第3章【1】

『六花』

 甘く呼ぶ声に目を開く。色とりどりに咲く美しい花が視界を覆い尽くしていた。体を起こしてみると、花畑の中で横になっていたらしい。この世のものとは思えない光景だった。

『六花。愛してるわ』

 その瞬間、背筋がゾッと凍る。指先に触れた花が、色を失って枯れていく。一瞬にして変わった光景は、やはりこの世のものとは思えなかった。

『愛してるわ、六花。この世界で誰よりも』

 目を瞑り、耳を手で塞ぐ。そんな臆病な自分が、心底から、嫌で堪らない。




――……




 ハッと息を呑みながら目を覚ます。ようやく呼吸を取り戻したような気分で体を起こすと、柔らかい布団が手に触れた。荒れる息を整えながら顔を上げると、カーテンの向こうに月が覗いているのが見える。

「リッカ、どうした」

 そんな声とともに、チェストのライトが灯る。仄かな明かりに振り向けば、険しい表情のジルが見えた。その途端、六花の心の中に安堵が広がっていた。

「なんでもありません……少し、夢見が悪くて……。起こしてしまったならすみません」

「いや。もう一度、眠れそうか?」

「はい……。ジルの顔を見たら落ち着きました」

「ライトを点けておくか?」

「いえ、消しても大丈夫です」

「そうか。じゃあ、おやすみ」

「はい……おやすみなさい」

 六花がまた布団に潜り込むのを確認してから、ジルはライトを消す。暗闇に目が慣れてくると、カーテンの隙間から漏れる月の光がよく見えた。耳に纏わり付いていたあの甘い声が遠退き、悠然とした微睡まどろみの中に意識は溶ける。次に夢を見るとしたら、せめて、綺麗な景色であるように。




   *  *  *




 もう何度目になるかわからない溜め息をつき、通話終了のアイコンに触れる。またコール音すら鳴らなかった。ただのなまくらと化したスマートフォンを乱暴に置き、鈴谷すずや隆則たかのりは頭を抱えていた。

 一人息子の六花が行方を眩ませて、もう何日が経っただろう。家と職場の往復に加え、警察署に立ち寄るようになってから、ただ経過していくだけの時間が長く感じる。たったの数秒だけでもいい。六花の声がスマートフォンの向こうから聞こえたらどれほど良いことか。

 あの日、あの夜。六花の同級生は「六花がひとりで校舎に入って行った」と言っていた。そんなはずはない。あの怖がりの六花が、そんなことをするはずがない。なぜあの日、よりによって自分は六花より先に寝室へ引き上げてしまったのか。おやすみの挨拶が最後になるなんて、夢にも思っていなかった。

 隆則の心とは裏腹に軽快なチャイムが来客を告げる。この時間に彼を訪ねる者があるとすれば、昔馴染みの熊野家の者だろう。

 ドアの隙間から顔を覗かせたのは、六花の幼馴染みである熊野くまの塔理とうりの母――熊野明海あけみだった。

「こんばんは。六花ちゃんと電話は繋がった?」

「いや、梨のつぶてだ」

 明海をリビングに通しても、お茶の一杯も淹れる気力が湧かない。ソファにどかっと腰を下ろす隆則に代わり、明海が電気ポットのスイッチを入れた。

「随分とやつれて見えるわ。食事はちゃんと取ってるの?」

「いや……どうだろう。塔理の電話は繋がったか?」

「残念ながら。警察はなんて?」

「校舎に六花がいた痕跡はないそうだ」

 おかしな話だ。六花の同級生の話では「名無しの怪談」では音楽室、美術室、理科室、職員室の電気を点けてから二年C組のロッカーに入るらしい。つまり、六花の指紋が残っているはずで、それが痕跡になるはずだ。しかし、六花の指紋は検出されなかった。

「じゃあ、六花ちゃんが本当に学校に行ったのかもわからないってこと?」

「そうだな……。ただ、同級生たちが六花を連れて夜の校舎に行ったのは確かだと言っていた。六花が自ら夜の校舎に入るはずがない」

「六花ちゃんがせめて塔理に話していてくれたら……」

 明海が隆則の前に紅茶のティーカップを置く。六花は紅茶が好きだった。隆則は礼を言いつつ、また溜め息を落とした。

「今頃、どこかで泣いているのではないか……」

「……ねえ? こんなときに何を馬鹿なことを、と思うかもしれないけど……」

 隆則の向かいに腰を下ろし、明海は声の調子を落とす。

「都市伝説『名無しの怪談』の本当の意味を知ってる?」

「本当の意味?」

「ええ。いまでは、自殺した女子生徒の霊が名前を求めて彷徨い、名前を与えてやれば消えるとされているわ。けれど、本来は『名無しの泣き子』が道連れを欲しがっているとされているわ」

「では六花は道連れになって死んだというのか?」

「名無しの泣き子が連れて行くのはあの世ではない。こことは違う世界……つまり異界ね。六花ちゃんは……」

 言葉を切る明海に、隆則はまた頭を抱えた。

「なんてことだ。もう二度と六花に会えないのか?」

「希望を捨てないで。塔理の電話が一度は繋がったんだから」

 六花の幼馴染みである塔理も、六花に何度も電話をかけている。ほとんどがコール音すら鳴らないのだが、一度だけコール音が鳴ったのだとか。つまり、六花と電話が繋がったのである。そのとき、六花は電話に出なかったらしい。

「馬鹿なことは考えないでちょうだいね。きっと六花ちゃんなら大丈夫よ」

「ああ……そうだな」

 明海が案じているのは、隆則の顔に疲労が滲み出ているのだろう。いまは、馬鹿なことを考える余裕もない。今頃、六花がどこかでひとりで泣いているかもしれないと思うと、胸が締め付けられる。一刻でも早く、六花と電話が繋がるといいのだが。




   *  *  *




 翌朝、ベッドに体を起こした六花は、なんとなくしばらくぼうっとしていた。そこにジルが入って来るので、ようやく目を覚ます。

「ルーラが、街で朝食を取ろうと言っている」

「いいですね。おすすめのお店があるなら」

 手早く着替えを済ませ、宿の出入り口に行くと、すでに三人が六花を待っていた。

「おはよう、リッカ」ルーラが微笑む。「よく眠れた?」

「おはよう。お陰様でしっかり眠れたよ」

 夜中に目を覚ましたことはよく覚えている。しかし、いまこの場でそれを言う必要はないだろう。六花はそう考え、何も言わないことにした。

「おすすめの喫茶店があるの。きっとリッカも気に入るわ」

「それは楽しみだなあ」

 四人が六花に不自由な思いをさせないようにしてくれていることは六花にもよくわかる。その気遣いが六花には嬉しく、もとの世界と全く異なる世界での暮らしも、苦痛だと感じたことはない。四人のもとでは、安心して過ごすことができた。

「この世界の食事は」エセルが言う。「もとの世界の食事と比べてどう?」

「大きな差はないように感じます」六花は言った。「料理自体は違う物もありますが、味付けはそう変わらないように思います」

「それならよかった」と、ロザナ。「食文化が大きく変わると、それだけで辛いからね」

 この世界の食事は、もとの世界で言えば洋食風だ。六花はもとから洋食が好きで、和食は苦手だったため特に懐かしく思うこともない。どれくらいの期間、滞在することになるかはわからないが、食事の面で辛く思うことはないだろう。

「リッカは何歳なの?」

 喫茶店に向かう道すがら、ルーラが問いかけた。

「十六歳だよ」

「あたしと同い年ね」

「同い年で信用あるクランの一員なんだ……」

 六花の世界では、十六歳はまだ高校一年生で、働きに出る歳ではない。世界が変われば文化が変わる。この世界では、働き始める年齢が低いようだ。

「あたしは十歳の頃から冒険者をしているわ。十歳で王立魔道学院を卒業したの」

 そう言って胸を張るルーラは誇らしげだ。十歳と言えば六花の世界ではまだ小学生だ。飛び級したとしても働き始めるには早すぎる年齢である。

「学校の仕組みは僕の世界とは違うみたいだね。僕はまだ学生だよ」

「普通はあり得ないことだよ」エセルが苦笑いを浮かべる。「普通、王立魔道学院は十歳前後で入学するんだ」

「へえ……。ルーラは優秀なんだ」

 ルーラが、通常では十歳前後で入学する学校を十歳で卒業したということは、六花の世界の小学校や中学校のような仕組みは存在しないようだ。学校は王立魔道学院だけで済むのかもしれない。

「僕とジルは二十一歳」と、エセル。「ロザナは二十二歳だよ」

「僕の世界だったらやっと働き始める年齢です。やっぱり文化が大きく違うみたいですね」

 信用あるクランということは、他の三人も冒険者になってすでに数年が経っているはずだ。三人もおそらく、優れた成績で王立魔道学院を卒業したのだろう。学校が王立魔道学院だけで済むなら、王立魔道学院を何年か通えば必要な教育が完了するということだ。そもそも優秀でなければ入れない学校なのかもしれない。

 喫茶店に入ると、ルーラと顔馴染みらしいマダムがテラス席に案内してくれた。心地良い日差しと涼やかな風が気持ち良く、活動を始めた街の喧騒と相俟って良い朝だった。

「あたしのおすすめはガレットよ。オルレーヌ地方の野菜を使っているわ」

「ガレットは僕の世界にもあったよ」

「へえ。似通った部分もあるのね」

 この世界の食事の料理名は知らないが、見た目や味付けが似ている物は多くある。六花は特に偏食ということもないため、なんでも美味しく感じられた。

 朝食は和やかに始まる。このときばかりは、六花も安らぎを覚えていた。

「生活用品は宿で揃うから」エセルが言う。「今日は迷宮攻略に必要な物を揃えよう」

「迷宮攻略に必要な物……」

「衣類や装備品だね。いま着けているのは既製品だから、六花に合わせた物を作るよ」

 つまりオーダーメイドということか、と六花は考える。六花の世界はレディメイドが多く、そうでなければセミオーダーだ。学校の制服でさえセミオーダーである。オーダーメイドの服など作ったことがない。

「それと、ステータスの鑑定に行こう。詳細なステータスに合わせて装備を作るんだよ」

「自分のステータスが数値で見られるなんて面白いですね」

「リッカの世界ではステータス鑑定をしないの?」

 不思議そうに首を傾げるルーラに、六花は薄く微笑んで見せる。

「そもそもステータスという概念がないかな。魔法の存在しない世界だから……」

「じゃあ職業は何で決めるの?」

「えっと……適正かな。能力という概念がそもそも違うのかもしれない」

 この世界で「能力」と言えば、おそらく体力値や魔力値、耐性などになるのだろう。六花の世界での「能力」は学力や知識、技術となる。そもそも、職業というものにも違いがあるのだ。

「リッカはなんの仕事に就くことを目指しているんだい?」

 ロザナの問いに、うーん、と六花は首を捻る。

「僕くらいの歳ではまだ考えていない人のほうが多いと思います。僕はいま高等学校の一年生で、これから進学するか就職するか決めていくんです」

「それで進学したら」と、ルーラ。「三人と同じくらいの年齢で働き始めるということね」

「うん」

「魔法がない分、学ぶことが多いのかもしれないね」エセルが言う。「魔法はなんでもできると言えばそうだ。その点、科学の発展は遅れていると言える」

「じゃあ、リッカは魔力値ゼロなのかな。だとしたら、本当に異界の人間だ」

 感心したように言うロザナに、六花は首を傾げる。それに対して口を開いたのはエセルだった。

「この世界の人間は、魔法使いの血筋でなくても多少なりとも魔力を持っているんだ。魔力値ゼロはよほどのことがないと生まれないとされているんだよ」

「へえ……。僕は魔法の存在しない世界で産まれたから、そもそも魔力という概念がないですからね」

「魔力値ゼロがこの目で見られるなら、こんな経験は二度とできないわ」

 ルーラが興奮気味に言う。おそらく、これまで魔力値ゼロに出会ったことはないのだろう。魔法使いの血筋でなくても多少なりとも魔力を持っているということは、魔力の消費がほぼゼロの「報せ鳥」なら誰でも使えるようになるということだ。訓練は必要だろうが、エセルとルーラの口振りでは、おそらく六花は「報せ鳥」すら使えないようだ。魔法の存在する世界ならチート能力で魔法が使えるようにならないかと期待していたが、それは捨てるしかないらしい。六花には心底から残念なことだった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る