第弐幕 六

 都内某所。

 高級住宅街が密集したエリアに一際目立つ建物があった。

 江戸時代から引き抜かれたような奥ゆかしい屋敷。

 反り返った瓦が並べられた屋根に、黒ずんだ時代の煤を写し取った壁、敷き詰められた玉砂利には雑草が一本も混じっていない。砂利道からひょいと外れると、よく整備された日本庭園がある。植栽は丁寧に刈り込まれ、坊主のような丸みを帯びた形に統一されている。さほど広くはない池には錦鯉が優雅にその身を躍らせており、口先を水面に向けては泡粒を吐き出している。

 ジジッと蝉の鳴き声のような呼び鈴を鳴らす。

人が出てくる気配はないわ。

「鍵がかかってないよー」

 磨りガラスがはめ込まれた玄関の引き戸をピエールが開ける。用心のために銃を構える。ピエールも同じように銃を構えているが、屁っ放り腰になっていて、頼りない。

 いざとなれば誰よりも早く、うちが引き金を引こう。

「うわ、すごいね」ピエールが子どものようにはしゃいだ声をあげる。

 あんぐりと口を開いた。

 天井や壁も、ぎっしりと本で埋めつくされているわ。

 スタンダール、サルトル、プルースト、カフカ、ドスエフスキー、ミラン・クンデラ、マルクス……挙げたら切りがないほどの世界の名だたる文豪が所狭しと日本家屋の壁を構成している。

 そのほとんどは黄ばみや破れがあり、絨毯のような埃を被っているものもあった。読むためのものではないのかも。

 屋敷はこれだけ日本づらをしているというのに、日本人作家の名前がひとつも見当たらなかった。変な家ね……。

「ピエール、銃口をちゃんと目線の側まで持ってきて。そんな下のほうじゃどこにも当たらないわよ」うちは目を輝かせて本の背表紙に視線を向けているピエールに忠告をする。

「あはは、悪い悪い、いつも注意されるんだけど、治らないんだよね」

「そうよ、酒之助は一発で覚えたわよ」

「あの子は優秀だからねえ。いつか、ピエールなんて飛び越えていくんだろうな」

「年功序列だから抜かされることはないわよ。精々、課長が出世をして引き上げてあげるのを手伝ってやるくらいかしら」

「でも、あの子は呑んでいるからさあ。最近は特にひどい。目も虚ろだし、焦点は定まっていないし、何を考えているか分からない」ピエールはそう言うと、うちの顔をまじましとのぞき込んだ。

 何を言いたいのか分かるわ。

 田島くーんもそんな顔をしているよと言いたいんでしょ。

 でも、勇気がなくて、口にできないのよね。

 いずれ、ピエールにもシャブをやっていることが知れてしまう。

 というか、この任務が終わったら、鳩貝が手錠を持ってきてやってくるに違いないわ。

 逃げようかしら。

 逮捕されたくない、自由のままでいたい。

 だけれど、うちは何から逃げればいいの?

 警察の手に怯えているの?

 違う。覚せい剤が見せる、陳腐で醜悪な映像作品から目を背け、全速力で脳内劇場から逃げ出したいのよ。あの化学式に怯えているの。安全な方向はどっち?

 誰かぱちんと掌を叩いて方角を教えて。

 わぁっと脳みその中枢に興奮が押し寄せるが、うっと息を止めて、抑え込む。

 玄関から廊下を通って、居間へと進む。生活感はない。

「誰もいないね」ピエールは腕を組んで首を傾げる。

「隠れているんでしょ。ああ、いらっしゃいって狐が顔を出すほうが怖いわ」

「そりゃそうだね」

 居間から和室へと移動する。畳の上には一組の布団が敷かれている。シーツはのりが利いて、ぱりっとしているし、掛け布団に乱れは一切ない。やってくるうちらのためにわざと拵えたかのような不自然さを感じた。

「わーお、こりゃあ派手だね」ピエールが嬉しそうな声をあげる。だらしなく鼻の下を伸ばし、表情筋を崩しているわ。助平に出くわした男の顔よ。

「どうしたの?」

「これを見てよ。狐のかな」

 うちはピエールの手に注目をした。何かをつまみ上げるようにして、人差し指と親指がくっついているが、肝心の何かが存在しない。

「何もないわよ」

「ええ、見えないの? サーモンピンクの」

 空間に色が沸き立ち、陰影を伴って輪郭を構成する。

 サーモン、ピンク。

「パンティだよ」

 絶対領域を守るために、三角形に線引きされたサテンの生地が確かにそこにはあった。

 瞳を瞬かせて、何度も目を擦った。

 先ほどまで確かになかった。

 が、ピエールの言葉によって覆いが外されたように現れた。

「おー、良いにおいがするよ。これは花のにおいかな。なんていう花だろう」

「バカ、嗅ぐな。気持ち悪い」

 うちはピエールの手からサーモンピンクのパンティをむしり取った。

 心臓の鼓動が最大化されて、耳の奥でどっくんばっくん。

 呼吸が浅く、早くなり、冷たい汗が背中を伝うのを感じる。

 パンティは確かに手の中にあった。鼻を近づけることはしないが、あの花のにおいがする。存在している。が、先ほどまではなかった。見えなかったのか、見えていたけれども見えないふりをしていたのかしら。

「それにしてもさあ。すごい酒の数だよね。ぎっしりと隙間なく、酒瓶が覆い尽くしている。供給がきつく絞られているのに、これだけ集めたなんて、大したもんだよなあ」ピエールは感慨深そうにそう言うと、「まあ、全部押収だけど」と付け加えた。

 え、ええ、えええ? 

 酒瓶? 

 何を言っているのよ。酒瓶なんてどこにもないじゃない。どこもかしこも本でぎっちりと埋め尽くされているわよ。

「酒瓶なんてあった?」

「ほら、たくさんあるじゃないか。煉瓦みたいに、壁にはめ込まれているよ」

 ピエールの言葉に沿うようにして、視界に変化が現れる。

 和を捏ねて作り上げた部屋はセピア色に落ち込んでいく。蜘蛛の巣のようなひび割れがあちらこちらに走り、破片が粉となってぼろぼろとこぼれ落ちる。ぽっかりと穴が開いた。銃弾を撃ち込まれたようなギザに縁取られたそこから、光が流れ込む。

 まぶしい。うちはパンティを投げ出して、両手で目を覆い被せた。残像がまぶたの裏側で歪む。物と物を結ぶ光の線が、世界を打ち消し、新しい世界の一片を縫い合わせていく。

 サクランボのような化学式が頭の中で流れた。

 一般名はメタンフェタミン。

 疲労にぽんと効くと嘯かれて、日の丸を背負って散っていく兵士の頭を洗脳したあの物質が。

 ほ、ほう、ほぢゐ。

 右肩に重さが宿る。

 首を右に向けて、

 瞳を開く。

 狐の面が目と鼻の先にあった。

 銀狐だわ! 

 やられる、

 殺される。

「いや、近寄らないで!」

 一歩、二歩、後ろに下がる。

 何かに当たった。振り返ると、茜ちゃんを抱いている酒之助が立っていた。

「良かった、無事なのね」

「無事じゃないよ、こんな顔になってしまった」俯いていた酒之助と茜ちゃんが顔を上げる。こんがり、狐色の焦げ目をつけたチーズのように溶けてしまった顔がそこにはあった。

「ヒイイイイ、化け物お!」

「そうよ、化け物。あなただって、シャブを食う化け物でしょう? みんな怖がっているわよ、一歩も二歩も引いて、世界はあなたを観察している。コントロールできないポン中をどうやって、殺そうかしら。人道的に、批判されない方法で、この世から抹消するやり方を探しているの」甲高い銀狐の声が言った。

「その前に殺してやる」クールになれ、田島茜。

「勝たなければならない。勝ったものだけが正しさを証明できる。ならば、やるべきことは明白よね」銀狐が左腕を上げる。かつて、うちが撃ち込んだ銃創が相当に効いているのか、動作はひどくゆっくりだった。

 撃たれる。

 撃たれる前に、撃つ。

 正当防衛よ。

 狙いを定める。

 銀狐の額と思しき箇所に弾丸を撃ち込むのだ・だ・だ。

「田島くーん、しっかり、しっかりするんだ!」

 その行動に気づいたのは、引き金を引こうと決断をするどのくらい前だったか分からない。確かなのは、ピエールが両手を飛べない鳥のようにバタつかせて、両足を踏みならしていることだった。

「何をしているの?」呆然とした。

「何をって、田島くーんを正気に戻そうとしたんじゃないか。突然、ぎゅるりと瞳を白目にして涎を撒き散らしながら、銃をピエールに向けられて驚いたよ」

「課長の銃は?」

「あれ? どこにやったっけ……ああ、あったあった。田島くーんが急変するものだから、そこらへんにぶん投げちゃったんだ」

 ピエールは慌てて床に落ちている銃を拾い上げる。普通は銃を向けられたら、牽制するために銃を構えるものよ。うちは常軌を逸していた。浦島ピエールを銀狐と見誤ったのよ。撃たれても仕方ない状況だった。だのに、正気に戻そうとしたって、どういうこと?

「死ぬわよ」人差し指を立てて、ぷつんとピエールの脂肪が詰まった胸板に押しつける。

「大丈夫だよ、田島くーんはピエールを撃てない」

「根拠は?」

「あ」

「あ?」

「愛しているから」

「本気で言っているわけ?」薪ストーブも凍えて縮み上がるほどの冷気を込めて、えいやと言葉をぶつける。

「本気だよ。田島くーんはピエールを愛している。ピエールも田島くーんを愛している。相思相愛だよね。ベッドの中でいつも、その確認をしているよね?」どんぐりのような小さな眼が子どものように「だよね?」と囁いている。

「本当にバカね」

「ひどい言い方だね。人事評価の査定には大きく×印をつけておこう」

「公私混同もいいところよ。セクハラをしているって訴えてやる」

「じゃあ、田島くーんが薬物をやっていることも訴えなきゃいけないよね」

「……」言葉が刈り取られた。

 放ったばかりの冷気がかつんと音を立て、打ち返され、頭の天辺からびしゃりとぶっかけられる。

 その刻は、思ったよりも早くきてしまった。

「いつから分かっていたの……」

「もう、ずいぶんと前からだよ。田島くーんが少しずつピエールから離れていくのが分かったんだ。ああ、これは男ができたか。ピエールの存在は必要なくなったのかなと思った。悲しかったけど、少し、嬉しかった。茜がそれで救われて、幸せになってくれるのならば、それでいいと思った。でも、違ったんだ。男なんて、そんな生やさしいものではなかった」

 ピエールは銃をホルスターにしまい込むと、ふらふらと行く手を探すように両手を伸ばす。挙げたり、下げたり、葛藤を示すように両手は動き、銃を握っているうちの手を包み込んだ。

「腕を見てもいいかい?」

「……」沈黙を肯定にとったのか、ピエールはうちのジャケットの袖口に手を伸ばし、しゅるしゅると捲り上げた。とっくの昔に耕作が放棄され、荒れ放題に荒れた田畑のような皮膚をしている。

 じるじると黄色い膿を伴った液体が表面を覆い尽くしている。掻きむしった跡や、刺し傷は生々しく、微かに腐敗臭が立ち上る。

 ピエールの顔から表情を窺うことはできないわ。

 戯けるような柔和な微笑みを絶え間なく浮かべ、常に人々に笑顔をもたらそうとしている道化師の一面があることを忘れそうになる。

 怒るかしら、

 当然よ。

 うちは、麻薬取締部に所属する酒類取締官。

 今は、御上の命令で酒を取り締まっているけれど、異動によっては、薬物を取り締まることだってある。それで成果を上げてきたのよ。

 あの、薬物が精神の中枢に入り込んでしまった眼を思い出す。

 あれを見つける度にね、ほくそ笑んだの。

 カウント壱、薬物中毒者発見。

 あの手この手で薬物に手を出してしまったストーリーを引っ張り出す。

 動機を洗い、仲間の名前を吐かせ、売人まで手を伸ばす。

 正しいことよ。

 でもね、その正しいことは間違っているのかもしれない。

 逮捕よりも治療を施すべきだし。

 叱咤よりも慈愛を施すべきだし。

 牢獄よりもカウンセリングを優先させるべきなのかもしれない。

「泣いているね」

「な、泣いてないわよ」涙がまぶたの内側を回遊する。弾みでつうっとこぼれてしまうのは時間の問題だった。

「えんえんえんと子どもみたいに茜の腕は泣いている。ピエールにはその泣き声が聞こえるよ」ピエールはうちの両手首を握ったまま、腕を観察している。

「もう、やめよう」

「や、やめられないわ。誘惑と、禁断症状の地獄をピエールも分かっているでしょう!」

「うん、分かるよ。一杯見てきたからね。それらを仕事として、ベルトコンベアのように処理していくために、金属の箱にたくさんしまってきたよ」

「じゃあ、うちも逮捕でしょ。牢屋に閉じ込めるんでしょ。ああ、こわい、怖い!」

 ぜえぜえぜえ、喘息のようにアレがやってきた。

 ゆらあっと現れ、真っ黒なローブを被り、ざっくりと一撃で首を持っていけるような大鎌を背負っている。死の神様はリズミカルに骨張った足をかちゅりと踊らせながら、迫ってくる。

「そうだね。でも、ピエールは茜のことを愛しているんだ。その事実は、たとえ、茜が廃人の末端まで落ちてしまったとしても変わることはない」

「愛で薬物を中和できるって言いたいわけ」

「どんなに素晴らしい愛だとしても、それはできないかな。僕にできることは、茜の隣を歩き続けることだよ」

「隣を歩く? それで、うちはどう救われるの?」

「話しかけて、励ます。それを、ピエールは全力でやる。途切れさせないようにする。知っているよ。薬物の誘惑はひとりになったとき、誰かの温かく差し伸べてくれた手と手の狭間にあるんだよね。ピエールはその狭間を可能な限り埋めようと思うんだ」

「キレイゴトよ。どうせ、捨てるに決まっているわ」

「いいじゃないか、キレイゴトでも。希望の光がないとね、歩くことは難しいよ。立ち止まってしまうし、うずくまって考えてしまう。過去を解剖して、悲惨さに嘆き、確定していない未来に対して怯えてしまう」ピエールはうちの目から視線を外さずに言葉を紡ぐ。

「ならば、証明してほしいの。奥さんと別れて。うちだけを好きと言って。死ぬまで愛していると言って」メンヘラがクァルンクァルンと音を立てる。

 ピエールはうちの顔から視線を外し、握っていた両手首を手放した。だらんとうちの腕が前後に揺れる。

 やっぱり、無理よね……。

 ピエールは掌をぐっと広げた。肌の色が更に白くなった。そして、自分の頬を打ち付けた。あらゆる場所にへばり付いている肉が揺れる。

「何をやっているの?」

「茜、強くなるんだ! 弱い皮を脱ぎ捨てるんだ! ピエールがいくら手を伸ばしても、その手を掴んで引き寄せる勇気がなくては助かるものも、助からない」ピエールは頬を叩き続ける。白い皮膚は少しずつ赤くなる。あの掌はうちの頬が受け止めるべきなのだろう。でも、ピエールは愛する女を打つようなことはしない。

「やめて、叩かないで」

 手を伸ばし、ピエールの腕にしがみ付くと、彼はようやく自分を攻撃するのをやめた。

「選べないよ、茜。ピエールも弱いんだ。切ってね、捨てられない。溜め込んで、蓄えてしまう。強くなるのは難しいよね。でもさ、強くなる方向へ顔を向けることはできると思うよ。そうした小さな積み重ねが、強さという形になるんじゃないかな」

 ピエールは鼻先までずり落ちてしまった眼鏡をかけ直すと、ふっと頬の筋肉の緊張を緩めて笑みを作った。

 話をするって素晴らしいわね。

 落ち着いてきた。欲しいと叫んでいた、覚せい剤の欲求が減退していく。

 少なくとも、今は大丈夫そう。

「右目、痛くないの? 真っ赤だよ」

「右目?」

「そう、血が滲んでいる。どっかにぶつけたかな」

 そういえば、右目がなんとなく鈍くて重い。まるで、他人の目をむしり取って、無理矢理はめ込んだかのようだわ。それは、目にしている視界にも影響があった。

 ぐるりと周囲を観察する。

 古めかしく、奥ゆかしい、日本家屋の内装は変わることはないが、雨に濡れてしまった水彩画のようなぼやけがある。うちは左目を掌で覆い隠した。

 息を呑んだ。

 全然、違うじゃない!

 壁には誇らしい勲章のように酒という酒がびっしりと並んでいる。文豪たちの名前を冠した知性あふれる文学作品は一冊も置かれていない。床板にはボーリングのピンのように酒瓶が点々と置かれていて、空き缶がごろんとくすんだ金属の腹を見せて転がっている。

 あちらこちらに脱ぎ散らされたスカートや、下着が主の性格を現すような形で縮こまり、イブプロフェンの空き箱や、口を結んだコンドームのなれの果てがナメクジのようにへばり付いている。

 電子音が響く。間を置くことなく、うちは銃を構え、引き金に手をかける。

「洗濯機だよ。脱水が終わったみたいだね」ピエールは目と鼻の先にあるドラム型洗濯機を指さして言った。

「駆動しているということは、さっきまで誰かいたということ?」

「そうだね。恐らく、ピエールたちが探している狐だと思うけど」

 生活がのしのしと徘徊し、吐息や衣擦れ音まで聞こえるような気がする。

 左目の覆いを外し、右目に掌を被せる。視界には、白亜紀から時流が閉ざされた洞窟のような静けさが棚引いている。生活の痕跡は排除され、言葉と言葉を接着剤で継ぎ合わせ、創造した描写たちがお行儀良く並んでいる。

 まるで、積み重なっている本の中からページを切り出して、組み上げたみたい。一言で表すのなら、『創作的静寂』がぴったりと当てはまるわ。

 うちは顔から掌を離した。円形状に切り抜かれたふたつの視界が交錯する。

 奇妙なことに両眼で正視した世界は均衡が取れていた。壁に並んでいる酒瓶の群れをよく観察すると、ラベルには文豪の名前と作品の一文の切り抜きがある。

『人生の意味とは、それが終わるということです』

『天才は誤りを犯さない。その誤りは意志的なものであり、発見の発端なのだ』

『安定は愛を殺し、不安は愛をかきたてる』

 床の上に散らばった生活感はその姿を薄くさせて、透明感のある影絵のようになっている。

「茜、ピエールを見るんだ」むちむちとした温かな掌がうちの頬をぎゅっと挟み、顔を真正面に向けさせられる。

「何が正しいか、分からないの。色々なものが見えるの」

「そうなんだね。じゃあ、ひとつひとつ、照合していこう」

 うちは片目ずつに覆いをして、見える世界の辻褄を合わせていった。すると、最も現実に目を向けているのは右目だということが分かった。ピエール曰く、右目は血走っているらしい。白目に散った血の跡は幻想をぶち破った格闘の証しなのかもしれない。ピエールはハンケチを引っ張り出し、丸めて眼帯の形を作ると、うちの左目を覆い隠すように巻き付けた。

「海賊みたいだね」

「赤い目をしているから悪い海賊に見えるでしょ」

「取り締まらなきゃなあ。差し入れは首都ばななでいいでしょ」

「ああ、この間、持ってきてくれたんでしょ。居留守を使ってごめんなさい」

「いいよ。ピエールが全部食べたから。おかわりもしたし」

「ばかね。定食屋じゃないんだから」

 会話が心地良かった。

 いつまでもこの空間に留まっていたかった。

 しかし、秒針は動く、空気は流れるし、地面はくーるくると回り、心臓の鼓動は次を刻む。

「面白い穴を見つけたんだ」ピエールに手を引かれて、穴へと向かった。それは屋敷の奥まった場所にあった。廊下の突き当たりで、行く手を阻むように花が活けてある。品のある桃色の花弁がうてなから滴るようにして、地面へと伸びている。その姿はなすびの下半身をざっくりと花の形に沿って刻んだかのよう。

 痺れるような甘いにおいが漂う。その花をちゃんと見ようとすればするほどに、視界はぼやけ、白と黒のノイズが混じる。ざざっ。

「きっと、狐はこの中だね」ピエールは床を指さす。

 それは加工された入り口だった。屋敷の全体を覆っている朽ち葉色の床板が、力任せにげっそりとくり抜かれている。代わりにはめ込まれた白橡色の床板はさきほどまで幹の中枢に埋まっていたように瑞々しい肌を持ち合わせている。ぎこぎこ糸鋸を擦り付けるような音が聞こえそうなほど、鋭い切り口が見える。が、それは見た目だけで、指を這わせると丁寧にやすりがかけられ、赤ん坊のおもちゃにしても良さそうなほど滑らかだった。

「♠の形をしている」うちはピエールに届けられた脅迫状を思い浮かべた。あの文章はこの♠に象られた穴の先を示しているのではないだろうか。

「ハシゴがあるね。下に降りられそうだよ」

 ピエールは腰紐に挟んでいるペンライトを引き抜いて、穴の中を照らし出した。底までは見えない。

「一応、警察に応援を頼んでおきましょうよ」

「そうだね。何があるか分からないから用心しよう」

 ピエールは肩口に留めた無線機に声を吹き込む。

 しかし、アンテナを立てた黒い筐は雑音しか吐き出さない。

「故障かな」

「電池切れかもしれないわね」

「どうしようか。一度、戻って対応を考えようか」

「酒之助と茜ちゃんが今にも殺されるかもしれないのよ」

「そうだけどさ。嫌な予感がするんだ」

 寒気が走る。その予感はうちにもあった。が、その正体を探ろうとして、絡まった糸を解こうとすると、薬物のバケモノが唸るのが分かった。

「まだ、何も起きていないわ。予感に怯えるのは、麻薬常習者のやることよ」

「ハハハ、そうだね。大丈夫、ピエールが付いているから。いざとなったら、この銃で一撃に仕留めるよ」

「的に当てたことがないのによく言うわ」

 ピエールはハシゴに手をかけた。


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