第7章【1】
ただ暗いだけの景色の中、佇む後ろ姿が見える。探し求めていたその背中は、肩を震わせて泣いている。
『塔理、助けて』
悲痛な声が訴える。だというのに、足が動かない。声が出ない。手を伸ばしたいのに、指先にすら力が入らない。
『塔理……どうして助けてくれないの? 信じてたのに。塔理なら助けてくれるって、信じてたのに』
まるで呪詛を吐くような声が耳を突き刺した。耳を塞ぎたくなるほどの悲痛さに、背筋に汗が伝うのを感じる。
『嘘つき。助けてよ。こんなに苦しいのに』
声がざらつき、ノイズ混じりになる。不協和音が耳の奥で反響した。
『あの人から助けてくれるって、約束したのに――』
* * *
目を覚ますと、全身が汗だくだった。頭の中で不快に鳴り響いていたあの声は、行方不明の六花によく似ていた。塔理はベッドの上に体を起こし、ひたいの汗を拭う。
きっと六花は苦しんでいる。それなのに、自分には助けてやれるだけの力がない。
(六花……いまどこにいるんだ。どうして何も言わないんだ)
六花の心は、いつも遠かった。自分に構われたくないような、そんな雰囲気だった。
助けてやっているつもりになっていただけ。六花を救ってやることはできない。塔理はいつも、ただ無力であった。
六花が自分に対して懐いている感情は知っていた。それに応えることができていたなら、何か変わることもあったのだろうか。だが、六花は何も言わない。だから、どうしてやることもできない。せめて六花が口を開いてくれれば。
(……違う。それは俺が不甲斐ないせいだ)
六花が自分のそばにいることで安心していたなら、きっと口を開いていたのだろう。六花は口を閉ざし続けた。塔理に対して心を閉ざしていたから。そうでなければ、きっと結果は変わっていただろう。
ごろりと寝返りを打ち、スマートフォンを見る。メッセージには、相変わらず反応がないままだ。
(六花……応えてくれ……)
* * *
瞼の裏が白むので目覚めを自覚する。久々によく眠れた気がする。紙をめくる音で六花が目を開くと、ジルがベッドに腰掛けて本を読んでいた。六花の視線に敏く気付いて、ジルは顔を上げる。
「起きたか。よく寝ていたな」
「あ、はい……おはようございます」
六花はつい視線を逸らしながら起き上がった。あんなことがあった翌日に、どんな顔をすればいいのだろうか。
六花が反対側でベッドから出ると、ジルは本をたたんで立ち上がった。
「他の三人は食堂で待っている。支度が出来たら来るといい」
そう言ってジルが寝室から出て行くので、怒らせてしまっただろうか、と六花は肩を落とす。ジルのように平然としていることなど、六花には到底できない。それと同時に、自分のことをどうとも思っていないのかと考えると、複雑な気分になる。
(……どうも思ってないなんて当然だ。そうでなきゃ、あんなことできないよ)
思い出しただけで頬が熱くなる。エセルたちの前ではなんでもないような顔をしなければならないが、果たして自分が上手くやれるのか。自信はないが、そうするしかないのだ。
何度か深呼吸を繰り返しつつ食堂に向かう。昨日はクォルツの診療所に行ってすぐ宿に戻って来た。エセルたちは冒険者ギルドのブラントのもとに行ったはずだ。何か情報があったならいいのだが。
四人の姿はいつもの席にあった。六花に気付いたルーラが大きく手を振る。
「おはよう、リッカ。よく眠れた?」
「うん。お陰様で」
よく眠れたのは確かだ。六花がジルを盗み見ると、当然のことながら目が合ってまた視線を逸らす。エセルたちの手前、いつも通りに振る舞わなければならないのだが、やはりその自信はなくなっていった。
「今日は街でのんびりしよう」エセルが言う。「魔法学研究所にも行ってみないと」
「次の迷宮情報はまだ出ていないんですか?」
「いまのところね」
「ここのところ、迷宮の出現が多すぎる」と、ロザナ。「リッカも疲れただろう?」
「そうですね……少し。クォルツ先生がまた来るようにと言っていました」
「きっとのんびりできるのは今日だけだわ」ルーラが溜め息をつく。「ほんと、忙しくなったものだわ」
六花は「妖霊殺し」のことを思い出して、自分がこの世界に来ることが決まっていたために迷宮の出現が増えたのだろうか、とそんなことを考えていた。そうであれば自分の存在が世界の仕組みに影響を及ぼしているように感じられ、そんなことはあり得ないように思える。
食事のあいだ、六花の目線は手元に落ちたままだった。顔を上げればジルと視線が合う。他の三人が六花に話しかけているのだから当然だ。だから六花は、目を伏せているしかなかった。
* * *
「ジル、ちょっと残りなさい」
食事を終えると、ルーラが厳しい表情で言った。先に行っているよ、と言うエセルにロザナと六花も続く。六花は複雑な表情をしたままだ。
三人が食堂を出て行くのを見送って、ずい、とルーラがジルに迫る。
「あんた、リッカに何したのよ」
「何がだ」
「その鉄面皮には騙されないわよ。リッカの表情にはあんたも気付いているはずだわ」
六花が自分から目を逸らしていることはとうに気付いているが、ジルが何を言ったところで六花は複雑な表情をするだけだろう。そう考えてジルは黙っているのだ。
「お前に言う必要があるか?」
肩をすくめるジルに、ルーラは大きな溜め息を落とす。
「何をしたのかは知らないけど、さっさと謝りなさいよね。あんたとリッカが気まずいとこっちが気になるわ」
「そうだな」
謝って許してもらえるかはわからないが、確かに六花と気まずいままでいるわけにはいかない。どこかしらでその機会を待つしかないだろう。なんと言って謝ればいいかはわからないのだが。
* * *
ジルとルーラが戻って来ると、五人は街へ出た。活気のある人々の行き交う通りは賑やかで、暗く沈んでいるのは自分だけなのではないかと錯覚する。すれ違う人々もそれぞれ何かを抱えているだろうが、喧騒がそれを打ち消すようだった。
六花は、もとの世界に帰ることができないなら、自分もこの喧騒の一部になるのだろう、と考えていた。きっとそれも悪いことではない。しかし、向こうの世界で父をひとりきりにしてしまう。きっといまも、せめて電話が繋がることを祈っているだろう。
「リッカ?」
ルーラが呼ぶ声で六花はハッと顔を上げる。考えに耽りすぎていたようだ。
「大丈夫? なんだかぼうっとしてるわ」
「なんでもない。少し考え事をしてただけ」
「そう。何か悩んでいるなら相談してね」
「うん、ありがとう」
もしジルの行動を話せば三人はどんな反応をするだろうか、と六花は考える。ロザナからは拳、ルーラからは張り手が飛ぶかもしれない。六花としても、ジルにふたりの雷が落ちることは本望ではない。わざわざ言う必要もないだろう。
「先に診療所に行こう」エセルが言う。「鑑定の前に精神的負荷を回復しておかないと」
「はい」
「あたしたちは、そのあいだに買い物に行って来るよ」
「昼食と取る店は決まっているわ。治療が終わったらジルと一緒に先に行っていて」
「……うん、わかった」
頷いてから、妙な間を作ってしまった、と六花は反省していた。これでは何かを隠していることが明白である。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
自分もいつかジルのように平然として居られる日が来るのだろうか。六花はそう考えてみたが、そんな日は未来永劫、来ないような気がした。
クォルツの診療所に到着すると、三人は買い出しに向かって行った。ジルとふたりになれば気まずくなるのではないかと考えていた六花は、そそくさと診療所に入る。新聞を読んでいたクォルツが、顔を上げて老眼鏡を外した。
「ようこそ、リッカくん。またお会いできて嬉しいですよ」
その微笑みを見た途端、六花はそれだけで心が軽くなったような気がした。
「昨日より顔色が良くなったようですね。今日はのんびりとお話でもしましょう」
「はい」
六花が促されて診察台に腰を下ろすと、クォルツは優しく六花の手を取る。その手のひらの温かさが全身に行き渡るのを感じた。
「この世界で不自由はしておりませんかな」
「特にしてないです。親切にしてもらってますから」
「何か我慢していることはありませんかな」
「特にないです」
穏やかなカウンセリングに、六花もようやくひと息つく。クォルツは優しかった祖父を思い出すため、安心できるような気がした。
「食事は合っておりますかな」
「はい。なんでも美味しく感じてます」
「それはよかった。迷宮攻略は大変ではありませんかな。リッカくんは迷宮の存在しない世界で暮らしていたわけですから」
「大変は大変です。……迷宮が怖いと感じているのは、いまでもそうです」
クォルツに隠し事をしても仕方がない。ジルもきっとわかっていることだろう。臆病者がたった数回の攻略で変わるはずがないのだ。
「でも、自分の力が役に立てているなら嬉しいです。僕はどこにいても役立たずでしたから……」
「本当に役立たずの人なんていませんよ。リッカくんはフランクランの充分な戦力ですよ」
そんな言葉をかけられたのが初めてで、六花は少しだけ視界が滲んだ。
「そう思ってもらえてるなら嬉しいです」
「もちろんですとも。何か困っていることはありませんかな」
「うーん……」
六花は思わず答えに詰まる。最も困っていることがあるが、それをクォルツに相談するのは何か違うような気がする。そもそもクォルツもそんな相談をされても困るだけだろう。
「無理にお話しする必要はありませんよ。話せることだけお話になればいいのです」
「はい……」
「困ったことがあれば、周りを頼りにするとよろしいでしょう。エセルくんたちに言いづらいことなら、私に相談していただいて構いません。周りに頼ることを遠慮なさいませんように。リッカくんに頼られて悪い気のする人はいないでしょうから」
「はい……ありがとうございます」
もう充分に頼っているのだが、と六花は考える。この世界では、誰かに頼らなければ六花は生きていけない。この世界でひとりで生きていく術を六花は持っていないのだ。それを悪いことだと思う必要はないのかもしれない。そう考えると、少しだけ心が軽くなった。
「その分だけ役に立てるといいんですけど……」
「リッカくんは、役に立とうと頑張りすぎているようですね」
「そうでしょうか……」
「リッカくんは迷宮にいるだけで役立つスキルを持っているのですから。自信をお持ちなさい。リッカくんは立派な迷宮冒険者ですよ」
「……ありがとうございます」
自信を持てる日はまだ遠いだろうが、人生経験の長いクォルツがそう言うのなら、その言葉を信用するのは無駄なことではないだろう。六花はその日が来ることを祈るばかりだ。
「さ、もう大丈夫。調子はいかがですかな」
「体が軽く感じます。話を聞いてもらってすっきりした気がします」
「それはよかった。またいつでもお越しなさい。リッカくんのためなら、いつでも玄関を開けますよ」
「ありがとうございます」
六花は精神とは対照的に肉体的な強さを持っているため、あまり医者に掛かったことがない。医師が頼りになる者だと、初めて知ったような気分だった。
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