第6章【6】
「妖霊殺しな……」
確かめるようにブラントは呟く。エセルたちが妖霊殺しの出現を報告するのは何度目かになる。そのたび、ブラントはいつも険しい表情になった。
「いまだに他のクランから報告は上がっていない。妖霊殺しが一体しかいないとなると、フランクランの前に出現することで他のクランのもとには出現しないと考えられる」
妖霊殺しの出現は毎度のことではない。その上、あれほど目立つ出現の仕方をしたのは今回が初めてだ。妖霊殺しはこれまで、近くに出現しても接触して来ることはなかった。
「確かにリッカは、他の世界から来たことが不自然に思えるスキルを持っている。この世界で迷宮攻略することが決まっていたようだ」
六花の持つスキルは、固有スキルの「チーター」「忍び足」と発動スキルの「隠れ身」「救援隊」「透視」「共鳴」と新しく身に付いた「雪の結晶」がある。そのほとんどが迷宮攻略向けのスキルである。迷宮の存在しない世界で生きていたのが不思議に思える能力だ。
「リッカがもともとこの世界の住人だったと考えると自然に思える」
「でも、リッカには向こうの世界に父親がいるわ」ルーラが言う。「父親は向こうの世界の住人のはずよ」
「魔力回路を調べてみないことにはわからないが、母親がこの世界の住人だったという可能性はないか?」
ブラントの言葉に、エセルはロザナと顔を見合わせる。六花は一度も母親のことを口にしておらず、いつも父親の心配をしていた。その可能性については考えていなかった。
「こちらの住人と向こうの住人のあいだの子だとしたら、魔力回路がどちらにも適合するのも不自然ではない」
「そうだとしても」と、ロザナ。「迷宮がリッカに過剰反応していることの説明はできないよ」
「それはそうだな」
「迷宮にとって、リッカが特別な存在ってことよね」ルーラが言う。「妖霊殺しがあんな反応をするなんて初めて見たわ」
「重要なのは、リッカがもとの世界に帰れるかどうかだよ」
エセルが冷静に言うと、ロザナとルーラも小さく頷いた。六花はいま、クォルツの診療所で治療を受けている。自ら望んで渡航したわけでもない異世界で、経験したことのない迷宮攻略を半ば強いられている。彼らが思っている以上の疲労を溜めているだろう。迷宮が六花に過剰反応している理由は、いまだ手掛かりすら掴めていない。六花がもとの世界に帰る方法も。手掛かりとなる可能性があるとすれば、残るは妖霊殺しになるだろう。
「儀式によって異世界渡航してしまった者の記録はいくつかある」ブラントが言う。「だが、どの記録も途中で終わっている。帰ることができたから途絶えたのか、この世界に迎合したから記録をやめたのか……それはわからないな」
「でも、帰ることができたならそう記すんじゃない?」と、ルーラ。「書かれていないってことは、帰れなかった可能性が高いってことなんじゃ……」
「帰ることができたなら、俺だったらその方法を記録しておくしな」
六花には聞かせられない会話だ、とエセルは考える。六花がこれまで不慮の異世界渡航をしてしまった者と同じ運命を辿るなら、それほど残酷なことはない。六花は自ら望んで儀式をしたのではない。だというのに、生まれ育った世界に帰ることができない。愛する家族のもとへ戻ることができないのだ。
「だが、リッカが異世界渡航する条件を整えることができればなんとかなるはずだ」
「本当に魔力値ゼロで異世界渡航できるのかい?」
怪訝に問うロザナに、ブラントは困ったように肩をすくめる。
「さあな。その辺りはセヴィリアンに任せるしかないだろうな」
異世界渡航には多少なりとも魔力を必要とする。六花の世界には魔法が存在しない。そのため、六花は魔力値ゼロなのだ。そんな六花が魔法の存在しない世界へ渡航できるかと考えると、彼らには確信がなかった。その点において、魔法学研究員であるセヴィリアンは専門家だ。彼に頼るよりほかに方法はないのだろう。
* * *
――六花。私の可愛い六花。会いたかったわ。
それは呪いのように。心の底に水溜まりを作る雨の雫のような。
――ずっとあなたが帰って来るのを待っていたの。
耳を塞いで蹲っても、どこまでも付いて来る残響が、臆病者を嘲笑っているようだった。
――私の可愛い六花。もうどこにも行かないで。
* * *
重い瞼を持ち上げると、クォルツ老医師が六花の頬を優しく拭っていた。開いたばかりの視界はぼやけており、目尻から涙が伝うのがよくわかる。
「悪い夢を見たようだな」
ジルが六花を覗き込んだ。窓の外は日が傾き始めている。診療所に訪れてからずっと見守っていてくれたようだ。
「充分に休めなかったようですね。また明日、お越しなさい」
「はい……」
体は鉛のように重い。負荷からも疲労からも解放されていないことを自覚しつつ立ち上がると、ふらりと頭が揺れる。肩を支えてくれたジルの手は優しく、温かかった。
街の喧騒が遠く感じる。通り過ぎる人々の賑やかな歓談にも、まるで耳に蓋がかけられているようだった。
「気を落とすな。妖霊殺しは『この世界に染まれば』と言っていた。染まらなければ帰れるということだ」
「…………」
「帰る方法はあるはずだ。希望を捨てるな」
「はい……」
夢の中で語り掛ける声が耳から離れない。ジルの言葉に曖昧に頷くことしかできず、六花の視線は足元に落ちていた。
優しい父のもとに帰りたい。父とおやすみの挨拶をしたあの夜に戻りたい。それが叶うのなら、どんなに険しい迷宮を攻略することだって厭わない。あの日常に戻れるなら、どんな方法だって構わない。あの声は、そんな六花の心を
宿の部屋に戻ると、堪えていたものが決壊するように涙がこぼれた。止め処なく溢れる感情に耐え切れず、ベッドに突っ伏して泣いた。ジルがそばに腰を屈め、嗚咽を漏らす六花の頭を優しく撫でる。
「少し眠ったらどうだ。夕食になる頃に起こしてやる」
「……僕はきっと……向こうの世界で、死んだんです……」
しゃくり上げながら言う六花に、ジルは困ったように口を噤んだ。
「きっと……儀式に失敗して……だから、あんな夢を見るんです……。やっと、あの人から、離れられたのに……どうして……こんな……」
「まだ希望を捨てるのは早い。夢に惑わされるな」
「……だって……僕にこれ以上、何ができるって言うんですか……。こんな……臆病な、僕に……」
堪えていたものがすべて溢れ出る。止め処ない感情のまま吐き出せば、心の中には暗いものが溜まっていく。
「僕には……みんなが言うような、価値なんてないんです……。この世界で……生きて行く理由も……。もう、戻ることができないなら……」
言葉を遮るように、ジルが強く六花の腕を引いた。驚いて息を呑む六花を、ジルはベッドに押しつける。六花が目を丸くしているうちに、唇を重ねられていた。突然のことで強張る六花の体に温かい手が触れる。抵抗する手は簡単に縫い留められ、涙の理由が変わるまで、そう時間はかからなかった。ただ泣いて、身を委ねていることしかできなかった。
* * *
六花の呼吸も落ち着いて、静かに眠っている。その穏やかな寝顔を眺めているうち、ジルは自分に溜め息をつかざるを得なかった。
(……なんて馬鹿なことを)
あまりに短絡的な行動だった。六花の気を逸らす方法は、もっと他にあったはずだ。
六花が自分に懐く感情は知っていた。だから、六花の弱みに付け込んだに過ぎない。
(リッカのための行為ではなかった)
またひとつ溜め息を落とし、立ち上がる。そろそろ他の三人が戻って来ているはずだ。このことを知られれば、ロザナからは拳、ルーラからは張り手をもらうことになるだろう。特段、話す必要もないだろう。
食堂に行くと、三人はすでにいつもの席に着いていた。ジルに気付いて顔を上げたルーラが、不思議そうに首を傾げる。
「リッカは?」
「寝ている」
「そう」
自分の鉄面皮に感心しつつ、ジルも椅子に腰を下ろした。
「ブラントは何か言っていたか」
「いまだ手掛かりはないそうだ」エセルが言う。「妖霊殺しの情報も何もない」
ブラントは冒険者ギルドの職員になって長い。加えて、迷宮専門クランの最高峰と称されるフランクランの専属のような立ち位置にいる。そのブラントが情報を持っていないのなら、何ひとつとして有益な情報はないのだろう。
「妖霊殺しは、リッカがもとの世界に戻る方法を知っているのかもしれないわ」
硬い表情で言うルーラに、そうだね、とロザナが重々しく頷く。
「せめて、妖霊殺しがリッカにとってどういった存在であるかわかれば……」
「……リッカはたびたび『あの人』と口にしている」
ジルが静かに口を開くと、三人は一様に先を促す視線を彼に向けた。
「妖霊殺しが『あの女を許さないで』と言っていた。おそらくだが……あの女というのは、リッカの母親だ。リッカがこの世界に来たことに、何か関係があるはずだ」
「ブラントとも、リッカの出自の話をしていた」エセルが言う。「リッカの母親が、もともとこの世界の人間だったんじゃないか、とね」
「けど、妖霊がリッカに反応する理由には説明がつかないわ」と、ルーラ。「母親だって普通の人間だったはずよ」
「この世界でリッカの母親の痕跡を見つけられるといいんだけど」ロザナが溜め息をつく。「とにかく、リッカの魔力回路を鑑定してみるしかないね」
ジルはすでに、六花の魔力回路に触れていた。だがそれを話せば、ロザナからは拳、ルーラからは張り手をもらうことになる。ジルとしても確証を得ているわけではない。ここで言及する必要はないだろう。魔力回路は正常な鑑定を受けるべきである。
* * *
ふと目を覚ますと、カーテンの向こうはすでに月に照らされていた。視線を反対側に向けると、ジルがベッドで休んでいる。このまま起き上がれば起こしてしまうかもしれない。そう考え、六花は反対側に寝返りを打った。
日暮れの頃を思い出すと、途端に顔が熱くなった。
(……ジルはどうしてあんなこと……僕が泣いてたからって……)
迷宮にいるときとは別の意味で心拍が騒がしい。明日、どんな顔をしてジルに挨拶をすればいいのだろうか。
(……僕が泣いていると、いつも塔理が来てくれた)
自分がどこにいても泣き虫であると考えると呆れるばかりだが、臆病者の六花を守ってくれるのはいつも塔理だった。
(僕は……塔理が好きだった。でも、そんなこと……口が裂けても言えない……)
この気持ちを打ち明ければ、塔理は離れてしまうのではないか。そう恐れていた。それが、まさか自分が塔理から離れることになるとは思っていなかった。
(……僕は、みんなの優しさに甘えてるだけだ。ジルだって……塔理を重ねてるだけ……。だから、こんな気持ちは嘘だ)
止めてもらったはずの涙がまた滲む。この気持ちに気付かれてはならない。そうでなければ、彼らのそばにはいられない。ジルのそばにいることは許されない。だから、隠し通すしかない。気付いてはいけなかったのだ。
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