第2章【3】

 ルーラの転移魔法で街を出ると、そこは広大な平原だった。エセルに肩を叩かれて六花は振り向く。そこには紫色の瘴気に包まれたおぞましい迷宮が待ち受けていた。六花は迷宮に背を向ける形で着地したようだ。

 迷宮は瘴気の向こうに佇んでいる。六花はてっきり、迷宮内に転移するのだと思っていた。

「迷宮では瘴気のせいで魔法は効果が発揮されないの」ルーラが言う。「だから迷宮の瘴気の外側にしか転移できないのよ」

「ここから歩いて迷宮に向かうよ」

 ロザナに優しく促されて迷宮に向かうと、六花はこれから危険な迷宮を攻略するという実感がやっと湧いて来た。迷宮は禍々しい雰囲気が漂っている。瘴気の中に足を踏み入れれば、そこはもう迷宮の領域だ。こらから、魔法を封じられた魔法使いたちとの迷宮攻略が始まる。

「大丈夫かい?」

 エセルが覗き込むので、六花は意識を仲間に戻した。眼前に広がる迷宮を前に、恐怖で足が竦みそうになっていた。

「顔色が悪い。怖いなら無理をして行く必要はないよ」

「……でも、もとの世界に戻る手掛かりがあるかもしれませんし……」

 それでも迷宮が怖いことに変わりはない。迷宮攻略は命懸けだ。ともすれば、と考えると、どうしても尻込みしてしまう。

「大丈夫だよ」ロザナが優しく言う。「エセルとジルは騎士の家系だ。守ることには慣れているよ」

「あたしとロザナも迷宮専門の冒険者になって長いわ」と、ルーラ。「絶対にリッカを守り抜くわ」

「……うん」

 悍ましい迷宮を前にしても自信を湛える四人に、彼らがいれば大丈夫、という気になる。きっと、その通りなのだろう。

 両開きの重いドアの向こうは、明かりひとつない真っ暗なエントランスだった。迷宮「旧ウォルター邸」の攻略開始である。エセルが光の魔法で明かりをつけると、六花の想像通り貴族の屋敷のような光景だった。

 六花が重苦しい空気に怯む中、四人は臆することなく迷宮に入って行く。怯える者はいない。それだけ迷宮攻略に慣れているのだろう。

「瘴気が濃い場所に転移できないなら」六花は声を潜めて言う。「迷宮内では転移はできないんですか?」

「そうね」ルーラが頷く。「転移魔法が使えたら、攻略がもっと早く、楽に済むのにね」

「どこになんの妖霊が出現するかはわかるんですか?」

「妖霊は決まった動きをしない」と、エセル。「完全なランダムだ」

 妖霊は常に迷宮内を徘徊しているようだ、と六花は考える。ブラントは「ドレスの子どもは徘徊しない」と言っていた。「喪服の女」と「黒い執事」はどこかを彷徨っているのだろう。

「近くにドレスの子どもがいる」

 声を潜めてジルが言うと、彼らは腰を屈める。敵が近くにいる際に音を立てないようしゃがむのはどこでも同じらしい、と六花は考えていた。

 エセルが廊下の角の向こうを覗き込む。微かにくすくすと笑う声が聞こえた。小さい子どもの妖霊がいるのだ。

「最初にはちょうどいいね」ロザナが不敵に微笑む。「リッカの“忍び足”を試してみよう」

「“忍び足”は固有スキルだから」と、ルーラ。「発動しなくても効果があるはずよ」

「じゃ、まずはあたしが行ってみるよ。そうすれば“チーター”の確認もできる」

 ロザナが立ち上がる。四人の中に、妖霊に怯む者はいない。六花のスキルを確認するには、実践してみるしかない。四人はすでに、六花のスキルへの信用を懐いている。それだけルーラの「鑑定」が正確なのだろう。

「でも、もし失敗したら……」

 不安になって俯く六花に、ロザナは自信を湛えた笑みを浮かべる。

「問題ないよ。あたしは“俊足”というスキルを持っていてね。妖霊に観測されると瞬時に速力が上がるスキルなんだ。あたしなら、観測されても走って逃げられるよ」

 四人には、自分の能力に自信があり、六花のスキルへの信用もあるようだった。六花としては、本当に自分にスキルがあるのかいまだに確信を持てず、依然として不安だ。しかし、四人は迷宮専門の冒険者。彼らを信じるよりほかにないだろう。

 廊下の角の向こうでは、ノースリーブのピンク色のドレスを身に纏った少女が辺りを見回していた。それもぼんやりとした影で、人間でないことは明白だ。ロザナが手を軽くかざすと、弱い光の明かりが彼女の近くに浮かび上がる。ライトの魔法は光量の調整をすることができるようだ。ドレスの子どもは目も耳も悪い。明るさを落とせばライトは観測されないのだろう。

 ドレスの子どもがこちらに背を向けようとしたとき、ロザナが廊下の角から駆け出す。足早にドレスの子どもの背後を走り抜けても、ドレスの子どもは反応しない。ロザナは観測されることなくドレスの子どもを突破した。

 ロザナが軽く手を振ると、エセルが立ち上がる。

「次は僕が行ってみるよ」

 エセルは、ドレスの子どもが後ろを向くタイミングを見計らって、廊下の角から駆け出して行った。これにより、六花の「忍び足」のスキルが「チーター」によってロザナにも効果を発揮していることが証明される。六花は確かに四個のスキルを保有しているのだ。

 次に六花が促された。六花は妖霊のそばを通り抜けることが恐怖でしかなく、上がる心拍とともに呼吸も荒くなる。それでも、エセルとロザナによって証明された自分のスキルを信じるしかない。

 ドレスの子どもが窓側を向こうとした瞬間を見極め、六花は駆け出す。背を向けるドレスの子どもに背筋がゾッと寒くなったが、ドレスの子どもは六花に気付かない。エセルとロザナのもとに無事に辿り着くと、ようやく呼吸を取り戻していた。

 同じようにジルとルーラもドレスの子どもを突破する。誰ひとりとして観測された者はいなかった。

「“チーター”も“忍び足”も効いているようね」

 感心したように言うルーラに、ロザナが力強く頷く。

「これでドレスの子どもは問題ないね。次は黒い執事に遭遇できるといいんだけど」

 黒い執事は耳が良い。スキルを試すとすれば「隠れ身」だろう、と六花は考えていた。

「スキルを確認してから柱を破壊しよう」と、エセル。「そこに柱があるようだけど、音を立てれば元も子もない。目印をつけておこう」

 エセルが蛍石を床に投げる。蛍石は虫であるため、どこか別のところに行ってしまうのではないかと六花は考えたが、蛍石はドアの付近をうろうろするだけで、それ以上に動くことはなかった。

「音を立てずに柱を破壊する方法はないんですか?」

「いままでいろんな方法を試したけど」エセルは肩をすくめる。「どんな方法でも音は立ってしまうね」

「そうですか……」

「迷宮は妖霊に都合の良いようにできているからね」と、ロザナ。「侵入者を観測しやすくなる仕組みなんだろうね」

 迷宮は妖霊の棲み処だ。放置すれば妖霊の空気が魔物を引き寄せる。人間の街を侵略することが目的なのだとしたら、侵入者を排除するための仕掛けが多くあるのだろう。スキルを活用して進まなければならないのだ。

 それから、五人はしばらく走って移動した。妖霊に観測されることはなく、四人は柱の発見のために感知魔法を働かせていた。四人が反応しないということは近辺に妖霊がいないということだが、六花は重苦しい空気に肺がやられそうだった。

 先を進んでいたエセルが、手振りで四人の足を止める。廊下の角に、仄かに明るい光が漏れていた。

「黒い執事だ」

 六花は耳を澄ませる。どうやら「黒い執事」は本当に足音がしないらしい。光が移動しているのが見えるが、物音はひとつとしてしない。目視だけでは発見が遅れる妖霊のようだ。

 腰を屈めて黒い執事の動向を窺いつつ、四人は黒い執事を突破するタイミングを計っている。隠れ身が一時的なスキルであるため、タイミングを誤れば突破する前に効果が切れて観測されてしまう可能性がある。

 エセルが口を開こうとした瞬間、六花のブレザーのポケットでスマートフォンが震えた。微かなバイブレーションの音に六花が息を呑んだとき、黒い執事の目がこちらに向けられる。甲高く不快な耳鳴りが鼓膜を震わせた。

 ジルに腕を引かれて六花は立ち上がる。他の三人も、黒い執事に背を向けて駆け出した。耳をつんざくような甲高い音が五人を追いかける。黒い執事に観測されていた。

「リッカ、“隠れ身”を発動させて」

 他の妖霊を呼び寄せないよう、ルーラが声を潜めて言った。

「どうやって……」

 六花は、先に聞いておくべきだったと後悔する。スキルを使用したことのない六花は、その発動条件を知らなかった。

「頭の中で発動することをイメージするの」

「頭の中で……」

 ジルに手を引かれながら、六花はひとつ深呼吸をする。心拍が六花を激しく揺さぶる中、頭の中でイメージを膨らませた。

(隠れ身、発動……!)

 その瞬間、五人を微かな光が包む。六花がなんとなく身が軽くなったような感覚を意識していると、ジルが六花の腕を引き、ドアの隙間へと身を滑り込ませた。他の三人もそれに続き、部屋のドアを閉める。陰となる隅に身を潜め、呼吸を殺す。黒い執事の気配に六花が肩を震わせる中、ジルが六花の手にマールム晶石を握らせた。肩に添えられた手が、恐怖に怯える六花を安心させるようだった。

 他の三人が六花を背に庇う中、部屋のドアがゆっくりと開かれる。蝋燭を手にした細長い紳士が、黒い顔で室内を見回した。視線を何往復かさせたあと、満足したように部屋を出て行く。五人は観測されなかったようだ。しかし、五人はしばらく様子を窺った。黒い執事が戻って来ることはなく、四人は肩の力を抜く。

「もう大丈夫」と、エセル。「充分に離れたよ」

 六花はようやく呼吸を取り戻す。生きた心地がしなかった。

「いまのは何の音なの?」

「これの音……」

 六花はブレザーのポケットからスマートフォンを取り出す。常に消音にする癖があってよかった、と考えつつ通知を見ると、それはもとの世界の友人――熊野くまの塔理とうりからの着信だった。六花は電話のアイコンに触れてみるが、やはり反応しない。

「どうして電話が繋がったんだろう……」

「それは電話なんだね」

 不思議そうに覗き込むエセルに、六花は小さく頷く。

「本来は電話機です。ここは異世界だから、電話が繋がるはずがないのに……」

「次元が同じなのかもしれないわ」と、ルーラ。「平行線上に存在する世界なのかも」

 こちらからかけることはできないが、向こうからかかって来た電話は受信する。もし着信画面が反応するなら、通話することができたのだろうか。それは六花にはわからないが、バイブレーションの音ですら観測する妖霊の敏感さに、六花は背筋がゾッと寒くなる気分だった。

「迷宮内では電源を切っておいたほうがよさそうですね」

「待った」と、エセル。「もしかしたら、迷宮内だから、ということもあるかもしれない」

「迷宮内だから……」

「リッカの世界はこの世界の迷宮と繋がった。迷宮内が繋がる次元なのかもしれないよ」

「“隠れ身”の効果も実証できたしね」ロザナが微笑む。「本当に黒い執事の追跡を切れるなんてね」

 黒い執事は五人を見失っていた。六花のスキル「隠れ身」が、充分な効力を発揮したようだった。

「次に繋がることを考えて、電源は入れたままにしておいたほうがいい」

 薄く微笑むエセルに、六花は小さく頷いた。観測されても「隠れ身」を発動させれば、耳の良い妖霊でも追跡を切ることができる。スキルを成功させたことが、六花を安心させてくれるようだった。

「たぶん“隠れ身”は連発できないわね」

 冷静な声でルーラが言うので、六花は首を傾げた。

「スキルは魔法と違うわ。魔法は魔力があればいくらでも連発できるけど、リッカは魔力を持っていないみたいだから」

「固有スキルの“チーター”と“忍び足”以外は連発できないだろうね」

 確かめるように言うエセルに、ロザナが同意して頷く。

「でも、それだけでも充分だよ。ドレスの子どもと喪服の女を簡単に突破できるなら、攻略難易度をグッと下げることができる」

「発動スキルは充填時間があると考えておいたほうがいいわ」と、ルーラ。「それはリッカの感覚を磨くしかないけど」

 スキルの充填ができたかどうかは自分の感覚でしかわからない、ということだと六花は考える。ゲームであればおそらくステータスバーが表示されることだろうが、現実にそんなものは存在しない。充填が終わったことを掴む感覚を磨かなければならないということだ。

「あとは“忍び足”が離れていても有効なのかどうかだね」と、ロザナ。「それと“隠れ身”も」

「それは分かれて確認しよう」と、エセル。「ここで一旦、解散してみよう。リッカはジルから離れないように」

「はい」

「最初の柱は僕が破壊しに行くよ。みんなは充分に距離を取ってくれ」

 エセルに頷きかけ、またあとで、とロザナとルーラは彼らのもとを離れて行く。エセルも最初の柱の破壊に向かった。三人がそれぞれの場所に散って行くと、途端に迷宮内の静けさが増長されたような気になる。

「心細いか」

 ジルが優しく問うので、六花は逡巡したあと首を振った。

「ジルが一緒なら平気です」

「そうか。“忍び足”の有用性はわかったし、走るぞ」

「はい」

 慎重に辺りを警戒しながらドアを開けると、ジルは屋敷の奥側に向かって走り出す。六花はそれに続きながら、ブレザーのポケットの中のスマートフォンにそっと触れた。

塔理とうり……。どうして圏外なのに繋がったんだろう……。向こうの世界で、僕はどうなったんだろう)

 学校の都市伝説を試した結果、六花は異世界の迷宮に転移した。もとの世界で六花がどうなっているのか、確かめる術はない。もし電話を取ることができたなら、塔理にそれを訊くことができたのだが。

 そう考えていたところで、向こうのほうから破砕音はさいおんが響き渡った。

「エセルが柱を破壊したな」と、ジル。「いまなら妖霊が音を確認しに行くはずだ。行くぞ」

「はい」

 いまは考えても仕方がない。世界が変わってしまった。もとの世界がどうなっているか、いまの六花には考えてもわからないのだ。




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