第5章【2】
木の陰から向こう側を覗いたところで、ルーラが手振りで六花とジルの足を止めさせた。ルーラは進行方向を指差す。
「クマのベリーがいるわ」
六花がそちらを確認すると、人間の子どもほどの大きさのクマのぬいぐるみが歩いていた。雨の降る森の中におおよそそぐわない風采である。一見すると可愛らしいぬいぐるみだが、纏っている空気はやはり瘴気に満ちている。
「クマのベリーは走って逃げられるけど、走ると足音が立つかもしれないわ」
足元は瘴気の雨でぬかるんでいる。水溜まりもあり、走れば水飛沫が立つことだろう。
「ここは隠れてやり過ごしましょ」
そう言ってルーラが六花を振り向いた瞬間、彼らの足元がゆらゆらと揺らめいた。ジルとルーラが警戒する中、六花のそばにあの
「……ここ……どこ……?」
慌てて周囲を見回す。ジルとルーラの姿がない。
六花は何か温かいものを感じ、右手に視線を落とす。祖母が心を込めて結んでくれた糸が一本、切れていた。
(……これ……身代わりのお守りだった、ってこと……?)
六花の鼓膜を破らんと悲鳴を上げていた影はやはり妖霊の一種で、六花はその瘴気に触れたらしい。身代わりのお守りは、大抵の場合が別の場所に転移してダウンすることを防ぐ。祖母が編んでくれたこの糸は、そういった物だったのだ。
六花はハッと袖を見る。ぽつぽつと雨が染み始めていた。ルーラから大きく離れた場所に転移してしまい、結界魔法が切れようとしているのだ。このままでは全身がずぶ濡れになってしまう。六花は反射的に駆け出し、葉の傘を探す。幸い、近くにひとつ佇んでおり、六花は結界内に滑り込んだ。袖が多少、濡れただけで、体に触れる瘴気はそう多くない。
(こんなところでひとりきりになるなんて……)
身代わりのお守りはもろ刃の剣だ。ダウンを防ぐ効果は利点もあるが、どこに転移するかわからないという欠点がある。その結果、ジルとルーラから離れてしまった。その場でダウンすれば、ジルが回復薬で助けてくれただろう。身代わりのお守りは、時には厄介な物となることがある。
六花のそばで白い光が瞬いた。報せ鳥だ。報せ鳥はどこにいるかわからなくても届くらしいと安心しながら鳥に触れる。
『葉の傘に隠れてそこから一歩も動かないように』
それはジルからのメッセージで、六花はほっと安堵の息をつく。それから、スキル「透視」を発動させた。自分がどこにいるか確かめなければならない。頭の中の欠けたマップに表示された青い点は、四人とも六花から大きく離れている。かなり広いマップで、だいぶ遠くに飛ばされてしまったようだ。次に六花は「共鳴」で自分の位置を伝えた。それを辿って、きっとジルが迎えに来てくれるだろう。
(ジルが迎えに来てくれるまでの辛抱だ……)
その途端、ひとりきりになった不安が心の中に押し寄せてきた。これまで、迷宮内どころか街でもひとりきりになったことはない。この世界に来て初めて四人から引き離されてしまった。よりによって迷宮内で。その恐怖が、六花の正気度を削っていく。六花は瞬時にそれを把握し、左手にマールム晶石を握り締めた。
(せめて、僕からジルのところに近付けないかな……。いや、駄目だ。共鳴は連発できない。まったく別の方向に行ってしまうかも……)
周囲の濃い瘴気に晒されていることも相俟って、心臓が騒がしく跳ねている。それに合わせて呼吸も荒くなり、肺が痛くなった。マールム晶石はあっという間に濁っている。また新しい物を手に取り、なんとか自分を落ち着けようと深呼吸を繰り返す。それでも、苦しさが消えない。先ほど、少しだけだが袖が雨に濡れてしまった。その水滴に含まれる瘴気が、六花の身体を冒しているのだ。
正気度が削られていく焦燥感が六花を支配する。このままでは発狂してしまう。そうなれば、自分がどんな行動に出てしまうかわからない。それにより、妖霊に見つかってしまうかもしれない。ひとりきりになったいま、妖霊の瘴気に触れても助けてくれる者は近くにいない。なんとかここで耐えるしかない。しかし、マールム晶石はまたあっという間に濁ってしまった。
(……どうしよう……)
そのとき、激しい雨音に六花は息を呑む。不気味な笑い声を上げながら、視界に逆さ雨の傘が入り込んだ。葉の傘という結界の下にいるからと言って、六花は安心することができなかった。ここで叫べば音を観測されるかもしれない。口を手で覆うと、余計に呼吸が苦しくなる。心拍が激しく、涙が滲んだ。
(早く通り過ぎて……!)
しかし、六花のその願いは呆気なく砕け散った。六花の前に差し掛かった逆さ雨の傘が足を止めたのだ。雨の影の中に、白いふたつの点が浮かび上がっている。六花を捉えるそれは目だ。結界の中にいるはずの六花を、不気味な双眸が見つめている。
(……なんで……)
観測されているのかどうかはわからない。しかし、逆さ雨の傘は確実に六花のほうを向いていた。
『六花、そこにいたのね』
ノイズでざらついた声が言う。その途端、六花は心臓が止まる思いだった。
(……どうして……だって、ここは……観測されない……)
逆さ雨の傘が六花に向けて手を伸ばす。息を呑んだ六花が叫びそうになった瞬間、また目の前が真っ白になった。強く瞑った目を開くと、六花の周りに雪のような白い光がちらちらと舞っている。逆さ雨の傘は消えており、六花は葉の傘の下にいる。しかし、先ほどとは景色が変わっていた。
(また、転移した……?)
ぼんやりと周囲の光景を眺めながら、六花は苦しさが消え失せていることに気付く。あれほど精神的負荷がかかっていたというのに、正気度が平静を取り戻したようだった。雪のような光が温かく感じられるからかもしれない。
六花はまた「透視」で四人の位置を確認した。先ほどよりジルに近い場所に転移している。「共鳴」で自分の位置を伝達すると、六花はようやくひと息ついた。
(いまのは、新しいスキル……?)
ふと袖に目を遣ると、雨の跡が消えている。正気度の回復と同時に、精神的負荷をかける原因が取り除かれているようだ。いままでに体験したことのない不思議な現象に六花は首を傾げるが、それで助かったのは確かだ。透視で見た限り、幸い近くに妖霊はいない。マールム晶石を使えばジルが来るまで耐えられるだろう。
(……そういえば……あの日も、こんな土砂降りの雨の日だったな……)
遠い光景を思い浮かべながら、六花は小さく息をついた。あの日のことを思い出すなんて、随分と余裕を取り戻したようだ。
どれくらいの時間をそうして過ごしていただろう。いくつ目かのマールム晶石を地面に放ったとき、ぱしゃっと軽い水音が立った。また妖霊が近付いて来たのかと体を強張らせた六花は、駆け寄って来る者の顔を確認して息をついた。
「ジル……」
葉の傘に身を滑り込ませるのはジルだった。肩で息をしており、ここまで随分と走って来たようだ。
「リッカ、無事でよかった」
ジルの声を聞いた途端、六花は足の力が抜けた。へたり込みそうになった六花と、ジルが抱き留める。そこで六花は、足元に溜まった水にも瘴気が含まれていることを思い出し、足に力を込めた。ここでへたり込んで水に触れれば、一気に瘴気に冒されてしまう。これまで耐えて来た時間が水の泡だ。なんとか体勢を持ち直す六花を、ジルは安堵したように強く抱き締めた。
「よく耐えたな。生きた心地がしなかった」
「はい……」
「ここまで自分で来たのか?」
「それが、僕にもよくわからないんです。もしかしたら、新しいスキルが身に付いたのかもしれません」
「そうか」
攻略を完了させたら、またセヴィリアンに能力の鑑定をしてもらわなければならない。新しいスキルが転移に加えて正気度も回復するなら、把握しておくべきスキルだ。
「それと、葉の傘の下にいたのに、逆さ雨の傘に観測されました」
六花の言葉に、ジルは怪訝に眉をひそめる。
「迷宮内に何かしらの変化があったらしいな。早々に攻略したほうがいいようだ」
ジルの温かい手が六花の頬をそっと優しく撫でた。六花の心拍が再び跳ねる中、ジルの表情は冷静だ。その指先に合わせて、体が温かいものに包まれる。ジルの結界魔法が六花を覆ったのだ。
「俺の結界はルーラほどの効力を持たない。小まめにマールム晶石を使ってくれ」
「わかりました」
ジルがそばにいることが、これほどまでに安心することなのだと、六花は改めて実感していた。あれほど膨れ上がっていた不安と恐怖が、一気に力を失っていくのがわかる。正気度はすっかり回復していた。
「エセルたちがそれぞれひとつずつ柱を破壊している。この近くにもひとつあるようだ」
雨林のマップは、六花が想像していたよりはるかに広かった。それでも確実に柱を破壊している彼らは、やはり迷宮専門クランの最高峰という称号に相応しい実力を持っているようだ。
「行けるか」
「はい」
六花の足の震えが治まる。この自信を湛えた表情が、六花に安心感をもたらしてくれる。ジルがそばにいれば大丈夫。六花はそう確信していた。
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