第4章【2】

 獣の絵画を躱して柱のもとまで到達すると、ジルは周辺に感知魔法を巡らせた。六花もちょうど充填の済んだ「透視」で辺りの妖霊と仲間の位置を確認する。近くに獣の絵画がいたとしても、どちらにせよ柱を破壊する音で妖霊は集まって来る。獣の絵画の反対側には、腐乱体と疾呼の寡婦がいるようだった。

「腐乱体と寡婦は走って突破できるな」ジルが言う。「首無し剣士が接近したら“隠れ身”を使うか。まずは反対側に走る」

「はい」

 六花は体力増強剤を取り出す。味には相変わらず顔をしかめてしまうが、素の体力で腐乱体と疾呼の寡婦を突破できるほどの距離は走れない。六花は体育の授業が苦手だ。もとの世界にも体力増強剤があれば苦労せずに済んだだろうが、体力増強剤があるなら体育の授業は必要ない。体育の授業と体力増強剤は相反する物のようだ、とそんなことを考えていた。

 ジルの銃弾が柱を貫く。その破砕音は、先ほどの寡婦の叫び声に比べればだいぶ静かなように感じられた。

「行くぞ」

 ジルの声に促され、六花は柱の間を出る。獣の絵画の反対側に向かって駆け出すと、さっそく腐乱体が角から飛び出して来た。想像以上の腐乱具合グロさに思わず怯んでしまったが、足が止まりそうになった六花の手をジルが引く。それによりなんとか気を取り直した瞬間、六花の耳に微かに“あの音”が触れた。ドッと心臓が跳ね、足がもつれる。六花の膝が床に着くより一瞬だけ早く、ジルが六花の体を肩に抱き上げた。あまりに軽々と持ち上げられたことに六花が目を丸くしているうちに、ジルは一気に加速する。それでも寡婦の叫びが耳に残り、六花はマールム晶石を握り締めた。幸い首無し剣士に観測されることはなく、寡婦の悲鳴が遠くなったところでジルはドアの隙間に滑り込む。疾呼の寡婦からは充分に距離を取ったはずだが、六花は精神的負荷が上がっていくのを感じた。新しいマールム晶石を手に取る六花の肩に、ジルが優しく手を添える。

「リッカは寡婦と相性が悪いようだな」

「すみません……」

「いや。相性の悪さはどうしようもないからな」

 とにかく心拍を落ち着けなければと六花が深呼吸を繰り返していたとき、キン、と耳障りな高音が鼓膜を震わせた。何か不吉な予感が六花の心を揺さぶる。

「首無し剣士に観測されたな」

「じゃあ“隠れ身”を……」

「いや、精神的負荷がかかっているいま、スキルを使うのは危険だ。とにかくここから離れるぞ」

 ジルに背中を押され、六花は部屋を出る。新しいマールム晶石を手に取りつつ、先ほどと同じ方向に向かって駆け出した。戻ればおそらく寡婦がいる。いったんこちらを見失った寡婦は、首無し剣士の通達によりこちらに近付いて来ているだろう。

 あの不快な叫び声が再び六花の足をもつれさせようとしたとき、廊下の隅にぽつんと佇むロッカーが見えた。しかし、やはりひとつしかない。

「あのロッカーに入れ」

「ジルは……」

「適当に撒く。あとで必ず迎えに来てやる」

「……はい」

 ジルの力強い言葉に頷いて、六花は素早くロッカーに身を潜めた。ジルなら大丈夫。そう確信している。自分にそう言い聞かせているうちに、あの耳障りな叫びがロッカーの前に差し掛かった。しかし、ロッカーの中の六花には気付かず、ジルが向かったほうに駆けて行く。六花は精神的負荷がかかることを覚悟していたが、息が苦しくなることはない。ロッカーが寡婦の効果を遮断しているようだった。

(ジルならきっと、無傷で僕を迎えに来てくれる……)

 そう考えていると、突如として先ほどのジルの行動が頭に浮かぶ。途端に、精神的負荷とは違う胸の高鳴りが六花の心拍を上げた。また新しいマールム晶石を握り締めても、心臓のうるささが収まらない。

(どうしてこんなにドキドキするんだろう……)

 おかげで精神的負荷はかからずに済んでいるが、あれはあれで心臓に悪い。

 気持ちを切り替えるために「透視」を発動する。ジルはこちらに戻って来ているようだった。

(もう出ても大丈夫かな……。いや、駄目だ。もし首無し剣士に観測されたら“隠れ身”を使わないといけなくなる。ジルから離れてしまうかもしれない。そうなったら、僕は自分ではどうにもできなくなる)

 臆病でさえなければ、無鉄砲な行動を取っていたかもしれない。精神的負荷耐性を持っていない六花は、おそらく途中で動けなくなることだろう。そんな状態で妖霊に観測されれば、もうどうしようもなくなる。そんな危険を冒すほどの度胸は、六花にはなかった。

 静寂で耳が痛くなってきた頃、こちらに近付く足音があった。妖霊は隠れ場所にいる者を観測することはない。

「リッカ。もう出て来ていいぞ」

 優しい声にひとつ息をつく。やはりこの声を聞くと安堵を覚えた。

 ロッカーから出た六花に、ジルは薄く微笑む。

「透視で俺たちの位置を見て勝手に抜け出しているかと思っていたよ」

「それも考えましたが、臆病な僕にひとりで逃げ切るほどの根性はないですよ」

「良い判断だ。己の弱さを自覚しているのは良いことだ」

 六花は、自分があらゆる面で弱いことを知っている。自分の強さを見誤れば、無鉄砲な行動の末に迷惑をかけていたことだろう。それを自覚することができているのは、もとの世界での数々の出来事の結果だ。そう考えると、すべてのことが無駄であるとは言えないような気がしていた。

「エセルとロザナがひとつずつ柱を破壊して、ルーラも柱の近くにいるようだ」

「じゃあ、残りはひとつですね」

「ああ。三人ももうひとつの柱の位置は把握しているはずだ」

「じゃあ、僕の“共鳴”で居場所を報せて、最も近い人が破壊に向かったほうがいいですよね」

「そうだな。そうすれば、近くにいる誰かがサポートに向かえる」

「はい。やってみます」

 六花は「共鳴」を発動し、他の三人の居場所を探る。それぞれがどの位置にいるかがわかれば、サポートを待つこともできる。そういった意思疎通は、共鳴があれば充分に可能だろう。

「最も近くにいるのはエセルのようだな」

「はい。幸い、そう遠くないですね、サポートに行きましょう」

 六花は、迷宮攻略で自分に変化が訪れていることは自覚していた。いつも守られていることしかできなかった自分が、誰かの助けに向かえる。それだけで、大きな進歩だった。

「度胸がついてきたか」

 報せ鳥を出しつつジルが言う。うーん、と六花は首を捻る。

「それはどうでしょう。きっと、ジルがそばにいなければできないですよ」

「そうか。俺のいないところでは行動しないようにしろ」

「はい」

 もとよりそんな度胸はない。これだけのスキルを持った上で度胸があれば、きっとすでにひとりで行動していたことだろう。

「獣の絵画の近くに腐乱体がいる」

「できれば“隠れ身”は温存したいですよね」

「そうだな。となれば魔笛まてきだ」

 六花は魔具鞄マジックパックから重厚感のある銃を取り出す。音で妖霊の気を逸らすための魔道具で、いまのところ使ったことはない。

「獣の絵画は魔笛の音には反応しない。腐乱体の気を逸らすことができる。だが、魔笛の音を感知しそうな場所に寡婦がいる。寡婦はこちらに来るかもしれない」

「僕が寡婦の精神的負荷に耐えられれば……」

「できるか」

「……やってみます」

 依然として自信はないが、とにかくやってみないことには始まらない。ここで立ち止まっているわけにはいかないのだ。

 ジルに促されて部屋を出る。廊下を奥に向かって行くと、そこは開けた場所だった。廊下の角から、腐乱体の不気味な唸り声とひたひたと歩く音がする。

「五十メートルほど先に部屋がある」と、ジル。「獣の絵画を突破したらそこに入る」

「はい」

 ジルに背中を押され、六花は駆け出した。廊下の角から向こう側に魔笛を撃つ。確かに発砲音は鳴らず、発砲の手応えだけがあった。壁に弾着すると、鈴のような音が響いた。腐乱体の足音がそちらに向かって行く。六花の「忍び足」で彼らの足音は立たないはずで、魔笛の音で物音も感知されないはずだ。

 怪しく紫色に光る獣の絵画の前を、腰を屈めて突破する。獣の絵画がふたりを観測すれば、音に気を取られている腐乱体がこちらに気付くだろう。慎重に獣の絵画の前を突破し、六花はまた駆け出した。ジルがいなければ、きっと物音が魔笛の音に掻き消されていようと身動きが取れなかったかもしれない。そばにいることで安心して行動することができるのは、これまでに誰もいなかった。

 そこへ、あの不快な高音が近付いていた。魔笛の音に反応したのだ。それでも六花は足を止めなかった。マールム晶石を手に、ジルの指定した部屋に滑り込む。ジルが音を立てずにドアを閉めると、六花は途端に息が苦しくなった。寡婦の声に過敏に反応するため、マールム晶石が濁るのが早い。新しい物を握り締め、呼吸を落ち着けようと深く息を吸う。落ち着きを取り戻そうとする六花の肩に、ジルが優しく手を添えた。たったそれだけのことで、胸中に安堵が広がる。その温かい手は、マールム晶石以上の効果があるようだった。

 寡婦の声は遠ざかって行く。おそらく、魔笛が鳴った場所の確認に向かったのだろう。辺りに静寂が広がることで、六花もようやくひと息つくことができた。

「よく耐えたな」

「……ジルがそばにいてくれたからです」

「そうか」

 顔を上げた六花は、自分を見つめる柔らかな瞳とかち合って思わず目を逸らした。平静を取り戻し始めていた心拍が、また落ち着かなくなる。この不思議な気持ちの訳もいずれわかるときが来るのだろうか。そんなことを考えていた。

「行けるか」

「……はい」

 六花の肩に添えられた手の温もりが、臆病者の六花に勇気を与える。この手を振りほどけば、きっと一歩も動けなくなる。臆病者の自分に逆戻りする。六花には、そんな確信があった。




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