第8章【1】
果てのない闇が広がっていた。ここがどこなのか確かめるために歩き出そうにも、右も左も、上も下もわからない。むやみに歩き回るのは危険のように感じられた。
『役立たず』
不意に聞こえた声に、ヒッと喉を引き攣らせる。何重にも聞こえる、不快な声。
『お前に何ができると言うんだ』
『お前みたいな臆病者に』
心臓が跳ね、耳を塞ぐ。それでも、不協和音は耳の奥で鳴り響いた。
『臆病者のお前が』
『役に立てているだなんて』
『よくそんな妄想を懐けたものね』
やめて、という声は喉の奥に詰まったまま、代わりに押し出された涙が頬を伝う。
『お前はそこにいるだけで迷惑だ』
『さっさと消えてちょうだい』
『お前はただの臆病者だ』
そんなことわかってる。そう呟いた瞬間、意識は混沌の闇の中に呑まれていった。
* * *
「……――。……リッカ」
揺さぶられて目を覚ます。ようやく呼吸を取り戻すと、月明かりの中にぼんやり浮かぶのはジルだった。
浅い呼吸を繰り返し、重い体を起き上がらせる。涙が雫となって手の甲に落ちた。
「随分と悪い夢を見たようだ」
「……わかりません……」
自分の声があまりに弱々しく、それがより涙を生んだ。
「どっちが夢で、どっちが現実なのか……。ここは、現実なんですか……?」
「いまお前の目に映るすべてが現実だ」
ジルの手が優しく肩に触れる。その感触すら、現実なのかわからない。
「俺がそばにいる。だからゆっくり眠れ」
「……でも……僕は……」
両手で顔を覆う。小さな嗚咽が漏れた。
「お前がどう思おうが関係ない。俺にはお前を守り抜く義務がある」
「……どうして……どうして、そんなに優しいんですか……? 僕は……」
「もういい」
ジルの手が優しく六花を枕に促す。その温かい手が頬に触れると、心地良さが心を慰めてくれるようだった。
「何も考えるな。とにかく眠れ」
頬から温かいものが血管を伝って全身に行き渡るような感覚に目を閉じる。真夜中の月明かりのもと、意識はまた悠然とした微睡に吸い込まれていった。
* * *
宿の食堂。エセルとロザナ、ルーラはいつもの席に着いていた。次の迷宮の情報はまだ来ておらず、朝のうちはのんびりできそうだ。
彼らの目下の課題は、六花の出自についてだ。六花には多くの謎がある。それを紐解いていくことが、六花をもとの世界に戻す方法を見つける手掛かりになるのではないだろうか。
ややあって、ジルが三人のもとに歩み寄って来る。あら、とルーラが首を傾げた。
「リッカは?」
「眠らせたから、まだしばらくは起きないだろうな」
腰を下ろしながら言うジルに、ルーラは眉をひそめる。
「何があったの?」
「リッカの消耗が激しい」
ジルの表情は硬い。六花と同室であるジルは、六花の異変を目にしたのだろう。その結果、魔法で六花を眠らせたのだ。
「精神的負荷や身体的疲労を魔法で回復できても、心まで回復できるとは限らない」
「そうだね」エセルは頷く。「その点において魔法は効力を持たないからね」
魔法が心にも効力を持つとすれば医者は必要なくなる。それはこの世界の共通認識だ。実際のところ、魔法で心を回復できる者は、この世界にはたったひとりしかいない。
「父や友人と引き離され」と、ルーラ。「戦う力も持たないのに、迷宮攻略に引き込まれている……。心労が溜まらないはずがないわ」
「妖霊殺しの言葉がとどめになった可能性があるね」
エセルの言葉に、ルーラとロザナは目を伏せる。妖霊殺しの言葉の真意を、彼らはまだ知ることができていない。
「けど、どうしたら……」ルーラが呟く。「リッカがもとの世界に戻るには、迷宮攻略に行くしかないわ」
「……聖女を頼れないだろうか」
確かめるようにエセルは呟く。三人の視線が集まると、小さく息をついた。
この世界にたったひとりしか存在しない少女、それが「聖女」だ。聖属性の魔法を持ち、神に近しい存在だとされている。世界の言葉を聞き、万物の病を癒す。心の傷を癒すことをできるのは、聖女の祈りのみだ。現在はこの国の王宮におり、許可を得なければ謁見は叶わない。王宮の許可も、特別な理由でなければ下りない狭き門だ。
「リッカの世界渡航は異例だ。申請だけでも試す価値はあるんじゃないかな」
「セヴィリアンに頼んでみたらどうだろう」ロザナが言う。「リッカの事情をよく知っているし、上手いことやってくれるかもしれない」
「それも手段のひとつだな」
聖女との謁見が叶えば、聖女の祈りで六花をもとの世界に戻すことも可能かもしれない。だが、聖女との謁見が許可されるのは一年に一度あれば良いほうだ。聖女はその聖なる魔法でこの国を守っている。その膨大な魔力を用いて、この国を戦争や病から守っている。今代の聖女が生まれたのがこの国で、その存在はすでに広く認識されている。聖女の力はどの国も欲するものだろうが、聖女を奪うための闘いすら聖女の力で防いでいる。聖女は自分の身を自分で守る力を保有しているのだ。
「会うまではいかないにしても、何か助言をもらえるかもしれない」
六花をもとの世界に戻すことができるならそれが最良だ。それができないとしても、何かしらの手段を進言してくれるかもしれない。申請する価値はあるだろう。
ルーラが食堂の入り口を振り向く。六花が彼らのもとへ駆け寄って来た。
「すみません、寝すぎてしまったみたいです」
「いいのよ。疲れているんだし、よく寝たほうがいいわ」
六花が席に着くと、朝食が始まる。ルーラは以前まで、誰かが寝坊すると「遅い!」と言って怒っていた。それでも全員が揃うまで待っている辺り、随分と律儀な少女である。そのルーラが六花に怒らないのは、六花に気遣ってのことだろう。厳しい迷宮攻略を生き抜く実力派であるが、その実、心優しい少女なのである。
「聖女、ですか……」
エセルの話を聞いた六花は小さく呟いた。詳細を問うことがないところを見るに、どういった存在なのかは知っているようだ。
「聖女は特別な力を持った人間よ」ルーラが言う。「よほどのことがないと会えない存在だけど」
「そもそも申請書を見てもらえるかどうか……」
ロザナが腕を組んで首を捻る。六花は少し不安そうな表情になった。
「妖霊殺しに遭遇するより可能性は低いんですか?」
「聖女はひとりしかいないんだ」エセルは言う。「それに対して、申請は何百通……ともすれば何千通になるだろうね」
「その中でも、謁見が許可されるのはほんの数人」と、ルーラ。「可能性としては限りなく低いわ」
「だから、セヴィリアンに申請書を作成してもらおうと思う。一般人の僕らが申請するより、魔法学研究所から申請したほうが通りやすいかもしれない」
「セヴィリアンに任せれば」と、ロザナ。「上手いことやってくれるかもしれないからね」
魔法学研究所は王立だ。申請書の封を切る前に捨てられるようなこともないだろう。王宮が申請書の大半を封したまま捨てているというのは有名な噂である。
「それまでは迷宮攻略……ですね」
六花の表情は、いつも以上に暗いように見えた。心労が溜まっているのは確かで、しばらく依頼が来ないことを祈るのはエセルだけではないだろう。迷宮が出現したとしても、フランクランよりランクの低いクランが請け負えるといい。フランクランが依頼を受ける迷宮は難易度が高い。それがなければ、六花もここまで疲弊せずに済んだかもしれない。
「リッカ、大丈夫? クォルツの治療は受けてるけど、疲れは溜まっているんじゃない?」
「うーん……正直、疲れてはいるけど……やっぱり僕は、父さんのことが心配」
六花はいつも、もとの世界で六花の帰りを待つ父親のことを案じている。きっとそれは父親も同じことだろう。六花を探し回っているに違いない。愛する子どもの行方が知れない苦しみは察するに余りある。
「僕以上に疲弊しているかもしれません」
「そうだね」エセルは静かに言う。「世界が変わると、時間の流れが変わる」
その事実は六花にとって残酷なことだが、知っておいておかなければならないことだ。
「リッカの世界では、すでに数ヶ月……ともすれば数年、経過している可能性もある」
六花の顔が青くなる。もし六花の世界で数年が経過しているのなら、父親は六花の生存を諦めることもあるかもしれない。それは六花にとっても、父親にとっても残酷なことである。
「もう一度でも電話が繋がれば……」
悔しそうにルーラが呟く。向こうの現状を確認するためには、電話が繋がることを期待するしかない。それ以外に、向こうの世界の状況を知る術はないのだ。
「それも迷宮攻略に行くしかないんだよね」
六花は薄く微笑む。その表情が、六花の心の負荷を顕著に表しているようだった。
「僕は大丈夫。みんながいてくれるから」
それは、六花が自分自身に言い聞かせるような声色で、四人の心に重い錘を提げるような言葉であった。
そのとき、エセルのそばで光が瞬く。報せ鳥だ。
「次の迷宮が出現したらしい。“月影の魔宮”だそうだ」
「それならよかった」ロザナが言う。「月影の魔宮だったら難易度は低い」
「でも、そうなると」と、ルーラ。「妖霊殺しが現れるかどうか……」
「現れるさ」
確信を持ったジルの言葉に、四人は顔を上げる。ジルの表情は冷静だった。
「リッカがいれば、きっとどこにでも現れる」
「……そうね。次にあったらとっ捕まえてやるわ」
拳を握り締めるルーラに、六花は小さく笑う。六花はまだ、希望を捨てきっていない。父親のもとへ戻る。それだけを考えているのだ。
「先に魔法学研究所に行こう。聖女への申請をセヴィリアンに依頼しよう」
いま、フランクランは六花のために在る。六花をもとの世界に送り届ける。そのためだけに迷宮へ赴く。きっとそれでいい。六花の心を守るために、彼らは闘わなければならないのだ。
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