終幕  四

 無数の赤色回転灯が緊急をまき散らし、たくさんの野次馬が空を見上げる。

 サイレンが日常を非日常の造形に作り替えて、大手メディアのヘリコプターが東京の空を我が物顔で、旋回している。

 鳩貝は右腕をつり革でも掴むかのようにうーんと伸ばしていた。

 ぶらぶらと揺れる足下には地面がなく、毎晩鼻歌を歌いながら、磨いている革靴は右だけ脱落していた。

 右肩に激しい痛みがあった。人間の腕にしてはオランウータンのように長い。

 関節が外れたか……と鳩貝は思った。

「鳩貝さん。お久しぶりね」

 鳩貝の右手を両手でしっかりと握った田島茜は言った。

「テメエ、自分が何をやっているのか分かっているのか?」

「ええ、あなたを助けようとしているの。落ちたら困るでしょう」

 田島茜は病室の窓の下を這うパイプの上に立っていた。屋根に溜まった雨水を通す管だ。

 彼女の腰にはシーツを裂いて作られた紐が巻き付いていた。端っこは転落防止用の柵にしっかりとくくりつけられていて、結び目を浦島茜が握っている。

「チヨダ、近づかないでください。交渉してみます。銃を下ろして。大丈夫、はとぽっぽは無事です」

 浦島茜は病室の中へと状況を伝える。

「俺に恨みでもあるのか?」鳩貝は強風に負けないように、声のボリュームを上げた。

「あるわ。あなた、さっきチヨダに屈しようとしていたでしょう」

「そんなことはねえ。田島茜は妖頭芭蕉じゃねえって言おうとしたんだ」

 づるっ、そんな音がしそうなほど容易く、鳩貝の掌が田島茜の手の中から滑る。

 恐怖に煽られた鳩貝は足をバタつかせる。

 胸ポケットからマールボロの箱が飛び出し、白い煙草を撒き散らしながら落ちていく。

「嘘つきは大嫌いよ」

「……」

「助けてほしいの」

「無理だ。チヨダがああ言ってんだ。覆らねえよ。大人しく、逮捕されるしかない」

「ならば、手錠をかけてもらうために手を自由にする必要があるわね、重いし」

「っざけんな! 早く引き上げろ。浦島、何をやっている。はや……」

 鳩貝の口から言葉が消える。

 見えたのだ、浦島茜の手元で輝く、鋭く尖った銀の残影。

 選択を誤ったら、切り落とすつもりだ。田島茜ごと奈落の底へ。

「や、やつもグルなのか」

「グルじゃないわよ。彼女も真相をはっきりさせておきたいと願っているはず。自分のお父さんを殺した犯人が野放しっていうのは許せないでしょう? でも、あなたのことも恨んでいるかもね。女の子に冷たく当たりすぎよ」田島茜は言葉を句切ると、「茜ちゃーん。あなたとも、じっくり話がしたいの。でも、今じゃない。全てがケリが付いてからの話。うちはね、嘘が大嫌いだから。うちのことが好きだったっていうことも嘘だったら、遺骨をトイレに流して、『情熱食物糖分脂肪過多居士』の戒名をつけてあげるの。もちろん、彼がクリスチャンであることはよく知っているわよ。でも、うちの家は仏教徒だからねえ」田島茜がヒステリックに嗤う。

 浦島茜は申し訳なさそうな表情を一瞬だけ浮かべた後、すぐに真顔に戻った。

 鳩貝の頭の中でドーパミンとアドレナリンが牙を剥く。

 薬物は酒や覚せい剤だけではない、大脳を覆う髄液の中にも天然のやつがたっぷりと含まれている。

 煙草が欲しいなと鳩貝は思った。

「女って怖えな」

「あら、やっと分かったの。頭を撫でてあげようかしら?」

「ぜってえ、やめろ」鳩貝はヤニで黄ばんだ歯を剥いて笑った。

「鳩貝さん。あなたしかいないの。酒之助を吊るために捜査を続けてきたんでしょう? チヨダに言われたから、引き下がるわけ?」

「オメエも組織にいるんなら分かるだろうよ。上司の命令は絶対だ」

「へえ、ピエールと同じことを言うのね。上司がなによ、あんなの現場を忘れた中年親父じゃない。知っているわよ、チヨダの座を目の前で取られたんでしょう? 悔しくないわけ? へこへこすれば、おこぼれにあずかれると思っているの?」

「おい! 言って良いことと、悪いことが……」

「じゃっかましいわぁ、命が懸かっているの!」

 田島茜が顔をしわくちゃに歪める。

 スプラッター映画に出てくるマーダーの仮面のようだった。

 誰がどう見ても、ハッピーエンドで幕引きをするには、不様に死んでもらう必要がある悪役だった。

 が、見開かれた右目の奥には光があった。

 鳩貝はその光に見覚えがあった。

 真新しい制服に身を包み、飾りの少ない銀の階級章を人差し指で熱心に撫でていた頃。

 顔を洗って、鏡を見つめる、青さ際立つ、いがぐり坊主の目もそんな感じだった。

 記憶が鳩貝の頭の中でフラッシュバックする。

「ハト、お前の目はいいよ。正義って感じがする。偉くなっても忘れんじゃねえぞ」酒瓶をラッパ飲みして、どんちゃん騒ぎをした夜に、果てはチヨダとなる男もそう言っていことを鳩貝は思い出し、「あいつも忘れちまっているじゃねえか……」と言った。

「曇っちまってたな……」

「恥じることはないわ。社会で生きていれば、泥を被ることだってある。拭けばいいのよ。ハンケチなら何枚もあるわよ」

「なんだよそれ、格好良いじゃねえか。今度、浦島の前で言ってもいいか?」鳩貝は声を小さくしてから言った。

「あなたはもう少し、口を噤んで、身の振りを考えるべきよ。好きな女の子に悪戯をしていいのは、小学生まで」ガキねと田島茜は付け足す。

「くそったれ、何も言えねえじゃねえかよ。ったよ、貫きゃあいいんだろう? 桜の代紋なんざぁ、捨ててやるよ。茜! よぉーっく、聞くんだ」

 田島茜と浦島茜はどことなく似通った瞳を真っ直ぐと、鳩貝に向ける。

「チヨダをぶん殴って、吐かせる。殺人鬼を匿うことが、国家の安全に資することなんてあり得ないとはっきり言ってやる。それから……」

 鳩貝は人差し指を立てて、天空へと突き上げる。

「闘ってやらぁ。浦島ぁ、親父の敵、俺が討ってやるぞ」

 田島茜は舌先をそっと出して、唇に付いた血を舐めてから、「単純」と言った。

 浦島茜は「手を貸してください。はとぽっぽを救出します。田島茜が投降の意思を示しています」と病室の中へ叫ぶ。鳩貝はゆっくりと引き上げられていった。

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