第5章【3】

 紫色に怪しく光る柱のもとに辿り着くと、漏れ出す瘴気は心をざわつかせるはずなのに、なぜか少しだけ安堵していた。この部屋に妖霊は入って来ない。ようやくひと息つけたような気分だった。

「近くにクマのベリーがいるな」ジルが言う。「だが、クマのベリーは走って撒ける。“隠れ身”は必要ないな」

「寡黙な幽霊と遭遇し次第でいいですか?」

「ああ。柱を破壊したら、魔宮石の間のほうへ走って行く。おそらく“隠れ身”は途中で切れるだろうな」

「葉の傘の位置は探査魔法じゃわからないんですよね」

「そうだな」

 隠れ場所の位置を把握できないため、スキルが切れたあとも走らなければならない。体力増強剤の効果も途中で切れるかもしれない。連続で使用したことはないが、ホラーゲームのエナジードリンクと同じ効力があるなら、走りながら飲むことで体力の上昇を維持することができるだろう。もし葉の傘まで距離があるなら、体力増強剤を連続で飲む必要が出てくるかもしれない。

 六花は少々不安になりつつ、体力増強剤を飲む。心配だろうがなんだろうが、柱を破壊したら走るしかない。それでも、ジルがそばにいれば大丈夫という確信が揺らぐことはなかった。

 ジルの銃弾が柱を粉々に砕く。鋭い破砕音と散る欠片に背を向け、六花は柱の間を飛び出した。そのあとにジルが続くと、クマのベリーの足音がした。子どもの悲鳴のような声を上げつつ追いかけて来るクマのベリーは足が遅く、六花とジルが全力で走っていれば差はどんどんと開いていく。充分に離れれば追跡は切れるはずだ。

「眠れる氷の魔女がいる」ジルが言う。「“隠れ身”を発動しろ」

 六花が走りながらスキルを発動すると、雨のけぶる景色の中に異様に鮮やかな黄色が見えた。六花は走り抜けながら光の中を見遣る。肌色の悪い女が目を瞑って佇んでいた。「隠れ身」がなければ足音を観測され、氷の魔女は目を覚ます。足音を殺すために速度を落とせばクマのベリーに追いつかれる。寡黙な幽霊と遭遇するまで温存したかったのは確かだが、身の安全には代えられない。慎重になるに越したことはないだろう。

 ジルが六花の手を引く。その途端、六花は速力が上がるのを感じた。自分の能力以上の速度で走っても足がもつれることがないのは、おそらく何かジルのスキルがあるのかもしれない。

 この手に導かれていれば怖いものなど何もない。心を占めていた不安が嘘だったかのような気分だ。ジルがそばにいればもう大丈夫。そんな安心感が六花を包んでいた。

 寡黙な幽霊の背中が前方に見える。その脇を擦り抜けるあいだ、六花は心拍が跳ね上がった。「隠れ身」があれば観測されることはないが、やはり妖霊が近くにいるといまだ怯んでしまう。

 しかし、寡黙な幽霊と充分な距離を取れたと安堵した瞬間、甲高い耳障りな不快音が鼓膜を突き刺した。寡黙な幽霊が踵を返してふたりに狙いを定める。「隠れ身」の効果が切れ、あと少しというところで観測されてしまったのだ。

「葉の傘まで走る。もう少し耐えろ」

「はい……!」

 ジルに手を引かれながら、六花はまた体力増強剤を飲む。上がりかけていた息が落ち着き、まだ走ることができそうだ。

『……六花……』

 背後から声がする。ふたりの後方にいるのは寡黙な幽霊だけだ。

『……六花……あなたは逃げられない……この世界から……』

 その声に心がざわつく。六花の気が引かれそうになると、ジルが手に力を込めた。

「惑わされるな」

 ジルの力強い声が六花の意識を戻す。いまこの目に映るジルの背中だけを信じていればそれでいい。それはわかっているのだが、どうしても心が揺さぶられる。精神的負荷がかかっていることは確かだった。

 ようやく葉の傘が見えた。六花の二本目の体力増強剤の効果も切れようとしていたところで、ジルに手を引かれて葉の傘の下に入ると、思い出したように呼吸が荒くなった。ジルが六花を落ち着けるように肩を抱く。そうしているあいだにも、喉を引き攣らせたような音が近付いて来ていた。だが、葉の傘の下に入っていれば観測されることはない。そのはずなのに、滑るように追って来た寡黙な幽霊が、ふたりの目の前で足を止めた。

『……六花……やっと私のもとへ帰って来てくれたのね……嬉しいわ……』

 その途端、どっと心臓が跳ねた。ジルの温かい手によって落ち着きを取り戻そうとしていた呼吸がまた浅くなる。息をするたびに苦しくなる。

「……そんな……どうして……」

 譫言うわごとのように呟いたとき、ジルが六花の頬に手を添えた。掬うように視線を合わせたジルが、有無を言わさず唇を重ねる。呆気に取られる六花の目を覗き込むジルは真剣な表情だ。

「いまは俺だけを見ていろ」

 あっという間に六花の顔が熱くなる。視線を合わせていられなくなり、六花はジルの肩に顔をうずめた。先ほどまでとは違う意味で心拍が跳ね上がる。あのノイズ混じりの不快な声が、まるで何かに遮られたように遠くなった。そんなことを気にしている場合ではない。そうしているうちに、寡黙な幽霊の気配は離れて行った。

「リッカの存在が、迷宮自体に観測されているようだな。何か根源があるのかもしれない」

 ジルがあまりに冷静で、六花は自分ばかりドキドキして不公平だ、などと考えていた。やはりジルは慣れているのだと思い知る。それでも、六花の意識を戻すためには効果的であることも確かだった。

 そこへ報せ鳥が届く。その光で六花がようやく気を取り直すと、ジルが鳥に触れた。

「エセルが最後の柱を破壊したらしい。俺たちも魔宮石の間に向かうぞ」

「はい……」

「魔宮石の間はここから近いな。魔宮石の間のひとつめの扉の内側に入ってしまえば妖霊の追跡を切れる。できるだけ“隠れ身”を使わずに走るぞ」

「使ったほうが確実じゃないですか?」

「お前はルーラの結界が切れたことで瘴気を浴びている。スキルの連発は危険だ」

 一度目の転移で、六花はルーラの結界が切れた状態で葉の傘を探すことになった。多少なりとも雨を浴びている。精神的負荷は確実に溜まっているだろう。ジルが危険だと判断するなら、六花に異論はない。

「その代わりに俺のスキルを使う。逃走用の“疾走”というスキルだ」

「ロザナさんの“俊足”と同じようなものですか?」

「ああ。ロザナの“俊足”のような条件付きのスキルではないが、その分、効果を発揮する時間が短い。だが、魔宮石の間に辿り着ければ充分だ」

 ロザナのスキル「俊足」は、妖霊に観測された瞬間に速力が上がるものだ。おそらくジルの「疾走」はいつでも発動できるが、その分だけ効果が弱いのだろう。

 ジルがまた六花の手を取る。先ほどの出来事を思い出し、六花は少しだけ頬が熱くなった。

「絶対に俺の手を離すな。効果が切れる」

「はい」

 ジルは六花の手を強く握り締める。その温かさが、六花に勇気を与えるようだった。

 さすがに三本目は辛い、と思いつつ六花は体力増強剤をあおる。エナジードリンクのような物であるなら体に悪いが、これだけ何度も飲むことがこの先もあると考えると、体に負担がかからないよう計算された薬なのだろう。

「行くぞ」

「はい……!」

 六花の手を引いて、ジルは葉の傘の下から駆け出した。三歩目を踏み込んだところで、六花は急激に速力が上がるのを感じる。ジルのスキルが発動したのだ。

 水が跳ねる音がする。視線を横に向けると、クマのベリーがふたりを観測していた。しかしスキルにより速力を上げているふたりにクマのベリーが追いつけるはずもなく、あっという間に差が開いていった。

 ジルがいればどんな迷宮でも大丈夫。その確信が揺らぐことはないだろう。

(そうだ……僕は、ジルが……。……違う。僕は、ジルに塔理を重ねているだけだ。だって、僕は……)

 その事実に気付いてはならなかった。気付かないようにしていた。そうやって誤魔化しているだけだった。目を背けているだけ。だから、誰にも気付かれてはならない。この胸の内にしまっておかなければならない。誰にも触れられないように。いつか振り切るときが来るまで。

 六花の息が上がり始めた頃、森の中に両開きの扉だけが佇んでいるのが見えた。ジルは迷いなくドアノブに手をかける。扉だけが存在していたはずなのに、扉の中は建物内になっていた。そこに、ロザナとルーラの姿があった。

「来たね。無事でよかった」

「大変な目に遭ったわね。ジルが見つけられてよかったわ」

「詳しいことはここから出てから確認しよう」

「はい」

 あとはここにエセルが揃えば魔宮石を破壊して攻略完了だ。ようやく晴れた空のもとで息を吸える。それでも六花は、まだ気を抜くまいと堪えていた。ここで気を抜けば、体の力が失われてしまう。この場から動けなくなることだけは回避しなければならない。

 しかし、いくら待てどエセルはなかなか戻って来なかった。すでに数分が経っている。報せ鳥では最後の柱を破壊したと伝達して来た。もう魔宮石の間に到着してもおかしくない頃だ。

「どうしたのかしら」と、ルーラ。「どこかで倒れているのかしら」

「リッカ、“透視”で見てみて」

「はい」

 発動スキル「透視」により、六花の頭の中に欠けたマップが思い浮かぶ。エセルを示す青い点はさほど遠くない場所にあるが、そのすぐ近くに赤い点があった。どこかに身を隠しているエセルのそばに、妖霊が張り付いてしまっているのだ。

 六花と感覚共有でエセルの居場所を見たルーラが、眉間にしわを寄せた。

「寡黙な幽霊が離れないのかもしれないわ」

「そんなことがあるの?」

「妖霊の動きは完全ランダムだからね」と、ロザナ。「近くをうろうろしてたんじゃ、迂闊うかつに出ることはできないよ」

 おそらくエセルは葉の傘の下にいる。寡黙な幽霊の追跡は切れているはずだが、寡黙な幽霊がランダムという特性のため近くを行ったり来たりしているのかもしれない。

 あることを考えていた六花は、何度も迷ったあと、意を決して顔を上げた。

「……僕が迎えに行って来ます」

 その提案はなけなしの勇気に全力を注ぐようなことだった。それが自分に可能なのかどうかも確信がないし、それを完遂できるか自信があるわけでもない。それでも、その提案が必要なものだと六花はよく理解していた。

「寡黙な幽霊は、葉の傘の下に入れば追跡を切れるんですよね」

「ああ、そうだな」

「ジルの“疾走”を使ってエセルさんのところまで行ければ、僕の“隠れ身”でエセルさんを連れて来ることができますよね」

 六花は自信を持てないまま言うが、ジルは冷静な表情で頷いた。

「危険を伴うことではあるが、それができるのはリッカだけだろうな」

「それなら、あたしも行くよ」ロザナが言う。「走っていれば、道中で妖霊に観測されるはずだ。ジルの“疾走”だけじゃ、エセルのもとまではきっとギリギリだ。あたしの“俊足”もあれば確実だろう?」

 彼らは、六花にはそれが可能であると確信している。それだけ六花と六花のスキルを信用しているのだ。彼らが可能だと判断したのなら、きっと六花はやり遂げることができるのだろう。

「まずはあたしの“俊足”で走ろう。ジルの“疾走”はそのあとだ」

「はい。ルーラはここにいてくれる?」

「ええ。あたしの結界が切れたら元も子もないものね」

 無事にエセルと合流できたとしても、ルーラの結界が切れては意味がない。ルーラは安全な場所で待機することが確実だろう。

「いまこの近辺に妖霊はいない。行くならいまだ」

 扉に手をかけるロザナに、六花は深く頷いた。緊張で心拍が激しく跳ねる。それでも、彼らは六花を信じている。彼らが信じられるなら、六花は初めて自分のことが信じられる気がした。



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