たい感覚は、皮膚としての機能が失われたからか。狐の面が顔をむしゃむしゃと貪りながら、同化していく。

 個の首を鷲づかみにして、爪でぎぎぃっとかっちゃく。

「行きはよいよい、帰りはこわい、こわいながらも、とぉりゃんせぇ、とぉりゃんせぇ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る