第7章【2】

 街へ出ると、まるでクォルツの診療所だけ別の世界に存在しているかのような喧騒が溢れていた。ここは六花にとって異世界であるはずなのに、現実に引き戻されたような気分になる。それも不快ではなかった。

「あいつらはまだ買い物をしているだろうから」ジルが言う。「先に魔法学研究所に行く」

「はい。……結果次第では、僕はもとの世界に戻れない可能性があるんですよね」

「可能性のひとつでしかない。戻れる可能性が消えたわけでもない。俺たちは、お前がもとの世界に戻れるまでともに戦う覚悟はできている」

「はい……ありがとうございます」

 彼らでなければ、とっくに見捨てられていたかもしれない。見捨てられれば、六花はひとりではどうにもできない。いくらチートスキルがあると言えど、ひとりでは迷宮攻略をこなすことはできないだろう。フランクランがいなければ自分が今頃どうなっていたかわからない。そう考えると、六花は少しだけ怖いような気がしていた。

「……昨日は悪かったな」

 小さく呟くように言うジルに、六花は一瞬だけきょとんと首を傾げる。それからすぐ昨夜のことが思い出され、途端に顔が熱くなった。咄嗟に俯いた六花に、ジルは小さく息をつく。

「俺はお前の気持ちを考えていなかったよ」

「いえ……僕のほうこそ、みんなは僕のために戦ってくれているのに、勝手に落ち込んで……」

 六花は、妖霊殺しの言葉に支配されていた。ジルの行動によって解放されたのも確かだ。

「だからと言って、もっと他に方法があったはずだ。俺は短絡的すぎた」

「…………」

 六花は俯いたまま足を止める。振り向いたジルは、六花の言葉を待つように彼を見遣った。

「謝るのは、僕のほうです。僕は……ジルの優しさに甘えているだけです」

「それは悪いことではないだろう」

「違うんです」

 六花の語気が少しだけ強くなる。涙を堪えていると、力の込もる肩にジルが優しく手を添えた。それが逆効果となり、視界が滲む。それでも、六花には言わなければならないことがある。

「僕は……ジルに塔理を重ねているだけです。だから、甘えちゃいけないんです」

 ジルと塔理はよく似ている。塔理より少し強面のジルに自然と馴染めたのは、その雰囲気のためだ。昨夜のことで嫌な気分にならなかったのは、ジルに塔理を重ねているだけだ。

「……好きだったのか」

 頬を伝う涙を指で掬うジルの問いに、六花は小さく頷く。

「でも……そんなことを言ったら、塔理はきっと離れて行ってしまう……。ジルだって、こんなことを言われても、迷惑なだけ……」

「迷惑なわけないだろ」

 ジルがきっぱりと言い切るので、六花は顔を上げた。ジルの澄んだ瞳は、まるで六花を射抜くようだった。

「他の人間と比べられることは別に構わない。これからお前の心を俺に向かせればいいだけだ」

 六花がジルの言葉の真意が掴めず応えられずにいると、ジルは優しく六花の頬に手を添える。六花がきょとんとしているあいだに、静かに唇が重ねられていた。

「手加減はしない。いまお前のそばにいるのは俺だ」

「……それ、って……」

「説明は必要ないだろ」

 六花の頭を優しく撫で、行くぞ、とジルは背を向ける。言葉がようやく六花の脳内に浸透すると、一気に心拍が跳ね、顔が熱くなった。迷宮攻略の息が詰まるような心拍ではない。頭の中をいろいろな言葉が行き交い騒がしく、頭から蒸気が出ているのではないかと思うほど頬が熱を帯びている。ふらふらとジルに続きながら、六花の頭から先ほどまでの罪悪感が消え去っていた。


 魔法学研究所に着く頃にはようやく六花も落ち着いて、心拍も平静を取り戻そうとしていた。それでもジルの顔を見ることはできず、ジルの身長が高くてよかった、とそんなことを考えていた。

 ジルが研究室のドアを開くと、セヴィリアンは手にしていた資料をばら撒かん勢いで両手を挙げる。

「リッカちゃ〜ん! いらっしゃい! またお会いできて嬉しいわ!」

「こんにちは……」

「あら、どうしたの? そんなに俯いて」

「い、いえ……何もないです」

 セヴィリアンの様子を見るに、おそらくジルはいつも通りの涼しい顔をしているのだろう。ただ自分が挙動不審なだけだと考えると、なんとなく悔しいような気もした。セヴィリアンは深く追及することはなく、それで、と頬に手を当てる。

「今日はどんなご用かしら。護符の新調?」

「リッカの魔力回路を鑑定してみてくれ」

 そう言って、ジルはこれまでの経緯をセヴィリアンに説明した。六花は澱みなく話を進めるジルの横顔を盗み見る。先ほどよりはまともだが、やはり頬が熱くなった。落ち着いたはずの心拍がまた跳ね、さっと目を背ける。セヴィリアンがジルの話に集中して六花の変化に気付いていないのは幸いだった。

 ひと通り話を聞き終えると、なるほどね、と難しい表情になる。

「魔力値ゼロでも、魔力回路は存在するものね。いいわ。鑑定してみましょ。リッカちゃん、ここに座ってちょうだい」

「はい」

 六花が促されて椅子に腰を下ろすと、その向かいの椅子にセヴィリアンも腰掛ける。

「魔力回路に触れるから少し気持ち悪いかもしれないけど、ちょっとだけ我慢していてね」

「はい」

 セヴィリアンのしなやかな指が六花の手に触れる。それと同時に温かいものが流れ込んでくるのを感じた。それはクォルツの治療と同じような感覚だが、少しだけ背筋が寒くなる。不快とまではいかないが、クォルツの治療がこんな感覚であればのんびり眠ることはできないだろう。

 それもほんの少しのあいだのことで、セヴィリアンはすぐに手を離した。

「複雑な魔力回路だわ。リッカちゃんの中に、ふたつの魔力回路が存在しているの」

「ふたつ……。普通はひとつってことですよね」

「ええ。ひとつはこの世界のもの、もうひとつはこの世界のものではないもの……」

 セヴィリアンが険しい表情になるので、六花は少しだけ怯みつつ、先を促すように彼を見た。

「リッカちゃんはもともと、こちらと向こうの世界を行き来しているんだわ。どちらの生まれなのかは、魔力回路だけではわからないわね」

「でも、妖霊殺しが……」

 六花はいま一度、妖霊殺しの言葉をセヴィリアンに伝える。セヴィリアンの表情がより一層に険しくなるので、六花は思わず泣きそうになっていた。

「リッカちゃんがこの世界で生まれたんだとしたら、このスキルにも納得がいくわ。もともと……」

 そこで言葉を切ったセヴィリアンが、六花の肩を軽く叩く。

「そんな顔しないで。だからと言って向こうの世界に戻れないというわけではないはずよ」

 セヴィリアンは明るく笑う。六花が泣きそうになっていたことに気付いたらしい。

「アタシが魔力値ゼロでも異世界渡航できる方法を探しておくわ」

「ありがとうございます。……父がいなければ、この世界で生きるのも悪いことじゃなかったと思うんですけど……」

「そうね。きっとリッカちゃんを心配してるわ」

 六花としても父が心配だ。ひとりきりになった父は、きっとまともに食事を取っていない。熊野家の人々が気にかけてくれているだろうが、六花のことを心配するあまり体調を崩しているかもしれない。仕事にも支障を来しているかもしれない。せめて塔理のように電話が繋がるといいのだが、スマートフォンはいまだに何も反応を示さなかった。

「大丈夫よ。アタシに任せて。リッカちゃんをお父様のところに帰す方法を必ず見つけてみせるわ」

「はい……よろしくお願いします」

 セヴィリアンの笑みには自信が湛えられている。フランクランの信用する彼だからこそ、こうして六花に微笑めるのだろう。期待することも、信用することも、決して無駄なことではないはずだ。

「次の迷宮情報はまだ出ていないんだったわね?」

「ああ」

「それなら護符はあれにしましょ」

 セヴィリアンは資料の並ぶ棚から縦長の箱を取り出す。納められていたのは、ラピスラズリのような輝きを持つ護符だった。

「これは『紺碧の護符』よ。スキル強化に特化した護符なの。どこでも通用する護符にしてみたわ」

「ありがとうございます」

 結果はどうあれ、妖霊殺しは六花にとって大きな手掛かりとなった。手掛かりが迷宮内にしか存在しないのだと考えると、フランクランとともに迷宮攻略に行くことは必須である。そのためには、こうして護符を手にする必要がある。いつかその必要がなくなればいいのだが、と考えて、六花はまた悲しい気持ちになっていた。

 それが顔に出ていたのか、セヴィリアンが優しく六花の手に触れる。

「まだしばらくは大変でしょうけど、いくらでもアタシを頼ってもらって構わないわ。困ったことがあれば、すぐに来てちょうだい」

「はい……ありがとうございます。頼れる人がいるのは心強いです」

「光栄よ」

 もし六花が向こうの世界でひとりきりであれば、こちらの世界で生きることに抵抗はなかったかもしれない。だが、六花が向こうの世界に戻りたいと思っていなければ、フランクランの四人が面倒を見てくれることはなかったかもしれない。いくらチートスキルがあったとしても、六花が足手纏いであることに変わりはない。彼らもきっと、ただの足手纏いの面倒を見るほど親切ではないだろう。誰でも歓迎というわけではない、とブラントは言っていた。もとの世界に帰りたいと望んでいる六花がフランクランと出会えたこと。ただそれだけで、六花はとても幸運だったのだろう。

 また新たな困りごとが生まれてしまったのだが、と考えていると顔が熱くなりそうで、それを堪えるために顔に力が入った。

「どうしたの、リッカちゃん。今日はなんだかいつもと様子が違うわ」

「いえ……何もないです……」

 きっとジルは涼しい顔をしているのだろう、と考えると、やはり少し悔しいような気がした。




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