第2章【4】
少し走ったところで、ジルが足を止める。耳を澄ませると、コツ、コツ、と高い音が聞こえて来る。「喪服の女」のヒールの音だ。ジルは手振りで六花を下がらせ、六花はすぐそばの室内に身を潜める。ジルはライトを消し、六花を背に庇いながらドアの隙間から外の様子を窺った。ヒールの音が近付くと、ドアを閉めて息を殺す。コツ、コツ、と不気味に響く音が部屋の前を通りがかり、ふたりに気付くことなく音は遠ざかっていった。
「喪服の女は目が良いんだ」ジルが声を潜めて言う。「足音を潜めても、視界に入れば観測される」
「じゃあ、忍び足はあまり意味がないんですね」
「死角なら観測されないだろうがな」
自分のスキルが保証されない妖霊がいることは六花にとって心臓に悪いことだが、おそらく「隠れ身」は充分に効力を発揮する。そう考えて、激しい心拍をなんとか抑えることができた。
足音が充分に離れると、ジルはドアの隙間から慎重に廊下を覗き込む。妖霊の気配がないことを確認し、仄かに明るいライトのもと、また暗闇の中へと足を踏み出した。
「柱は近くにありそうだ。近くに妖霊がいないといいんだがな」
柱の破壊は、大きな音を立てることになる。妖霊が近くにいれば、音を観測されてすぐに対峙することになるだろう。六花はそうならないことを祈るばかりだ。
ジルの背を追いながら、六花はぼんやりともとの世界に思考を巡らせる。こんなことになるとは夢にも思っていなかった。臆病者の自分が異世界で人ならざる者と対峙することになるなど、考えるはずもない。こうして闇の中を走っているだけで心臓が破裂しそうなほど高鳴る。ジルに守られていなければ、一歩も動くことができなかっただろう。
(僕は……いつもそうだ。守られてばかりで……)
何があっても、きっとそれは変わらない。変わりたいと願っていても、何もできないまま。ただ、震えていることしかできない。
六花はあることに気付いて意識を現在に戻す。
「いま“隠れ身”の充填が終わったような気がします」
ジルは速度を落とし、懐中時計を開いた。
「五分くらいか。攻略が三十分ほどだと考えると、何度か使うことになりそうだな」
「次の柱を破壊したら使ってみますか? 体力増強剤を飲んで……」
「そうだな。体感では十五秒くらいだった。充分に距離を取れるだろうな」
六花は自分が提案をしたことに自分で驚いていた。こんなふうに自分の考えを言ったことなど一度もない。きっと、そばにいるのがジルだからなのだろう。
重厚な扉の奥に、紫色に輝く柱が待ち受けている。相変わらず禍々しく、迷宮の瘴気がこの柱から生じていることがよくわかる。
「体力増強剤を飲んでおけ。柱を破壊したらまず走る。妖霊と遭遇し次第、隠れ身を発動するように」
「はい」
体力増強剤の味も、いつか気にならなくなるときが来るのだろうか。六花はそんなことを考えていた。
ジルの銃弾が柱を打ち砕く。耳を貫くような破砕音に顔をしかめていると、ジルが六花の背中を押した。
「走れ」
六花が先を走り、柱の間を脱する。それに続くジルが探査魔法を働かせているということに安堵を覚える。ジルが六花を裏切ることはないと断言することができる。だからこそ、六花は走れるのだ。
うふふ、と笑う子どもの声が聞こえる。ドレスの子どもだ。
「リッカ、発動しろ」
「はい」
頭の中で「隠れ身」の発動を意識する。微かな光がふたりを包み、ドレスの子どもに観測されることなく通過した。すぐに廊下の角から高らかなヒールの音が響く。姿を現した喪服の女も、六花たちに気付く様子は見られない。そろそろ「隠れ身」の効果が切れるという頃、正面に黒い執事の姿が見えた。
「怯むな。走れ」
ジルの声に鼓舞され、六花は足を動かした。黒い執事の蝋燭がふたりを照らす。黒い執事は六花とジルの横を通り過ぎた。しかし、もうすぐ「隠れ身」の効力が落ちているはずだ。
六花の息が上がり始めたとき、ジルが六花の腕を引いてドアの隙間に滑り込む。スキルの効果が切れるのが六花にもわかった。
ジルがドアを閉めたとき、コツ、コツ、と不吉を予感させる音がドアの前を通りかかる。隠れ身の効果が切れていれば、姿を観測されたかもしれない。そんな緊張に心拍が跳ねる六花の手に、ジルがマールム晶石を握らせた。
「お前のほうが精神的負荷が溜まるのが圧倒的に早いようだな」
マールム晶石の効果か、ジルの落ち着いた声か。六花の呼吸は次第に落ち着きを取り戻す。喪服の女はふたりを観測せず去って行ったらしい。
「……僕は、昔から臆病で……。なんでも怖がって、ひとりでは何もできないんです」
心拍は落ち着こうとしているのに、胸が苦しくなる。迷宮が、その事実を痛感させる。それが六花の視界を滲ませた。
「いつも守られてばかりで……」
「お前は迷宮の存在しない世界で生きていた。迷宮が怖いのは当然だ」
ジルが六花の肩に優しく手を添える。その温かさが、六花の悲しみを取り除いてくれるようだった。
「俺たちがお前を守るのも当然だ。本来なら迷宮とは無縁だったお前を、スキルに頼って連れて来たのは俺たちだ。お前はよくやっている。怯えながらも、俺について来ることができている」
本当にそうだろうか、と六花は心の中で呟く。スキルの有用性は認められているが、臆病な自分のせいで攻略に時間がかかっているのではないか。そんな気がした。だが、六花には確かなことがあった。
「それは……ジルがそばにいてくれるからです」
「そうか。俺としても、お前に傷ひとつ付けるつもりはない」
「はい……」
「お前のことは俺が守り抜いてみせるさ」
真っ直ぐに見つめる瞳に、なぜかどきりと心臓が跳ねた。顔が熱くなるのがわかる。こんなにも真っ直ぐに見つめられたことなど、塔理でもなかった。顔を背けてしまったのもそのせいだ。
六花が俯く中、ジルのもとに報せ鳥が届いた。
「ロザナとルーラが柱を破壊したそうだ。残る柱はひとつだな」
ジルも報せ鳥を出す。自分たちも柱をひとつ破壊したことを伝えるのだろう。
「お前のスキルのおかげで、だいぶ早く攻略が進んでいるな」
六花が小さく頷くと、ジルが優しく六花の手を取った。頭の中にところどころ欠けたマップが浮かんでくる。その中に、ひとつの白い丸が点滅した。
「これが最後の
六花は目を閉じ、頭の中のマップに意識を集中する。そうして新たに三箇所の青い光が点滅した。六花のスキル「透視」によってエセルとロザナ、ルーラの居場所がマップに浮かび上がったのだ。その中に、赤い点がいくつかある。
「妖霊の居場所もわかるようだな」
「柱の近くにいるのはロザナさん……ですかね」
「ああ。ちょうど妖霊も離れているようだ。サポートに向かおう」
「はい」
ジルは新たな報せ鳥を出す。ロザナのもとへサポートに向かうことを報せるのだろう。
六花は、ハッとしてジルの手を離した。なんとなく気恥ずかしいような気分になっている。きっと、顔が熱いせいだろう。
行くぞ、とジルが立ち上がる。六花もそれに続きながら、濁って効力のなくなったマールム晶石を床に放った。精神的負荷は解放されたと言うのに、少しだけ心拍がうるさかった。
忍び足でドレスの子どもの背後を通り抜け、陰に身を潜めて喪服の女の視覚と黒い執事の聴覚を躱す。六花は時折、マールム晶石を握り締めた。そのあいだ、ジルがマールム晶石を手に取ることはなく、精神的な耐性の差が顕著だった。
辺りに妖霊の気配がなくなると、六花は声を潜めてジルに呼び掛ける。
「妖霊は常に動き回っているんですよね」
「そうだな」
「攻略中に遭遇しないこともあるんですか?」
「充分にあり得るだろうな。いままでそんなことはなかったが、どこかに固まっていることもあるだろうな」
廊下の角の向こうに明かりが見えるので、ふたりは話すのをやめる。花台の後ろに身を潜め、その動きを観察した。黒い執事は反対側に向かって行く。ある程度、離れて行くと、ジルは再び歩みを進めた。黒い執事がこちらを観測する様子は見られない。充分に距離を取ると、ジルは感心したように口を開く。
「“忍び足”は足音自体を消すようだな」
「歩く程度なら観測されないみたいですね」
「蝋燭の範囲内に入れば観測されるだろうがな」
六花のスキル「忍び足」があったとしても、走れば多少なりとも足音が立つはず。歩く速度では、黒い執事でも観測しない程度には足音を消すことができているようだ。
しばらく走った先に両開きの扉が見えた。そのそばにロザナの姿がある。
「無事でよかったよ」
「ロザナさんも無事でよかったです」
「あたしはそこのクロゼットに隠れていたからね。エセルとルーラは先に魔宮石の間に向かってるはずだよ」
ロザナが待っていた扉の奥の柱で、五つの柱の破壊は完了する。残るは魔宮石の破壊だけだ。
「リッカのスキルのおかげで、かなり時間短縮できてるよ」
「お役に立てているならなによりです」
「残念ながら“隠れ身”はリッカと範囲内にいる人間にしか効果がないみたいだね。発動スキルだから当然と言えばそうだけど」
固有スキルと発動スキルの違いは、六花でもなんとなくわかる。ロザナの口振りから、固有スキルである「忍び足」は効力があったようだ。本来なら身を隠してやり過ごす必要のあるドレスの子どもと喪服の女の後ろを通り抜けることができるなら、それだけで時間短縮に繋がるのだろう。
「この柱を破壊したら、六花の“隠れ身”で一気に魔宮石の間まで走ろう。充填は済んでる?」
「はい。もう使えるはずです」
「よし。じゃあ行こうか」
重厚な扉を開け、悍ましくも美しい柱と対峙する。躊躇うことなくロザナが剣を突き立てた瞬間、光の粒となって舞う紫色の欠片の中に、突如としてぼやけた黒い影が姿を現した。まるで断末魔のようなか細く甲高い叫び声が耳を貫く。六花が瞬時に「隠れ身」を発動すると、それと同時にジルが六花の腕を引いた。それに続いたロザナが扉を閉めても、その不快な声は響き渡っている。近くでヒールの音がした。この叫びが妖霊の耳にも観測され、こちらに向かって来ているのだ。それでも、六花の「隠れ身」が充分な効力を発揮している。三人は一気にその場を駆け抜けた。
ドレスの子どもを突破すると、ジルが六花を室内に引っ張る。ロザナも素早く滑り込み、慎重に辺りを見回してドアを閉めた。「隠れ身」の効力が切れ、妖霊に観測されてしまう頃だ。
呼吸が荒れる六花の手に、ジルがマールム晶石を握らせる。有用なスキルがあるとは言っても、六花が迷宮を恐れていることに変わりはない。精神的負荷はジルとロザナの何倍にもかかることだろう。
「さっきの叫び声はなんだったんだろう」
不可解そうにロザナが呟いた。柱を破壊した瞬間に現れた影は、前回の攻略では見られなかったものだ。
「いままでの迷宮ではなかったんですか?」
「初めて見たね。瞬時に“隠れ身”を発動したのは良い判断だったよ」
六花としても、自分を褒めてやりたい瞬発力だった。普段は「どんくさい」と言われていた六花でも、適切な判断を下すことができた。
「迷宮は消滅と出現を繰り返している」ジルが言う。「何か変化があるのかもしれない」
「けど、新しい妖霊が出現した様子はないね」と、ロザナ。「精神的負荷をかけるための罠だったのかもしれないね」
「冒険者ギルドの情報を更新する必要があるな」
迷宮は繰り返し攻略されている。その中で新しい仕掛けが生じていたとしてもおかしくないのだろう。六花にとって不可解な場所であることに変わりはなく、おそろしい仕掛けであることは確かだった。
「ジルとロザナさんは、どうしてマールム晶石を使わなくても平気なんですか?」
濁って効力を失ったマールム晶石を捨てながら、六花は不思議に思っていたことを問いかけた。
「あたしたちは慣れてるから。それに、いくつか耐性を持っているんだよ」
「お前より精神的負荷が少なくて済む。お前は二度目だから、無理せずマールム晶石を使うようにしろ」
「はい」
六花は、マールム晶石なしに迷宮攻略を完了させるのは自分には無理だとわかっている。迷宮専門の冒険者として経験の長い彼らだからこそできることなのだ。
「とにかく魔宮石の間に行こう。エセルとルーラも待っているはずだよ」
「はい」
ふたりにとっても不可解な出来事であるなら、迷宮の構造が変わっているのは確かなことなのだろう。六花にそれを解明できるはずなどなく、いまはとにかく攻略を完了させるしかない。六花にできるのは、スキルで彼らをサポートすることだけなのだから。
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