第5章【1】

 六花とフランクランが食堂で朝食を取っていると、エセルのもとに音もなく報せ鳥が出現した。六花が迷宮の外で見るのは初めてだが、伝達魔法ということはいつでも用途があるのだろう。

 報せ鳥を解くと、エセルは難しい表情になった。

「……ブラントからだ。伝えたいことがあるから冒険者ギルドに寄ってくれ、だそうだ」

「ってことは」ルーラが言う。「魔物の巣かもしれないわね」

「魔物の巣?」

 首を傾げた六花に頷いたルーラは、やはり険しい表情をしている。

「迷宮の気配に引き寄せられた魔物が、人里の近くで巣を作るの。最近は迷宮の出現が異様に多いから、どこかにできるかもしれないとは思ってたわ」

「迷宮専門クランでも魔物の討伐に行くことがあるの?」

「もちろん。冒険者なんだから」

「妖霊と違って」と、ロザナ。「魔物は倒せるから楽なものだよ」

「へえ……」

 迷宮内に出現する「妖霊」は、迷宮を消滅させることでしか倒すことができない。対して迷宮外に出現する「魔物」は、彼らの武器が本来の力を発揮するのだろう。瘴気が一切ないため迷宮に比べたら確かに楽なのかもしれない、と六花は考えていた。迷宮と違って自由に立ち回ることができる。慎重になる必要もないだろう。

「今日は忙しくなるかもしれないね」

 エセルがそう言って肩をすくめるが、四人に気負った様子は見られない。おそらく「雨林」を攻略してから討伐に向かうのだろう。それも、彼らには余裕のことのようだ。

 そういえば、と六花は考える。迷宮攻略には同行できるが、彼らが魔物の討伐に向かった際、自分はどこで何をしていればいいのだろうか。六花に魔物を討伐する能力はない。討伐に同行したとしても、なんの役に立つこともできないだろう。信用できる者のもとに預けられるのかもしれない。フランクランが信用して預けられると言えば、ブラントかセヴィリアン、もしくはクォルツ老医師だろう。誰かがそばにいてくれるなら六花も安心できる。この街でひとりきりになるのはまだ不安だ。自分に何が起きるかわからない。誰か信用できる者のもとに預けてもらえるといいのだが。

 朝食を終えると、迷宮攻略に向かう支度をしてから五人は冒険者ギルドを訪れた。ギルド内がどこかざわついている。魔物の巣が出現したことをすでに知っている様子だ。

 エセルは奥側のカウンターでブラントに声をかける。ブラントは眠そうな顔をしている。魔物の巣が出現したことで忙しくなることもあったのかもしれない。

「おはよう、来てくれたか。今日の明け方、街の南でポケットラットが群れを作っているのが発見された。近くに魔物の巣があるはずだ」

 ポケットラットの群れ、と六花が首を傾げていると、ロザナが六花を見遣った。

「ポケットラットは最下位御三家と呼ばれる魔物のひとつでね。その中でも最も弱い。自分たちより強い魔物の気配に怯えて群れを作っているんだ」

「なるほど……」

 自然界が弱肉強食であることはどこでも変わらないらしい。ポケットラットはその名の通り、小さなネズミだろう。どれくらい腹の足しになるかはわからないが、自然界ではきっと狩られる側だ。最下位御三家と呼ばれる魔物の中で最も弱いなら、どの魔物でもポケットラットより強いのだろう。そうであれば、怯えて群れを作るのも納得である。

「他の冒険者が確認しに行ったが、まだ巣の発見情報はない」ブラントが言う。「そうすぐ出て来るものでもないだろ」

「わかった」エセルが頷く。「まずは雨林の攻略に行こう。攻略が完了し次第、応援に向かう」

「ああ。まずは無事に戻って来てくれよな」

 ブラントは五人分の長靴を用意していた。瘴気を含む雨が降っているなら、足元に溜まる水にも瘴気が残っているはずだ。普通の靴では水が染みてしまう。そのため水が染みない長靴が必要になるのだろう。


 ルーラの転移魔法で飛んだ先には、ただ扉がぽつんと佇んでいた。これまで瘴気に覆われた迷宮が彼らを出迎えていたが、何もない場所にただ扉があるだけだ。だが、扉の隙間から瘴気が漏れ出ているのがよくわかる。見えているのが扉だけだとしても、迷宮には違いないようだ。

 ルーラは自分と他の四人に結界魔法をかけた。六花の体感では、特に何も変わっていない。戦いの邪魔にならないよう設計された魔法なのだろう。

「リッカはいまのうちにフードを被っておくといいよ」

「はい」

 エセルの指示で六花は頭をフードで覆う。これで安心とは言えないが、ルーラの結界と合わせて六花を守ってくれることだろう。

 ロザナが扉を開くと、その先は暗い森になっていた。外から見たときには森は存在しなかった。特殊な空間に存在する迷宮らしい。六花がきょろきょろと辺りを見回していると、ルーラがくすりと小さく笑った。

「不思議な光景よね。迷宮の特殊な存在環境が見せる風景なんだわ」

「迷宮内が森になっているんだね」

「ええ。でも内部構造は他の迷宮と変わらないわ」

 瘴気さえなければ美しい光景なのだろう、と六花は考える。ただ、どこを見ても暗いため、景色を楽しめるような場所ではない。

「雨には瘴気が含まれている」エセルが言う。「少しでも触れれば身体が瘴気に冒されるから、注意するように」

「はい」

「結界があれば雨に濡れることはないけど、雨のせいで瘴気の空中濃度も高くなっている。リッカは小まめにマールム晶石を使うんだよ」

「わかりました」

「それと、走ると水飛沫が立って足音が大きくなるようにできている。リッカの“忍び足”の効果があるかどうか……」

「極力、走らないでいきましょ」と、ルーラ。「雨林は精神的負荷が溜まるのも早いし」

「そうだね」ロザナが頷く。「リッカが妖霊に見つかることは避けたい。慎重にいきましょ」

 走ることで水音が立つことで妖霊に観測されやすくなるようにできている迷宮なのだろう。これだけ足元がぬかるんでいれば、歩いただけでも足音が立つかもしれない。慎重になるに越したことはないだろう。

 エセルとロザナはそれぞれ別方向に分かれていく。あまりルーラから離れてしまうと、結界魔法が切れてしまうらしい。探査魔法を持っているふたりなら、ルーラの位置を把握して離れすぎることはないはずだ。ジルもそうであるはずだが、万が一という可能性もある。ルーラが六花のそばから離れないのは賢明な判断だろう。

「雨林は時間をかけられないが」ジルが言う。「妖霊に見つかったのでは元も子もない」

「リッカの安全を最優先でいきましょ」

 ルーラに頷きかけた六花は、ふと顔を上げた。ちょうどジルと目が合ってしまい、サッと視線を逸らす。ジルが小さく笑うので、妙に意識してしまっていることには気付かれているようだ。ルーラがそれを見抜いているかどうかはわからないが、少しだけ顔が熱くなっていることに気付かなければいいのだが、と六花は考えていた。

 ルーラが先頭に立って歩き出す。真ん中に六花、その後ろにジルが続いた。

「柱を破壊したとき」六花は思い立って言う。「僕たちは“隠れ身”があるからいいけど、エセルさんとロザナさんは大丈夫なんですか?」

「心配は要らない。ロザナには“俊足”があるし、エセルも逃走用のスキルを持っている」

「寡黙な幽霊が厄介ではあるけど、あのふたりならやられるようなことはないはずよ」

「人のことより自分の心配をしろ」

「はい……」

 木々のあいだを抜けて行く中、六花は体を覆う結界が雨を弾いている感覚があった。服が濡れることは一切なく、傘のように音が立つこともない。もし結界が切れてしまったら、と心配しているが、ルーラの能力値ならそんな危険に晒されることもないのだろう。

 小さな笑い声が不気味に響いてきた。六花がルーラに倣って木の陰から前方と覗くと、傘を差した黒い人形の影がゆっくりと歩いている。傘の内側に激しい雨が降っており、辺りに水飛沫を撒き散らしている。

「あれが『逆さ雨の傘』よ。傘の中に振る雨のおかげで目も耳も悪いけど、見ての通り、近付けば瘴気の水に触れることになるわ」

「結界は効かないの?」

「あの水飛沫は攻撃に分類されるの。あたしの結界は、自然に降る雨を防ぐだけの魔法よ。攻撃を防ぐ効果はないわ」

「そう……」

 それなら攻撃を防ぐ結界も張ればいいのでは、と六花は考えたが、ルーラがそうしないということは、迷宮内ではその魔法は充分な効果を発揮しないのだろう。もしくは、結界魔法の二重掛けはできないのかもしれない。魔法のことをまったく知らない六花には、なんとなく推測することしかできなかった。

「ちょうどいい。葉の傘がある」

 ジルが指差した先に、木の根元から生えた茎の先に垂れる大きな葉があった。葉の傘は隠れ場所だが、本当に傘になっているだけで、外からでは丸見えになってしまいそうだ。

 いままでの迷宮で隠れ場所として使用していたクロゼットやロッカーと違い、葉の傘は三人が入っても余裕があるほどに広い。壁がないためだろう。

「ここに入れば、妖霊の視線を切ることができる」

「でも、丸見えじゃないですか?」

「ここは結界に囲まれているようなものだ。外側から俺たちが観測されることはない」

 六花から葉の傘の外側はよく見えている。しかし、妖霊という特殊な存在の特性上、結界の中は見えないのだろう。

 逆さ雨の傘が離れて行くのを観察していると、六花のブレザーのポケットでスマートフォンが震えた。突然のことで驚く六花を、ジルとルーラは不思議そうに振り返る。取り出したスマートフォンは着信画面になっており、発信には「熊野くまの塔理とうり」と表示されていた。

「塔理……! 友人と電話が繋がっているみたいです」

「出てみろ」

 ジルに促され、六花は震える指で「応答」をタップする。これまでほとんど反応しなかったのが嘘のように、スムーズに電話が繋がっていた。

「もしもし……」

『六花か⁉ いまどこにいるんだ?』

 その声を最後に聞いたのが、随分と昔のように感じられる。その声は間違いなく幼馴染みの塔理だ。受話器の向こうに塔理がいることを想像すると、六花は途端に涙が溢れてきた。

「……塔理……」

『どうしてそんなに泣いているんだ。いまどこにいるんだ? すぐ迎えに行く』

 涙をブレザーの袖で拭いながら、六花は答えに詰まった。塔理になんと説明したらいいのだろう。そう考えつつ、ふとジルを見上げた。

「どうした」

「えっと……」

『誰か近くにいるのか?』

 塔理の問いに、六花はまた言葉が出てこなくなる。ここがどこなのか、一緒にいるのが誰なのか。それを上手く説明できるような気がしなかった。

「えっと……迎えに来てもらうことはできない、かな……」

 そもそも、ここがもとの世界とどう繋がっているのかがわからない。迎えに来ると言われても、何をどうすれば帰れるのかは六花にもわからない。

『どういうことだ? どこにいるかだけでも教えろ』

「……えっと……塔理から、とても遠いところ」

『何を言って――』

 塔理の声が雑音混じりになり、荒々しいノイズが耳を突き刺した。六花が顔をしかめているうちに電話が切れたようで、耳に届くのは無機質な機械音だけになる。しかし、塔理に繋がったのは確かだ。ほんの少しでも塔理の声が聞こえた安心感で、六花はまた涙が止まらなくなる。

「リッカ、大丈夫?」

 ルーラがハンカチを差し出す。六花は礼を言って受け取りつつ頷いた。

「塔理の声を聞いたら安心してしまって……」

「安心する人の声が聞けただけでもよかったわ。これで繋がることはわかったわね」

「あとは、もとの世界に対してこの世界がどこに存在しているか、だな」

 この世界は、確かにもとの世界と繋がっている。それが確認できただけでも、大きな収穫だった。

「行けるか」

「……はい」

 ジルが励ますように六花の肩を叩く。安心したからと言って、ここでいつまでも足を止めているわけにはいかない。彼らは迷宮におり、攻略を完了させなければならないのだ。

(……そうだ……ジルは、少しだけ塔理に似てるんだ)

 ふと、そんなことを考えた。自分がジルに安心感を懐いている理由に気付いた気分だった。

(僕は、塔理のことが……)

 いまは迷宮攻略のことだけを考えなければならない。そう思っても、心は向こうの世界の光景を思い浮かべている。

「リッカ、どうかしたか」

「いえ……なんでもないです」

 この気持ちに気付かれてはいけない。気付かれた瞬間、すべてが崩壊してしまうような、そんな気がした。




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