第2章【5】

 その後は「隠れ身」を使う機会はなく、足音を潜め、物陰に隠れて妖霊を躱し、魔宮石の間に辿り着いた。ひとつ目の扉の中で、エセルとルーラが待っていた。

「無事でよかった」エセルが微笑む。「すごい叫び声が聞こえたが、何があった?」

「あたしたちにもよくわからないんだ」と、ロザナ。「柱を破壊した瞬間、女の影が現れて叫んだんだ」

 女の影だったか、と六花は考える。六花にはただぼんやりとした影が見えただけで、どんな形をしていたかはよくわからなかった。四人の冷静さは洗練されたものであるということの証明だった。

「俺たちでも多少なりとも精神的負荷がかかった」

 ジルが軽く肩をすくめて言うので、六花は感心するばかりだ。多少なりとも精神的負荷がかかったのに、マールム晶石を使う必要がなかったのは、すでに装備としてなんらかの魔道具を身に着けているのか。もしくは耐性の効果が六花の思っている数倍なのかもしれない。

「リッカは平気?」

 案ずる表情で問いかけるルーラに、六花は薄く微笑んで見せる。

「大丈夫。ジルがすぐにマールム晶石を持たせてくれたから」

「それならよかったわ。リッカのことが心配で仕方なかったもの」

 ジルとロザナに精神的負荷がかかっていたのなら、自分は護符とマールム晶石がなければとっくに発狂していただろう、と六花は考えていた。

「気にはなるけど」と、エセル。「とにかく魔宮石を破壊して迷宮を出よう」

 ロザナとルーラが魔宮石の間の扉を開く。その瞬間、六花は息を呑んだ。魔宮石の紫に溶け込むような、赤紫色のドレスを纏った影がある。僅かなライラックの香りに退くと、すぐ後ろにいたジルに背中がぶつかった。肩に手を添えたジルが六花にマールム晶石を握らせたとき、その影が手を伸ばす。微かな囁きとともに、影は掻き消えた。

「いまのは……」

「魔宮石を破壊しろ」

 ジルの声に弾かれて、エセルが結晶に剣を突き立てる。光となって散った紫色の欠片とともに景色が揺れる。砂嵐が晴れるように、迷宮は消滅した。日が暮れる平原に降り立った瞬間、六花は詰まっていた呼吸を取り戻し、その場に膝をつく。ルーラの優しい手が背中に触れると、何か温かいものが流れ込んでくる感覚とともに心拍が落ち着いていった。

「街へ帰ろう」

 エセルの声で、ルーラが転移魔法を発動する。次に降り立ったのは、アテマの門の前だった。

「ジルと六花は先に宿で休んでいてくれ」と、エセル。「僕たちは冒険者ギルドに行って来るよ」

「はい……」

 六花はまだ意識が迷宮内に取り残されているような感覚だが、ジルに手を引かれて街の門をくぐる。あの微かなライラックの香りが、まだ近くに残っているような気がした。




   *  *  *




 短い機械音を発するスマートフォンに、失望の溜め息を漏らす。コール音すら鳴らない電話番号が虚しく、ガイダンスすら流れない違和感に、熊野くまの塔理とうりは肩を落とした。

 一度だけ、コール音が鳴ったことがあった。しかしそのとき、行方不明の幼馴染みが出ることはなくすぐに切れた。それは幼馴染み――鈴谷すずや六花りっかが意図的に切ったのか、勝手に切れたのか。コール音が鳴ったのはそれきりだった。

「六花くん、連絡ついた?」

 リビングルームに入って来た妹のあやが言う。塔理は何度目かの溜め息とともに首を振った。

「いや。またコール音すら鳴らなかった」

「うーん……。もう一週間か……。六花くん、どうしちゃったんだろう」

 一週間前のあの日、六花は塔理に黙って田代たちの誘いに乗って行った。田代たちがあの高校に流れる都市伝説「名無しの怪談」を試そうとしていることは知っていた。それがまさか、六花が巻き込まれるとは想定外だった。

「六花くん、どうしてお兄ちゃんに黙って行ったんだろうね」

「さあな……。田代たちに何か言われたんだろ」

 六花は気が弱い。「熊野には言うんじゃねえぞ」とでも凄まれたのなら、逆らうことはできなかっただろう。塔理は「鈴谷の保護者」と言われることが多かった。だが、六花はひとりで夜の校舎に足を踏み入れ、消息を絶った。あの臆病な六花が、無理やり連れて行かれた夜の校舎で、姿を眩ませてしまったのだ。六花の父が捜索願を出し、塔理は何度も電話をかけている。いまでも、手掛かりは何も掴めていない。

 ただいま、と落ち着いた声がリビングルームに入って来る。母の明海あけみだ。

隆則たかのりさんのところに夕食を届けて来たわ。昨日の分も手をつけていなかったけれど」

 六花が行方を眩ませてから、母は六花の父――隆則の様子を何度も見に行っている。鈴谷家は父子家庭で、一人息子が行方知れずとなった父の胸中は察するに余りある。

「おじさん、どんな様子だった?」

「随分と気落ちして、やつれたみたいだわ。せめて食事だけでも取ってくれるといいんだけど」

 塔理も一度だけ会いに行ったが、その憔悴ぶりは目を逸らしたくなるほどだった。

 何度も送った六花へのメッセージには、いまだにひとつも既読がつかない。いまどこでどうしているのか。ひとりで泣いていないといいのだが。




   *  *  *




「情報更新できたぞ」

 カウンターで待つエセルのもとに、ブラントが書類を手に戻って来る。先ほど攻略を完了させた「旧ウォルター邸」の情報に、謎の影のことが追加されたのだ。その声で、掲示板を見ていたロザナとルーラもカウンターに歩み寄って来た。

「何度も攻略してるのに、まだ変化があるとはな」

「迷宮は謎だらけだからね」と、ロザナ。「あんなの、あたしたちも初めて見たよ」

「迷宮専門の最高峰フランクランが初めて見たとなると、初めて見たのがお前らでよかったのかもな」

「リッカが現れた『止まり木の館』で何か変化はあったか?」

 エセルの問いに、ブラントはお手上げと言うように肩をすくめた。

「特に報告することはない。しかし、異界から迷い込んだ人間は久々だな」

 異界へ迷い込んだり、異界から迷い込んで来たり、といった情報はどこにでもある。どれも不確かなもので、魔法学によって証明された情報は何もない。

「これまで迷い込んで来た人間はどうやって帰って行ったの?」

 案ずる表情のルーラにも、ブラントは申し訳なさそうにしながた肩をすくめた。

「さあな。前例がないということは、帰れなかったのかもしれないな」

 それはあまりに冷静で、残酷な言葉だった。冒険者ギルドで経験の長いブラントがそう言うのなら、その情報は冒険者ギルドには何ひとつとしてないのだろう。

「じゃあ」ロザナが声を荒らげる。「リッカはこのまま家族のもとへ帰れないのかい?」

「どうだろうな」と、ブラント。「だが、しばらくは面倒を見てやるつもりなんだろ?」

「そうだね」エセルは頷く。「もとの世界へ戻れるまで付き合うよ。ジルが見つけたのも何かの縁だ」

「フランクランが面倒を見るなら、何も心配は要らないな」

 エセル率いるフランクランは、迷宮専門クランの中でもそれなりの地位を築いている。異界から迷い込んだ六花がやたらなクランのもとへ行かなくてよかったと思っているのは、おそらくエセルだけではないだろう。ジルがそばにいれば多少なりとも安心するようだが、迷宮に怯えていることに変わりはない。迷宮の存在しない世界で暮らしていたのなら当然だ。

「俺も情報を集めてみるよ。慣れない異界で不安だろうから、無理はさせないようにな」

「もちろんそのつもりだよ」

 いまはジルが宿に連れて戻っただろう。少しでも休めているといいのだが、とエセルは考えていた。六花は少し神経質さが感じられる。慣れない異界で、慣れない場所で、気が休まるときはあるだろうか。まだ一度も六花の笑った顔を見ていない。この世界へ迷い込んだ際の儀式も、自分の意思で行ったことではなかったのだろう。一日でも早く、もとの世界へ帰る方法が見つかるといいのだが。



   *  *  *



 赤い絵画が啜り泣いている。泣きたいのはこちらも同じなのに。

「……六花」

 優しい声に振り向くと、痩せ細った手が迫っていた。

「ソコニイタノネ」

「――リッカ」

 落ち着いた声でハッと目を覚ます。電灯の眩しさに目を細める六花に、ジルが歩み寄って来た。

「起きたか。夕食だ」

「はい……」

 迷宮攻略後、宿に戻った六花はベッドに腰掛けた途端に眠気に襲われた。そのあとのことはよく覚えていないが、頭が枕に置かれ、布団がかかっていたのは、おそらくジルがそうしてくれたのだろう。

 ジルに続いて部屋を出ながら、六花は僅かな期待を胸にスマートフォンを覗き込んだ。相変わらずライトとカメラしか反応しないが、あることに気付いて首を傾げる。

(充電が減ってない……)

 スマートフォンの充電は、画面を消していたとしても電源が入っていれば減っていく。しかし、六花のスマートフォンの充電は90%のままだった。次にいつ繋がるかわからないため、これもチートなのだとしたらありがたい能力だ。

「それは電話だと言っていたな」ジルが言う。「何がどう電話なのかよくわからないが」

「僕の世界には魔法がないんです。その分、科学が発展しています」

「なるほどな。科学が発展しているなら、魔法は必要ないだろうな」

「魔法が発展していれば、科学は必要ないですからね。僕も何か魔法を使ってみたかったです」

「報せ鳥なら魔力の消費はほぼゼロだ。練習すれば使えるようになるんじゃないか」

「そうなんですか。使えたらいいな……」

 とは言え「ほぼゼロ」ということはゼロではないということ、と六花は考える。魔法の存在しない世界で産まれた六花は、もちろん魔力を持っていないはず。期待はしてみるが、おそらく打ち砕かれることになるのだろう。

 食堂へ行くと、すでにエセルたちはテーブルに着いていた。六花とジルも着席すると、すぐに食事が運ばれて来る。

「リッカ、明日は街で過ごそうと思っているんだ」エセルが言う。「きみがこの街にいつまで滞在するかわからない。ある程度、暮らしに慣れていたほうがいい」

「美味しいフレッシュジュースの店があるの」ルーラが笑いかける。「雰囲気の良い喫茶店なんかもあるわ」

「生活雑貨も揃えないとね」と、ロザナ。「あとは何か武器になる物があるといいんだけど」

「リッカは感知系のスキルを持っていないし、何か魔道具を探してみよう」

「…………」

「……リッカ、そんな悲しそうな顔をしないで」

 ルーラの温かい手が触れるので、六花はハッとする。六花は、まだもとの世界へ帰る方法が見つかっていないという事実に気付いてしまった。それが四人にも伝わったのだろう。

「滞在するとしても、一時的なんだから」

「ブラントも情報を集めてくれている」エセルが微笑む。「毎日、攻略に行っていては、リッカも疲れるだろう?」

「……ありがとうございます。どこの誰かもわからない僕に親切にしてくださって……。最初に出会えたのが、みんなでよかったです」

 あの迷宮に攻略に入ったのがフランクランでなければ、六花の未来は変わっていた。スキルを利用するだけ利用しようとするクランだったなら、もとの世界へ帰る方法を探すことすらしなかったかもしれない。そうなれば、六花にできることは何もない。

「詳細なステータスを計測してみましょ」ルーラが笑う。「運の数値が高いかもしれないわ」

「……ふふ。そうかもしれないね」

 このとき六花は、自分が初めて笑ったことで四人が安堵していることには気付いていなかった。



   *  *  *



 六花が寝付いたことを確認すると、ジルは寝室を出た。街の情報屋を訪ねれば、何か六花が暮らしていた世界の情報があるかもしれない。

 そう考えていたところで、エセルが歩み寄って来る。

「リッカはどうしてる?」

「いま寝付いたところだ」

「そう。眠れているならよかった。ジルと一緒にいると安心するようだね」

「最初に出会ったからな」

「それだけかな」

 怪訝に眉をひそめるジルに、エセルはどこか意味深に微笑む。エセルがこうして含みのある言い方をするときは大抵、ジルにはよくわからないことを考えている。何が言いたいのか、考えたところで無駄である。

「けど、リッカは不思議な子だ。まるで僕たちの前に現れることが決まっていたかのようなスキル持ち……。クラン入りを狙っているのかと疑ってしまったよ」

「それは俺も考えた。だが、それにしては迷宮を知らなさすぎる」

「そうだね。それが狙いだったら、もっと上手く立ち回るはずだ」

 出会った当初、六花は迷宮の仕組みが理解できておらず、心底から怯えていた。もしフランクランへの加入を狙ってスキルを身に付けたのなら、迷宮を把握した上で接触して来るはずだ。六花にその様子は見られない。本当に迷宮のことを何も知らないのだ。

「ブラントから迷宮出現の連絡が来たよ。次は『イェレミス研究所』だ」

 エセルの言葉に、ジルは溜め息を落とす。

「また厄介な迷宮だ。問題は『寡婦』か」

「マールム晶石製の装備を入手できればいいんだけどね。とにかく、もとの世界へ帰る手掛かりを掴むまで付き添ってあげよう。それができるのは、きっと僕たちだけだよ」

「そうだな」

 いつものジルなら、面倒だと言って責任を放棄していただろう。迷宮のことを少しでも知っているなら、わざわざ面倒を見てやる必要もない。便利なスキルを持っているからと言っても、フランクランは迷宮専門クランとしてある程度の地位を築いている。スキルに頼らなくても迷宮を攻略して来た。六花はいままでのクラン加入目的の未熟者たちとは違う。なぜそう思うのかはよくわからないが、それだけは確かだった。




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