幕切れ
田島茜の手首にがっちりと手錠がはめられた。
物々しい拳銃たちはホルスターに収まり、病室には人があふれていた。病院関係者、警察庁と警視庁の連中、麻薬取締部の面々等々。割られた窓には、風が入らないように、ベニヤ板が宛がわれている。
鳩貝はパイプ椅子に腰掛け、右腕を三角巾で吊っていた。傍らには膝小僧を揃えるようにしてぴたりと張り付いた浦島茜が鳩貝の右肩を擦っている。
「ってぇなあ、関節が外れてんだぞ!」
「ご、ごめんなさい」浦島茜は素早く手を離すと、鳩貝は唇を尖らせて、「て……手は離すんじゃねえ」と言った。
浦島茜の掌は恐る恐る鳩貝の意向を探るように伸び、優しく右肩に触れる。
「ハト、手柄だな。被疑者の自殺を阻止した。勲章ものだ。春の叙勲に間に合うように、委員長に進言しよう」革靴の底を擦りつけるような独特な歩き方で、チヨダは鳩貝に近づき、勿体ぶった口調で言った。
「勲なんていらねえよ。お前にチヨダを取られて俺は気づくべきだったんだ。出世の路から蹴り落とされた落伍者だってえことにな。偉くなりゃぁ、変えられると思ってた。全部は無理でも、お国の腐った部分を千切って捨てることくらいはできるだろうって。でもな、腐らねえと登れねえよな?」
「そうだね、ハト。君は優秀だ。警察庁が誇る至宝だよ。でも、その才は末端の現場で発揮されるんだ。それをね、腐ったボクが踏み台にして登る」
「あー、なるほど。だから、現場が嫌いなんですね。納得しました」浦島茜はこくんと首を縦に振った。
「で、どこにいるんだ。妖頭芭蕉は?」
「言わせないでくれよ。そこにいるだろう。手錠をはめられて、俯いている女が妖頭芭蕉だ」
「まあ、そう言うしかねえよな。なんせ、チヨダだもんな。俺がチヨダでもそう言うぜ。でもな、俺はチヨダじゃねえんだ」
チヨダは眼鏡を外し、深海魚のような眼をぎょろろとさせて、鳩貝を直視する。
「ずいぶんと、含みを持たせた言い方をするね。何が言いたいんだい?」
「妖頭芭蕉、相埜谷酒之助がどこにいるか、俺は分かるぜ」
病室の中を満たす視線が一斉に、鳩貝に集中する。
ぴーちく、ぱーちく、続いていた業務上のおしゃべりはやんだ。
「お得意の推理か。ハトの推理は面白いからなあ。聞いてやろう」
「チヨダ、約束しろ。本当の妖頭芭蕉を引きずり出したら、正しく処罰しろ」
「今も、正しく妖頭芭蕉を処罰しようとしているんだけどねえ」
「もちろん、タダでとは言わねえよ」鳩貝は左手で肩口に留められた階級章をむしり取ると、チヨダに突き出した。「好きなところに配置しろ。酒類取締法が撤廃されて、世の中に適正に酒が流通するまで、現場を這い回る」
「いいのか?」チヨダに左の眉がつり上がった。
「お前の目の届かねえところに行ったら安心だろ。不意打ちの下剋上なんて、起こさねえよ」
「それはそれで心配だけどね。分かったよ、ハトがそこまで言うのならば、約束しようじゃないか」
「決まりだな。浦島、始めてくれ」
浦島茜は両手をぺんぺんと叩き、口上を述べる。
「さて、僭越ながら、警察庁警備局警備企画課組織犯罪対策室第三係 警視正 鳩貝左右衛門によります、謎解きをご披露いたしましょう、ちょっくらお耳の穴をお借りします」
鳩貝は咳払いをしてから口を開く。
「俺たち、第三係は、薬物の蔓延による、国力の低下を防止するために、組織犯罪対策室の下に置かれた時限組織だ。厚生労働省が管轄する麻薬取締官と連携をして、国家の安全の側面から、取り締まりを強化してきた、捜査の過程で浮かび上がってきた組織が妖頭會。周知の事実と思うが、我が国で流通している酒の全てを掌握している。酒類取締法なんていう、頭の悪い法律に反対するために作られたレジスタンスのようなもんだ」
「頭の悪い、ねえ」チヨダは鼻で笑う。
「妖頭會の頭は妖頭芭蕉だと言われている。そいつの逮捕が俺たちの最重要課題だった」
「じゃあ、命題は達成されたわけだね、めでたしめでたし」チヨダは視線を田島茜の方へやった。田島茜はじゃらりと手錠が触れ合う金属音を響かせながら、両手を持ち上げると、中指を立ててぶうっと唇を震わせた。
「じっとしてろ、妖頭芭蕉」ぎっちりと縛られた腰紐の先端を握ったうさぎがそう言うが、語尾が震えている。
「チヨダはどうして、田島茜が妖頭芭蕉だと思うんだ?」
「明白じゃないか。ほら……報告書だ」
チヨダの傍らに控えていた男がシルバーのアタッシュケースを開けて、クリアファイルの中にまとめられた書類を引っ張り出して、鳩貝の膝の上に載せる。
「浦島、すまねえが、めくってくれねえか?」
「いいですよ」
浦島茜が書類の表紙をめくったところで、鳩貝は訊ねた。
「なあ、気づかねえか?」
「まだ、読み始めていませんが」
「読むまでもねえよ。早すぎるだろ」
浦島茜は書類に視線を落とし、はっとしたように目を見開く。
「報告書があるってことは……捜査の区切りが付いたってことですか? まだ、事件が発覚してから一週間も経っていないですよね」
「あれだけ大規模な事件だから、普通は関係各所に合議を回すだろ。つまりは、それなりの数の押印も必要だ。それが七日でぴっちり耳を揃えて出てくるなんて、手際が良すぎやしねえか」
浦島茜が書類をめくる手が早くなる。眼球が文字の羅列を高速に追いかけ、言葉を咀嚼していく。
「こんな報告書、見た覚えはありません」
「お前たちが見たかどうかなんて関係ない。まもなく、国家公安委員長への決裁が回る。そうすれば、それが我が国で起こった事実となる」チヨダは勝ち誇ったように、鼻息を強く吐いた。
「離せ、霞ヶ関に乗り込んでやるわ! 判子を押せないようにハムの腕を切り落としてやる」田島茜はそう息巻くが、うさぎを含めた男たちに動きを封殺される。
「浦島ぁ、報告書にはなんて書いてある?」
「そりゃあ、田島茜さんが妖頭芭蕉だって……」
「よく、読んでみろ。頭に血ぃが昇っていると、日本語をまともに読めなくなるからな」
「はとぽっぽに言われたくありませんが……」などと、ぶちぶち小言を漏らしながら、浦島茜は報告書を再読する。
「え……逃げられたってどういうことですか?」
「都合が悪いからだよ。妖頭芭蕉が逮捕されたとマスコミが報道したらどうなると思う?」
「正義が果たされたと歓喜するのではないでしょうか」
「そりゃあ、一滴も呑めねえ、下戸の発想だな。暴動もんだよ。酒の恨みは怖えぞ」
鳩貝はシシッと歯の隙間から絞り出すように笑う。
「じゃあ、田島茜さんはどうして拘束されているのでしょうか?」
浦島茜の質問に鳩貝は答えなかった。代わりに、後を継ぐようにして田島茜が口を開く。
「知りすぎたからよ……」
「だから、殺すんだよなぁ、チヨダぁ。お国のために、昔ながらの特高の考えかたってえのはなかなか抜けねえんだな」
調子の良い電子音が展開を寸断するかのように鳴り響く。チヨダは右手をスーツの内ポケットから、通話に特化したガラパゴスな携帯電話を耳に押し当てる。
「こちら、チヨダ。ええ、もうすぐ終わります。袋の数が増えるかもしれません」
チヨダの視線が鳩貝の体躯を測るように、頭から靴の先まで撫でる。
「大きいやつを。バラす時間はなさそうだ」
携帯電話にはストラップが取り付けられていた。茜色の組み紐がぶらんと揺れて、先端に付いた鈴が鳴る。小さな狐の首に巻き付いた鈴が、ちりんと、ひとつ。
「現場を軽視するチヨダが現場に出てくるなんてよう、おかしいんだ。妖頭芭蕉の顔を拝みたいだって? お前は血ぃを見るのもダメだろうが。デスクで絵に描いた餅を捏ねるのが仕事だろ」
「ぽっぽさん……なんか、すごく怖いです」
「ピタッとくっついとけ。おっと、セクハラだったな」
「いや、くっついておきます」浦島茜は鳩貝のスーツの裾をぎゅっと握った。
「チヨダがこの病院にやってきた理由はふたつある」鳩貝は左手でピースを作って、チヨダの前に突きつける。
「ひとつ目は、田島茜を生きてお外に出さないこと」
「大丈夫です。すぐに片付きます。現場には特殊清掃を入れましょう。ええ、お任せください。イインチョ」チヨダは鳩貝の言葉なんぞ聞こえないかのように振る舞い、会話を続ける。
「ふたつ目は、妖頭芭蕉を生きてお外に出すこと」
鳩貝の言葉に耳を傾けていた連中が動き出す。白衣や制服に身を包み、その所属の違いを明白に露わにしているオーディエンスが、掌を思い思いの場所へ突っ込み、それを引っ張り出す。チヨダも携帯電話を懐にしまい、仮面を付ける。
「田島茜があれだけの怪我を負っているんだぜ。妖頭芭蕉だって、無傷なわけがない。ウジ虫だらけの死体の山に紛れたてえところだろ? 正気の沙汰じゃあねえなあ。それでこの病院に担ぎ込まれたわけだ。で、田島茜を始末して、秘密裏に連れ出すんだろ、チヨダぁ」
鳩貝はチヨダの仮面を凝視した。特徴的な膨れ上がった眼球は存在せず、針の穴のように小さな眼窩に輝くガラスの破片のような瞳が鳩貝を見つめ返していた。にょきりと伸びたイヌ科特有のマズルの先には黒曜石のような鼻面があった。
ほつり、ぽつり、ぼつりと、名前を与えられない無個性を塗りつぶすように、奇怪なる変化を遂げた狐の面たちが病室にあふれる。
「寝しなに酒がねえと寝られないのは変わってねえんだろ? よく、官舎で板氷をアイスピックで突いてロックを作ったもんなあ。法律ができたから、禁酒したのか? 氷が溶けるまで待てないで、ナカを呑んじまう、お前が禁酒! 笑っちまうな。なあ、教えてくれよ。チヨダと子狐の両方の面を被るってどんな感じなんだ?」
「ハト、お前だって呑んでいるだろう。一口、含めば誰だって妖頭會の一員なんだ。そういう時代なんだよ。ハトの狐の仮面も作らせよう。口先に幸福を呼ぶ四つ葉のクローバーを噛ませた奴だ。平和の象徴で、きっと似合う」
「チヨダなぁ、テメエは酔っ払って記憶なんざ、ねえかもしれねえがな。俺はよう……」鳩貝は奥歯をぎりっと噛みしめ、椅子から立ち上がると、吊った右腕を三角巾から抜き取った。
一切の躊躇いもなく、左手を右肘に宛がい、えいやと持ち上げる。
身の毛がよだつ、濁音を凝縮させた音が響いて、鳩貝の右腕の長さは元に戻った。悲鳴はおろか、呼吸音ひとつしない。
「一滴も呑めねえんだよ」
「ぽ、ぽっぽさん! 痛くないんですか?」
「ってえに決まってんだろ! 後で治るまでマッサージしてくれ」
「わ、わかりました」
「ハト、嘘を吐くな。すっぽぽんになって皇居の堀に飛び込んで、皇宮警察にしばかれた時は絶対酔っていただろう」
「ありゃあ、皇居に手榴弾を投げ込もうとした新左翼の目を欺くためにやったんだよ。おかげで、警備が厳しくなって、計画がおしゃかになったんだぜ。チヨダのくせに知らねえのか?」
鳩貝は懐かしそうに目を細めて、へらへらと笑う。
「チヨダ、悪かったなあ。俺たちが病院に来るなんて、予定に入ってなかったもんな。どーっすか、外に聞こえるようにさあ。派手に暴れちゃおーかなあ。マスコミのヘリも飛んでいるし、野次馬だってかなりいる。いくらチヨダと言えど、国のための殺人をするには、分が悪い舞台だと思うが?」
チヨダは後頭部にひっかけられたゴム紐を外し、狐の仮面を取ると、突き出た生の目玉を鳩貝に向けた。
「参ったね。銃のひとつでも向けさせて、公務執行妨害にしようと思ったのに」
「チャカはあんまし、抜きたくない主義でね。口先のが威力あっからな。お前が、浦島を逮捕されそうになって、ちーっと、くらっと来たけどよう」
鳩貝は右腰のホルスターをぽんぽんと叩く。
「ボクたちは田島茜が妖頭芭蕉であることを押し通すつもりだ。ハトの言うとおり、都合がいいからね。国家の安全のために、あの青年は必要なんだよ」
「嘘こけ、今晩の酌のためにだろ。本当に、都合がいいんだな、お前は。委員長閣下もアル中とは恐れいったよ。どんな銘酒が袖の下に入ってんのか気になるな。俺は妖頭芭蕉を逮捕するぞ。法廷に持ち込んで、真相に指の爪を突き刺す、グサッとな」
「やってみろ、ハト。お前には妖頭芭蕉は見つけられない」
鳩貝は自分に刺さる視線の根元に見渡す。
誰も彼も、狐の面を被っている。
「浦島ぁ、誰が妖頭芭蕉だと思う?」
「え、浦島が当てるんですか? 困りましたねー」と言いつつ、薄く尖った鼻を動かす。
「臭うか?」
「ええ、はとぽっぽの加齢臭がします。クリスマスにあげたボディーソープ、ちゃんと使っていますか?」
「お前なあ……勿体なくて使えるわけねえだろ。毎日、枕の下に入れて寝てるよ」
「気持ちわるっ……。ああ、ええっと、仮面を被った連中は妖頭會のメンツじゃありません。お狐様の仮面は真新しいゴムのにおいがします。使われた形跡が全くありません。多分、チヨダに言われたんじゃないでしょうか?」
「ボクが仮面を取り出したら、同じようにしろってか」鳩貝はチヨダの声音を真似る。
チヨダは顔色ひとつ変えない。
「さて――この仮面を被った、関係者諸君は俺を騙そうとするサクラだと仮定する。だが、俺は妖頭芭蕉がどこか公安が用意した隠れ家に隠れているとは到底思えない。近くにいるね」
鳩貝は左側のコートの内側に手を差し込んで、それを抜いた。五十口径を超える口から放たれるマグナム弾は人の頭蓋を粉砕し、四方にいる者の聴力に障害を残す。二つ名は『熊殺しのスミス』
浦島はさも当たり前のように黄色い耳栓をポケットから引っ張りだして、耳の中に突っ込んだ。ダメ押しとばかりに、耳たぶを巻き込んで掌で強く圧迫する。
「俺はなあ、平和がイチバンだと思う。なんせ、ぽっぽさんだしな。熱くなるのは札束張って、車輪で線を割る順番を考えているときだけでええ。おチャカ握って、人様を仏様にするのは、人の道から外れてんぞって思う」
鳩貝は狐たちの間をゆっくりと歩く。チヨダの指示がないからか、全く動く気配がない。
「田島茜、ちょっくら聞いてもいいか?」
「何よ?」
「やっぱり視線、感じるのか?」
「視線……?」田島茜は眉間にしわを寄せ、記憶が繋がったかのように、緊張を解いた。
「いつも見られている、知られている、頭の中で声が聞こえる。今も、ずっと感じているわ。特に、この病院に来てからはひどいの。唾液が滴るような殺意を感じる。でも、これって、覚せい剤の……」
「メタンフェタミンを摂取すると、確かに、感覚器官の感受性が増幅する。そのノイズが幻聴や幻覚になると考えられているんだ。でもな、ノイズだけじゃねえはずなんだ。五感では感じ取れないけど、確かにそこにあるものも感じ取れる敏感さも、きっとある」
「真実は確かにある。選り分けなければならない……」何かを思い出すかのように、田島茜の右目がすっと細くなった。
「妖頭芭蕉やーい。でてこいよ。俺は怒ってんだ。舐められて、宙づりにされて、好きな女はこっちを向いてくれない。車券も紙くずになっちまったしな。この代償はでけえぞ、ぜってえ払わせる」
鳩貝は田島茜が腰掛けていたベッドの端っこに立った。そして、ぴょんと軽やかに飛び乗ると、銃口をシーツにぐりぐりと押しつける。
「お前はカラクリが大好きなんだな! 五センチのウレタンなんて、防弾にもならねえぞ」
「お兄ちゃん、逃げて!」
たくさんの狐の中にいた一匹が仮面をかなぐり捨てて叫ぶ。刈り上げられた鮮やかな銀髪、オーシャンブルーのピアス。
「とぉりゃんせぇ、とぉりゃんせぇ、だっけかぁ?」
鳩貝は唄う。
ピンと跳ね上げていた人差し指の腹が吸い付くようにして、引き金にかかった。
おわり
凹凸がある狐 @hassiy2
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