第4章【1】

 冒険者ギルドは、迷宮専門クランであっても、どの迷宮でも構わず攻略に向かわせるわけではないらしい。冒険者の実力に見合わない迷宮であれば、依頼の申し込みを退けることもあるのだとか。迷宮は一度でも攻略に入ってしまえば、完了させるまで脱出することができない。過去に、能力を詐称して迷宮に入り、冒険者ギルドに救援要請が出されてフランクランが助けに入ったことがあったらしい。そのため、迷宮専門クランを名乗るには、詳細なステータスの開示が必要になるのだとか。その点において、フランクランが迷宮専門クランを名乗るのに充分な実力がある、とブラントは話した。

「イェレミス研究所か。また厄介な迷宮が出たな」

 数々の迷宮を見て来たブラントがそう言うなら、よほど厄介なのだろう、と六花は考えていた。前回の「旧ウォルター邸」では「面倒だ」とルーラが言っていた。イェレミス研究所ほど厄介ではなかったらしい。

「今回はリッカの安全を最優先する」エセルが言う。「負荷耐性がないと難易度が上がるんだ」

「そうなんですか……」

「消耗品はちゃんと揃ってるか?」と、ブラント。「足りない物があるなら用意する」

「充分に用意したはずだ。リッカの魔具鞄マジックパックは満杯まで入っているよ」

「そうか。救援が必要になればすぐに報せ鳥を寄越せ。リッカの安全が第一だ。リッカは何か異変があればすぐ誰かに言うように」

「はい」

「状況によっては自分の判断でスキルを使うようにしていいから」

「わかりました」

「いざというときはジルを盾にして逃げろ。無事に帰って来てくれよ」

「はい」

 おそらく彼らは疾呼しっこ寡婦かふを警戒しているのだろう、と六花は考える。疾呼の寡婦はこちらの正気度を削る叫び声を上げながら徘徊しているらしい。精神的負荷耐性を持たない六花は、きっとあっという間に正気度が振り切るだろう。彼らはそれを案じているのだ。六花としても、彼らの助けなしに迷宮攻略をこなせる自信はない。今回も彼らに頼り切りになるだろう。


 ルーラの転移魔法で「イェレミス研究所」のそばに到達すると、無機質な建造物が彼らを出迎えた。禍々しく瘴気の漏れるその迷宮は、六花に恐怖を与えるのに充分な雰囲気だった。二度の迷宮攻略の実績があったとしても、六花にとって迷宮が恐ろしい場であることに変わりはない。フランクランのように平然としていることができるようになるのはまだ先のことだが、そうなる前にもとの世界に帰れることを祈るばかりだ。

「しばらくは五人で行動しよう。寡婦がどれだけリッカに精神的負荷をかけるかわからない」

 エセルの言葉に、四人は一様に頷く。六花は迷宮攻略にいまだ慣れておらず、疾呼の寡婦のような、近付くだけで精神的負荷がかかる妖霊と遭遇するのは初めてだ。より慎重になる必要があるだろう。

 重みのある扉を開くと、六花を怯ませるようなおぞましい雰囲気に加え、埃っぽい空気が肺に押し入ってくる。手入れの施されなくなった場所であるため当然のことだが、建物内はあちらこちらが穢れていた。

「イェレミス研究所はかつて、不老不死の実験が行われていたの」ルーラが言う。「その実験がゾンビ化ウイルスを生み出して、この街を滅ぼしたのよ」

「ゾンビは急所を突かなければ滅びないと考えると」と、ロザナ。「ある意味では不老不死なのかもしれないね」

「なるほど……」

 きっとゾンビ化ウイルスで頽廃した街を銃で駆け抜けた戦士がいたのだろう。魔法の存在する世界なら、戦う手段は銃だけではなかったのかもしれない。そう考えると、ゾンビ討伐はそれほど難しいことではなかったのではないかと思わせた。

 無機質な床を歩いていると、異様に足音が立つ。六花の「忍び足」で妖霊の耳には届かなくなっているはずだが、もし「忍び足」がなければもっと立つということがあればと考えると、六花は冷や冷やしていた。他の四人が平然としているため、六花もなんとか耐えることができていた。

「さっそく腐乱体がいるね」ロザナが言う。「腐乱体くらい倒せればいいのに」

 面倒そうにしつつ、四人はそのまま突き進んで行く。さすが迷宮専門クラン最高峰のクランだ、と六花は考える。ランクの低い妖霊は気にも留めないのだ。感知魔法でこちらに向かっているわけではないことがわかっているのかもしれない。

「腐乱体はこっちを感知したりしないんですか?」

「腐乱体はあらゆる感知が鈍い」と、エセル。「目の前に出るようなことでもしない限り、こちらに気付くことはほとんどないよ」

「警戒すべきは首無し剣士ね」ルーラが言う。「でも、こちらのほうが先に感知できるし、離れていれば問題ないわ」

 首無し剣士は壁越しでもこちらを感知してくる。観測されると他の妖霊に通達がいくようだが、こちらが先に感知して離れればさほど脅威ではない。自信を持ってそう言えるのは、彼らの能力値の高さの証明だった。

 そのとき、微かな音に六花は背後を振り向く。六花の背中を守っていたジルが、それに気付いて六花を見遣った。

「どうした」

「何か聞こえませんか?」

 それがなんの音であるかはわからないが、微かに何かが聞こえる。六花の視線を追ったジルが、仲間に目配せした。同じように振り向いたルーラが怪訝な表情になる。

「あたしには何も……」

「寡婦がいるのかもしれない」と、エセル。「ここから離れよう」

 前を行くエセルとロザナが歩調を速めると、ジルが六花の背中を押す。ルーラも背後を気にしつつそのあとを追った。

 早歩きになりながら、六花はやはり背後が気になった。

「妖霊があたしたちの感知を掻い潜れるはずがない」ロザナが眉根を寄せる。「何も感知されないのはおかしいわ」

「六花は迷宮慣れしていない」と、エセル。「僕たちが鈍いのかもしれない」

 なんの音かを判別することはできない。それくらい遠くから聞こえる。六花の耳に届いているのに、四人に感知されないのは確かにおかしい。四人の感知の範囲は六花の聴力より広いはずで、六花が先に観測するはずがないのだ。

「獣の絵画だ」

 エセルの声で、彼らは腰を屈める。六花もそれに続きながらも、意識は背後から聞こえる微かな音に取られていた。

 おぞましい獣の絵画の前を通りかかったとき、六花は耳をつんざく叫び声に足を止める。それはまるで耳元に口があるような、耳を鋭く突き刺す叫びだった。

「リッカ?」

 ジルの怪訝な声に弾かれて、六花は立ち上がる。ここにいてはならない。そんな焦燥感が、六花の足を駆り立てた。六花を観測した獣の絵画が咆哮を上げる。六花にそんなものを気に留める余裕はなく、ただその場から逃げ出した。

「リッカ!」

 いくら走っても、耳鳴りのように響く叫び声が離れない。六花の頭の中をめちゃくちゃにする悲鳴が、まるで六花を嘲笑うように。何かを訴えるような泣き声が、六花を逃すまいと縋りついて来る。

「リッカ!」

 強く腕を引かれ、室内に倒れ込んだ。それでも六花は悲鳴に支配されていた。

「嫌だ! やめて、放して!」

「リッカ、落ち着け!」

「嫌だ! 放して!」

「リッカ!」

 ぐい、と強く引かれ、息を呑んだ口を塞がれる。唇を重ねられているのだと気付いた瞬間、六花の頭の中を蹂躙する叫び声が消えた。ようやく我に返った六花は、跳ねる心拍を整えるため、荒い呼吸を繰り返しつつその場にへたり込む。腰を屈めたジルが、六花の左手にマールム晶石を握らせた。

「首無し剣士に観測されたな。“隠れ身”を発動しろ」

 冷静な声で少しだけ落ち着きを取り戻し、頭の中でスキルの発動を意識する。部屋の前をガシャガシャと荒々しい鎧の音が通り抜けて行った。追跡を解除できたようだ。

「…………」

「少しは落ち着いたか」

「……はい……」

 ジルの温かい手が背中をさするので徐々に心拍が平静を取り戻していくと、六花はようやく自分の状況を理解した。

(そうか……僕は正気度がゼロになったんだ)

 六花の耳に届いた叫び声がなぜ四人に感知されなかったのかはわからないが、六花はそれにより正気度を削られ、精神的負荷が振り切れたらしい。

(……でも……)

 直前の出来事にほんの少しだけ顔が熱くなる六花に対し、ジルは冷静に周囲に感知を巡らせている。六花の心拍が落ち着かない理由がすっかり変わっていた。

「もう平気か」

「はい……。すみません、妖霊が集まってしまいますね」

「問題ない。お前が俺たちの感知の範囲外から寡婦の攻撃を受けるとは想定外だがな」

 やはりあの叫び声は「疾呼の寡婦」だったか、と六花は考える。彼らの感知の範囲外ということは相当に遠くから攻撃して来たようだが、それを六花のみが観測したのはおかしなことだ。

「他の三人の居場所を“透視”で見てみろ」

 六花は呼吸を落ち着けて目を瞑る。青く示される三人はそれぞれ別の場所で行動しており、赤く表示される妖霊はこの近辺に集まっているようだった。六花の「忍び足」は足音を完全に消せるわけではなく、全力疾走したことで観測の範囲内に入ってしまったようだ。

 六花はジルの手を取り、頭の中の欠けたマップを伝える。六花はさらに、新しく身に付いた「共鳴」で他の三人にこちらの居場所を通達した。これで、六花とジルが無事であることも伝わったはずだ。

「近くに柱がある。妖霊が離れるまで待っているあいだに“隠れ身”の充填が終わるだろ」

「はい」

 六花はハッと我に返り、さっとジルの手を放す。先ほどのジルの行動を思い出すと、やっと落ち着きを取り戻したはずの心臓がまた高鳴った。頬が赤く染まることには、この暗さで気付かれないといいのだが。

「行けるか」

「はい」

 手の中のマールム晶石が濁りきっている。それを床に放りつつ、六花は立ち上がった。先ほどのようなことがない限り、ジルの感知で妖霊が離れていくことを確認できるだろう。

 六花は感知魔法を働かせるジルを盗み見た。ジルは平然と攻略に意識を戻している。

(さすがイケメンは慣れてるんだな……)

 自分だけが意識していると考えると少しだけ悔しい気がしたが、六花はそういった経験が乏しい。落ち着いたはずの心拍がまた跳ね上がっても、それは致し方ないことだろう。





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