第壱幕 五

 面の中はいつも密やかに鎖されている。

 僕はこの格子の中が好きだ。広すぎる世界の移ろいを狭められるし、人からのぞき込まれない。汗をだくだくとかくが、それは生きている証明のようで心地よかった。

 個性的な木目と、整った板の切れ目がコントラストを描く、板の間に足を擦り付けると、飛び散って暴れ狂う思考が一点に集中していく。

 そんな一点を芯と打ち抜くこそ剣道だ。

「始め!」

 呼吸を早くして、心拍を上げる。血流を流し、脳の回転を速くする。心技体の一致は竹刀を打ち付け合う前から始まることを、多くの剣士は知らない。

 相手は小柄な体躯を活かそうとする、下段の構え。斬り上げからの胴や突きには注意を払わなければ。

 僕は上段に竹刀を構える。背の高さと瞬発的な機動力を武器とした面を得意とする。思わずにひぃっと笑ってしまう。体勢としては圧倒的に有利だった。

 浮ついた心を抑え込むために、しんと耳をそばだてる。自分の心拍の向こう側から相手の微かな呼吸音を読み取る。完全には聞こえない。が、呼吸のリズムが切り替わる瞬間は分かる。体が上下する動きや、竹刀の揺れ方から、総合的に音を推測する。

 すっと強烈なスリ足が連鎖的に板の間に響いた。上段の竹刀を傾け、下段から飛び込んできた鋭い胴を受け止める。竹刀の小気味よい鳴りが虚空に煙る。

「やるねえ」鈴の音をオブラートに包んだような声が聞こえる。

「なんのこれしき」強がってみせた。

 汗と名無しの花が混じったにおいがかおった。女のにおいで最も好きなもののひとつ。これはなんと命名すればいいだろうか。

 などと、色めいたことを考えていると、競り合っていた竹刀が急に軽くなった。ぱっと、相手が離れて、再びせめぎあいが始まる。

「あたしねえ、舐める男は嫌いなのよ」けだるいベッドの上で、へその縁を熱心に舐めていると、女は言った。

「これも不快なのかい」僕は美味そうに伸ばしていた舌をさっと唇の中にしまいこんでから訊ねた。

「唾液をたらたらと流しながら、舐めるのは嫌いじゃないわ。むしろ、うっとりするくらい。男をへそで飼っているような気分になるから。餌をあげているようでしょ?」

「うーむ、これは美味なり。ほんのりとアーモンドのにおいがする」

「やだ、それじゃあ毒殺じゃない」枕が飛んできて、柔らかな面を食らうと、お返しに唇を絞ってへそを吸ってやった。

 チラついた色めいた思考の霧が晴れると、びゅーくと風を切った竹刀に遅れて気づいた。

 踵に力を入れて背後に飛ぶ。

 着地をしてたたらを踏む。鼻の奥でつっとした痛みに似た酸っぱいにおいと、名前を知りたい花の香が混ざり合う。女がめったに使わない面が飛んできて驚く。嫌いな男がにょっきり、首を出す。女のくせに。生意気な。

 官能的な画が一瞬切れ込んだだけでこのザマ。女には一片の甘さなど存在しないのだろう。どくどくとした血の流れと、冷たい静謐さを宿しているに違いない。

 たたらが致命的になった。ここから立て直し、盛り返せなかった。後手に回る。竹刀を相手の剣先に合わせ、受けて、受けての防戦を強いられる。

 審判から指導が入る。好戦的になれと、ゲキが飛ぶ。

 分かっている。が、女を叩きのめそうとすると、あの名前をつけ忘れた花のにおいが満ちてきて睾丸がひゅんと縮む。ちょろい、ちょろい、と高をくくって、気持ちを高揚させないと、引きずり込まれそう。

 が、漢を見せねばならぬ。

 僕は日の丸を背負って立つ、公の人間。女は僕を誘惑し、酒を勧める、犯罪者崩れ。竹刀で徹底的に叩き潰し、ついでにそのほっそりとした手首にわっぱをはめてしまえばいいではないか。

 罰金で出てくるのだろうが、ぶるりと怖い思いをさせておくのも悪くない。釣り合いを取るには、こちらも思い切って押して、引く必要がある。

 彼我をばっと開いて、峻烈なスリ足を刻み、一気に攻め込む。竹刀を振り上げる。胴が、がら空きになるが、構うものか。相手の胴よりも素早く、面を叩き込めばいい。

 速さなら負けない。

 速さと正義の両立こそ、僕が愛すべき信念のひとつ。

 打っと有効打突は同時だった。

 が、旗は僕のほうに上がった。

 やったという歓喜は全くなかった。

 僕は竹刀を放り投げると、つうっとその場にうずくまった。

 唇を血がにじむほど噛みしめた。イテえ。わざと狙いを外して、脇腹を打ちやがった。

「酒之助、大丈夫?」全然心配していない声が頭上から聞こえた。

 声が出なかった。

 スポーツマンシップとは?

 手加減とは?

「あたしを舐めたでしょ。嫌いって言ったよね」見上げると、面を取った薄化粧のさわやかな顔があった。甘栗のようなくっきりとした瞳には、悪戯が好ましくてたまらないといった少女がぞんざいに足を組んで腰掛けている。

「舐めてないよ。でも、ちょっとひどいんじゃないか。アザができたらどうするんだ」

「舐めてあげるわ。男の勲章でしょう」甘栗が潰れて、にゃうっとうすべったく横に瞳が伸びた。

「……」

 竹刀を持って立ち上がり、そんきょをしてから礼をする。抜け目なく女から視線を外さず、しずしずとスリ足で後退し、場外へと出る。

 面を取ると新鮮な空気が喉を突いた。胴を外して、稽古着をめくりあげる。皮下に紅紅とした勲章が血の花を開かせようと渦巻いていた。

 女が軽やかに対面から駆けてきて、氷嚢袋をむぎゅっと押し当てた。ひょうっと凍える感覚が、痛みとつば迫り合いを演じる。うひいっと喘ぐと、女は嬉しそうに笑った。

「わざとじゃないのよ。ちょっと手元が狂っただけなの」面積を失った糸目が僕の勲章をしげしげ、観察する。

「絶対、わざとだろ」

「あら、信用しないの?」ぱちりとカールされた長いまつげが、ぱらら、まばたきを繰り返した。

「しないよ」ぶっきらぼうに言ってやると、女は哀れさを覚えたらしく、「あとで、楽しい場所に連れて行ってあげる」と言った。

 ホテル、ふかふかのベッド、触り心地の良い女の柔肌が掌に蘇った。

「面はなかなか迫力が出てきたじゃない。腹を決めて打ち込んできたっていうのが分かったわ」

「そりゃあ、一方的に防戦を強いられていたからね。どこかで、形勢逆転の一手を打たないと判定負けになるのは分かっていたし」

「でも、いきものの、生き死に判定なんてないからね。生きるか、死ぬか、知力、体力、精神力を使って攻めないと。だから、剣道は不満なの。だって竹刀じゃない」

「真剣でやり合おうっていうのか?」

「ぎぎんっと火花を散らしながらやる真剣勝負は、楽しいわよ」ぐっと、上まぶたに力が入る。輪郭が鋭敏に、楽しさを表す。

「殺されかねないな」

「だから、武道で腕を磨いているんでしょう?」

「君と戦うためじゃないよ」

 一戦交えるなら、妖頭芭蕉と決めている。

 奴を逮捕するのは大変だろう。子狐たちを囲み、妖術のように操って捜査の矛先を自在に変えるかもしれない。風で流れてきた噂によると、妖頭芭蕉は一通りの武術を心得ており、刃向かう人間を骸にしては高笑いをしているらしい。

 そんな悪玉をばっさりとやれれば、相当な武勲になるに違いない。麻薬取締部での評価も上がり、将来は主要なポストに昇進する可能性だってある。

「ねえ、あの酒はどこで入手したんだ? フランス ブルゴーニュ コート・ド・ニュイ ジュヴレ・シャンベルタン」

「何の話?」

「ほら、この間、シーシャを吸ったバアで呑んだやつ」

 僕の言葉に、女はしばらく間を置いてから、「そうね、そんなこともあったわね」と言った。それから、いっと唇を剥いて、綺麗に整えられた前歯を見せびらかしながら「秘密」と抜かした。

「そりゃあないよ。一枚、妖頭芭蕉が噛んでいるんだろ」

「ふん。妖頭會が絡んでない酒なんてないでしょう」

「そりゃあ、そうだけどさ」

「なによ、あたしが妖頭芭蕉とつながっているって言いたいわけ?」稲光のような眼がぎゅるり、黒目も白目も、剣を持ち、僕を刺し貫こうとしている。

「嫌だなあ、そうじゃないよ」嘘をつく。女が妖頭會と深く関わっているのは間違いない。それどころか、妖頭芭蕉と枕を共にしているまである。いや、もしかすると、女は妖頭芭蕉そのものなのかもしれない。

「ふーん。まあいいけど。妖頭芭蕉とつるんでいても、あたしが好き?」

「何だよ急に」

「あたしが好きかどうか聞いているの」きゅるるん、瞳がうるおう。今にも、朝露のような涙がこぼれ落ちそうだった。

「うーん、どうだろうね」

「はぐらかすの?」

「君だって、よくはぐらかすじゃないか。僕は好き?」

「好きよ、十番目くらいには」視線を逸らし、伏し目がちになる。目玉に足が生えて、今にも逃げ出しそう。

「ひどいね」

「でも、そんなあたしが好きなんでしょう」

「まあね」


 瓦葺きの三角屋根が空を支えるようにして、反り返っている。塗り重ねた漆喰は白く、窓辺には木製の雨戸が重ねられている。

 三和土で靴を脱いで、框へと足を載せる。床板は年相応に軋み、表面はざらりとしている。

「お邪魔します」

「誰もいないわよ。それとも、誰かにいて欲しかった? 旦那とか」

「結婚しているのか」

「していないわ。結婚は面倒くさいでしょ」

 女の後ろ姿を追いかけて、居間へと足を踏み入れる。天井には太いハリが幾重にも走り、年月を物語るように黒ずんでいる。壁には棚が据え付けてあり、そびえるようにして酒瓶が積み重なっていた。唇を誘うように着色された彩りの液体たちを見ていると、口内に唾が湧いてきた。

「好きなのを持って帰っていいわよ」

 女は僕の目なんて気にせず、服を脱いでいく。剣道の稽古で汗まみれになったシャツを脱いで、床に放り投げる。質素なスポーツタイプの下着も脱ぎ散らかし、華美な装飾と鮮やかなサーモンピンクが眩しい、ブラジャーとショーツを手早く身につける。

「今日は生理じゃないよな」

「うーんとね、今から血が出てきそう」女はふふと笑いながら、股ぐらに手を宛がった。

「そんな上等な下着を履いていていいのか? 汚れてしまうよ」

「血まみれになってもやるくせに、よく言うわ」

 女は日本家屋には場違いな最新鋭の冷蔵庫を開けて、中身を物色している。

 ブラジャーのホックからすっと下へ伸びた背骨のラインが、ぽっこりと浮かび上がっている。ひとつくらい脊椎の節を抜き取って、指先で弄びたいなと思った。書類仕事の退屈しのぎにはなりそう。

 振り返った女の手には酒瓶が握られていた。バアで呑んだワインや、ひんぱんに押収されるウイスキーのたぐいではなく、炭酸ガスで強力に瓶の中へ封じ込められたビールだった。

「酒之助も呑むでしょ」

「呑まないよ。飲酒は犯罪だろ」

「でも、ワインは呑んだんでしょ。あたしのビールは呑めないわけ?」

「そんな……ことはないよ」

 茶色い瓶にはラベルや作り手を示す刻印は一切されていなかった。

「これは法律が施行される前に作られたやつだから合法よ」

「脱法だろ。法律が追いついていないだけさ」

 女はビール瓶の口にがぶりと噛みつくと、王冠をぽこんと引き抜いた。ぷっしゅと炭酸が抜ける音が、僕の道徳心を揺さぶる。

「ちょっと、見せてみて」

 女から受け取ったビール瓶を観察する。表面は汗をかき始めている。ビール瓶はやけに傷が多くあった。底のほうなんて少し欠けている。明らかに怪しい。

「これさ、リターナブル瓶でしょ」

「環境に優しいでしょう」女は白々しくそう言うと、ガラスのコップをふたつ戸棚から取り出して、机の上に置いた。僕は女に急かされて、環境に優しい金色の飲料を傾ける。

「禁酒法時代に」

 突っ立ったまま、女と声を揃えてそう言うと、コップに口を付けた。

 さわやかな麦の香りは自然の雄大さを想起させて、ぴりぴりくる泡粒は武道に明け暮れて渇いた喉に清涼感をもたらしてくれる。

「うまいな」

「そう? これでもかなり品質は落ちているの。酒類取締官の目が厳しくてね。国内の醸造所はほとんど潰されたから」女は全部知っていますよという言葉をくわえて、僕の瞳をのぞき込んでいる。

 それから、べえっとからかうように舌を出して、くるりと背を向けた。そのままキッチンへと歩いていく。僕は女の尻を眺めながら、その背中を追いかけた。

「甘いものは好き?」

「ああ、舌にねっとりと絡むやつはもっと好き」

「この、すけべぇ」ふふんと鼻息が混ざった笑いを漏らすと、女はシンクの下から包丁を抜き放った。

「それで剣道でもやろうっていうのか?」

「ばっかじゃないの。タルトを切るのよ。ついでに酒之助の耳たぶも刻もうかしら」

「遠慮しておくよ」この女ならやりかねない。

「あら、血だらけなのが好きだったんじゃないの?」皮肉が効いた女の口は車のように廻る。

 タルトが載せられた平皿を冷蔵庫から持ってきて、女は包丁を入れた。こんがり狐色に焦げ目のついた生地は層になっており、大きく空いた隙間からは蜂蜜と思しきとろみのある液体がこぼれる。

 赤黒く、宝石のような光沢を放っているのはブルーベリーだろうか。きっと、ほのかな酸味が甘ったるい蜂蜜と混ざって、頬の内側を痺れさせるに違いない。

「あーん」女が切り終えたタルトのはしっこを持って、僕の口元に伸ばす。この間は透明感のある白のベースコートを施し、ゴージャスな金色のラメが入ったネイルをしていたが、今日は銀色のラメに変わっている。女のおしゃれというのは低気圧がはびこる空のように変わりやすい。

「美味しい?」

「……不味いって言ったら」

「刺す」

「美味しいよ」

「どーせ、刺されたくないからでしょ」女の口調に疑わしさが三割二分五厘、混ざる。

「生地にしっかり空気が含ませてあるから、冷やしておいてもちゃんと歯ごたえがある。蜂蜜は天然のやつでしょ。砂糖水をしゃばしゃばっとかけて、大量生産したのじゃない。ちゃんと花の香りがする。いつもの、あの花ね。それから、ブルーベリー、新鮮で皮の食感に歯ごたえを感じる。口の中にびりびりくる酸味がいいね」

「へえ、びりびり来るんだ」女の目が興味深そうに大きく開く。瞳の奥に火柱が揺らめいたような輝きがあった。

「アクセントになっていていいよ」

「酒之助って上手。ごほうび、欲しい?」

「欲しい」ごくんと喉を鳴らした。ビールを飲んだばかりだというのに、砂漠にいるような乾きを感じた。

 女は華奢な両腕を僕の体躯に蛇のように巻きつけた。逃げられないようにぎゅっと締めつけられる。そして、顔がにゅっと近づいてきた。どこかで見たような気がする桃色の花が頭の中でタップダンスを踊っているような気がした。

「ねえ、大事な話があるの」

 この、堕天使めええと言われて、地上に突き落とされたように、感情が急転落下する。肝が冷えた。ついに年貢の納めどきか。

 酒類取締官と看破され、僕は殺されるのかもしれない。

 まてよ、先ほどのビールは苦くなかったか。ビールなんて飲んだのは久方ぶりだから、味はとうの昔に忘れてしまっている。くらくらする。一服、盛られたかもしれない。

「なんだよ、急に改まって」

 銃は持ってきていない。いざとなったら体術を使って、女をねじ伏せるか。しかし、彼女も相当な手練れ。僕の方が腕をねじ上げられて、無礼であるぞと顔を床に押しつけられるかもしれない。

「子狐にならない?」

「子狐?」

「そう、妖頭芭蕉の手先」ゆるやかな山岳の峰を思わせる眉がぴくりと動いた。まぶたが色っぽく半開きになり、探るように尻をふりふりと振るうような視線を感じた。

「子狐になったら、何かメリットはあるのかい? 酒類取締官に目を付けられるんだろう」

「危ない橋よ。でも、芭蕉様のお膝元で、頭を垂らすのよ」黒と白の境に化粧を施したかのようなうっとりとした女の瞳。

 この世ならざるものを見ている。

 芭蕉様ときた。

 つんつんと突いたらきっと、

 大蛇が飛び出してくる。

「妖頭芭蕉はそんなにすごいやつなのか」

「そりゃね。うんとすごいわよ」

 女の手がすっと僕の股間に伸びる。麦をぎゅっと絞り、その風味や苦みをきっちりと抽出するように、指先が官能的な旋律を刻む。

 密やかさを破る痛みが、甘やかな絶唱となって節々の神経から轟いてきた。

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