第1章【2】
少し進んだ先で、男性は辺りを警戒しつつ六花を室内に押し込んだ。もう一度だけ辺りを見回し、ドアを閉める。六花はようやく呼吸を整えることができた。
仄かな光に照らされて男性の顔が見えるようになる。少し吊り上がった目尻が厳しさを感じさせるが、端正な顔立ちをしている。その風采は西洋の雰囲気を感じさせた。だというのになぜ言葉が通じるのかは六花にはわからないが、いまはそれどころではない。
「泣く女が解放されてしまった。なぜあんなところを無防備に歩いていたんだ」
男性が呆れた声で言う。六花には、自分が失態を犯したことはわかるが、状況は何ひとつとしてわからないままだ。
「あんなところって……ここはどこなんですか? 僕は、どうしてこんなところに……」
この男性がその答えを知っているかはわからない。それでも、少しだけでも手掛かりがほしい。縋るように言う六花に、男性は幾分か表情を和らげた。
「ここに来る前、何をしていた」
「……学校で都市伝説を試していました。ロッカーに入ったら、ここに出たんです」
「なるほどな。異界に迷い込む類いの儀式を行ったということか」
六花は愕然とした。自分が試したのはただの都市伝説、人と人のあいだに流れるただの噂話であるはずだ。いままでにだって試した学生はいるだろう。全員が異界に迷い込んだのであれば、学校側が注意喚起するはず。いままでそんな話は聞いたことがない。そんなことを知っていれば、いくら六花であっても拒否したことだろう。
「繋がった先が迷宮内だったのは災難だな」
「……迷宮……」
ぼんやりと呟く六花に、男性は一瞬だけどこかをちらりと見遣ったあと、六花に視線を戻した。それだけで六花には恐怖を増長することだった。
「ここは
「じゃあ……あなたはいま、攻略してる最中、ってことですか……?」
「そうだな。俺たちは迷宮専門クランの『フランクラン』だ」
これはラノベでよく見掛ける「異世界転移」だ、と六花は考える。ファンタジーの世界に来てしまったらしい。よりによってホラーの世界であるという事実が、六花の呼吸をさらに重くさせた。
「名前は」
男性の問いかけに、六花はようやく顔を上げる。
「六花です。
「リッカ。俺はジル・アルバートだ」
やはり西洋風の世界らしい、と六花は考える。言葉が通じることがより不思議に思える事象だが、その辺りは異世界転移のご都合主義なところなのだろう、と自分を納得させた。
「残念だが、俺たちが攻略を完了させるまで、この迷宮から出ることはできない」
「えっ……」
「そこにクロゼットがある」
ジルが指差した先には、ちょうど人ひとり入れそうな大きさの縦長のクロゼットが設置されている。
「あの中に入れば妖霊には感知されない。俺たちが攻略を完了させるまで――」
「ここでひとりでいないといけないんですか?」
再び泣き出しそうになりながら言う六花に、ジルは少しだけ困ったような表情になる。
「俺について来れば妖霊と対峙することになる」
「ひとりでいるほうが怖いです」
妖霊というものがどういった存在であるかは六花にはわからないが、感知されない場所だったとしても、経験したことのない状況でひとりきりになるほうが恐怖で狂いそうになる。ジルの様子を見るに、迷宮攻略には慣れているのだろう。きっとクロゼットに籠っているより安心感があるはずだ。
「それならこれを持っておけ」
そう言ってジルが腰の小さなポーチから何かを取り出す。六花の手に渡ったのは、小ぶりな拳銃だった。初めて手にした重厚感に、ひえ、と小さな悲鳴が漏れる。
「銃なんて使ったことありません……」
「それは普通の銃とは違う。『
「魔笛……」
「発砲音が遅れて鳴る魔力が込められた銃だ。これを離れた場所に撃つ。壁なんかに着弾したときに音が鳴るんだ。それで妖霊の注目を逸らすことができる」
(爆竹みたいな物か……)
頭の中にあるホラーゲームの知識と照らし合わせつつ魔笛を眺めても、これを上手く使いこなす自信がない。そもそも学生が銃の所持を許される世界ではなかったため、もちろん手に取ったことなどない。
「これはどうやって撃てば……」
「魔笛には安全装置がないんだ。引き金を引くだけで発砲できる」
「間違えて撃ってしまったりしませんか?」
「魔笛は誤爆を防ぐ魔法がかかっている。明確に引き金を引いたときにしか発砲しない」
さすがファンタジーの世界、と六花は感心する。魔力が込められた魔道具ということは、魔法の道具ということ。魔法とは便利なものだ、とそんなことを考えていた。
「妖霊に見つかったときは離れた場所にそれを撃て。俺とはぐれたらどこかのクロゼットに隠れてろ」
「はい……」
そんな器用なことができるかと言えば六花には甚だ疑問だが、ついて行くと言った手前、できないと拒絶するわけにはいかない。音で気を逸らす類いのアイテムは必要になるときがいずれ来る。使いこなせるようになる必要があるだろう。
小さく息をついた六花は、自分が左手に握り締めていた小さな石にようやく気が付いた。灰色に濁ったなんの変哲もない石だ。
「それは濁り切ってもう使い物にならないな。捨てていい」
「これはなんですか?」
「マールム
そう言って、ジルが腰のポーチから同じくらいの大きさの石を取り出す。清く澄んだ赤色の石で、六花の手にある物とは大きくかけ離れていた。
「迷宮内でかかる精神的負荷を軽減する魔道具だな」
(正気度回復のアイテムか……)
迷宮内は薄暗く、あちらこちらから奇妙な気配を感じる。ゲームではステータスバーで表示される正気度が、迷宮内では徐々に上がっていくということだろう。振り切る前にマールム晶石に触れることで正気度を回復する。そうしなければ、おそらく発狂するのだろう。
「クランということは、ひとりではないんですよね」
「そうだな。他に三人の仲間がこの迷宮内を探索している」
「どうすれば迷宮の攻略は完了するんですか?」
「迷宮内には五本の柱がある。それを破壊すれば、迷宮の核である『
仕組みとしては単純だが、妖霊がいることでそう簡単に済む話ではないはずだ。ジルは魔笛ではない銃を持っているが、先ほどの妖霊との邂逅で戦うことはなかった。おそらく、銃で一発、では済まないのだろう。
「柱はすでにふたつ破壊している。ひとつはこの近くにあるはずだ」
「迷宮ってことは、マップはないんですよね」
「残念ながらな。お前にこれを渡しておく」
ジルが差し出したのは、単純な方位磁石だった。これも魔道具なのだろうか、と揺らしてみると、赤い磁針は一定の場所を示していた。
「それは魔宮石の間を指し示す方位磁石だ。俺には探査魔法があるから必要ない」
「魔法があるのに方位磁石があるんですね」
「すべての魔法使いが探査魔法を使えるわけではないからな」
「なるほど……」
「もし俺とはぐれても動き回る勇気があるなら、先に魔宮石の間に行っているといい。あとで迎えに行く」
もちろん六花にそんな度胸はない。はぐれないことを願うばかりだが、目的地を見失わないアイテムがあることがこんなにありがたく思うこともこの先はもうないだろう。
「あとはこれも持っておけ」
新しく差し出されたのは、栄養剤のような小さな瓶だった。
「これは……」
「体力増強剤だ。妖霊から距離を取るときは走ることになるからな」
エナジードリンクのような物か、と六花は考える。あまり味が得意ではないのだが、この際、文句を言っても仕方がない。六花は体力に自信がない。異世界の迷宮に迷い込んだという異常な事態であるため、頼れるものには頼るべきと思えた。
「妖霊に触れると動けなくなるから注意しろ。回復魔法は効かない」
「魔法が効かないならどうすれば……」
「回復薬がある」
またジルがポーチから丸い瓶を取り出すので、どうやらポーチも魔道具であるらしい、と六花は考える。回復薬の瓶は、明らかに六花のブレザーのポケットには入らない。瓶には淡く光る金平糖のような小石が入っていた。
「お前が解放してしまった『泣く女の肖像画』は耳が良い。近付かなければ実体化しない妖霊だったんだがな」
「……ごめんなさい……」
「知らなかったのだから仕方がない」
しょんぼりと肩を落とす六花に、ジルが少し焦ったように言うので、悪い人ではないようだ、と六花はそんなことを考えていた。
「あの鎧みたいな足音は……」
「亡霊騎士だな。亡霊騎士は目も耳も悪いが、走って音を立てれば観測される」
先ほど六花は「泣く女の肖像画」から逃げるために走っていた。その足音で観測されたのだ。ジルがいなければどうなっていたかわからない。六花は改めてそれを実感していた。
「あとは『彷徨う
「足音がしないのにどうやって接近に気付くんですか?」
「言っただろ。俺には探査魔法がある。近付けば感知できる」
「なるほど……」
「その機械のライトは使わないようにしろ。明るすぎて気付かれるかもしれない」
「あっ、はい」
スマートフォンを握り締めていた手は汗が滲んでいる。スマートフォンはどうせフラッシュライトしか役に立たない。それを使ってはならないとなっては、ただの
「覚悟ができたなら行くぞ」
「はい……」
覚悟ができているわけではないのだが、ここでじっとしていても仕方がない。ここは迷宮専門クランに所属し迷宮攻略に慣れているはずのジルに任せておくしかないだろう。
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