臆病者がチートスキルだけで異世界迷宮攻略~最高峰クランの魔銃士に溺愛されて困ってます~

加賀谷 依胡

第1章【1】

 昼間の活気とは打って変わって、夜の校舎は気味が悪く、頬を撫でる空気がひんやりと冷たい。電灯の落とされた校内は、もちろん人の気配などない。時刻は二十一時。消灯の時間はとうに過ぎている。押し込まれるようにして昇降口に入ると、その不気味さにぞくりと背筋が凍った。

「鈴谷のビビりを克服するにはちょうどいいな」

 田代がおかしそうに言う。この高校で一番に目立つグループのリーダーのような存在で、逆らうとどうなるかわからない、とよく言われている。もちろん逆らうことなどできない。

「ひとりで帰ったりするんじゃねえぞ。見てるからな」

 金崎が脅すように睨み付ける。田代のグループの二番手で、田代の威を借りることで、グループ内ででかい顔をしている。裏で悪く言われているのを見掛けたことがあるが、本人はどこ吹く風である。

「名無しの誰かに会えるといいな」

 和島が軽い調子で言う。いわゆる八方美人な性格で、田代に媚びへつらうことでグループにいることが許されているらしい。その軽薄な性格から田代に目を付けられたが、おべっかが上手いことで難を逃れていた。

 グループ内でもグループ外でも、田代に盾つく者はいない。それはもちろん、彼――鈴谷すずや六花りっかにとっても同じことである。だから、夜の校舎に呼び出されても断ることなどできなかった。

「“名無しの怪談”の内容は忘れてないだろうな」

 眼上から凄む田代に、六花は小さく頷くことしかできない。スマートフォンのライトを点ければ、早く行って来い、と急かされる。六花は、どこから抜け出すかの算段をしていた。しかし、途中で逃げ出せばすぐに勘付かれてしまうことだろう。

 六花の通うこの高校で昔から噂されている都市伝説「名無しの怪談」は、かつてこの学校で自殺したとされる女学生の霊が失った名前を求めて彷徨っている、というものである。音楽室、美術室、理科室、職員室の電気を点け、二年C組のロッカーに入る。つまり、途中で逃げ出せば明かりが点いていないことで見抜かれてしまうのだ。

 スマートフォンの明かりだけを頼りに、夜の校舎に足を踏み入れる。恐怖で激しく脈打つ心拍につられて呼吸が乱れる。こんなところに一秒だっていたくないのに、逆らったらどうなるかわからない。きっとたちの悪いいじめでも始まるのだろう。足はがたがたと震えているが、こうなればさっさと終わらせるしかない。それ以外に家に帰る方法はないのだ。

 音楽室と理科室は一階の両端にある。これほどこの校舎の内部構造を恨む日がこの先、あるだろうか。早く終わらせるために急ぎたいのに、足が竦みそうになって立ち止まりたいと訴えている。しかし、ここで歩みを止めれば動けなくなる。このまま恐怖とともに朝を迎えるなど、真っ平ご免だ。

 美術室と職員室は二階にあり、それぞれ近い場所にある。一階より比較的、楽なような気もした。それでも恐怖で足が止まりそうになるのを必死で堪えていることに変わりはないのだが。

 活動を終えた校舎に点く明かりはそれだけで不気味で、最後の工程を思うと溜め息が漏れる。職員室を出ると、最後は二年C組に行かなければならない。だが、それさえこなしてしまえば終わりだ。田代たちも満足して、家に帰れることだろう。

 二年C組の縦長のロッカーに入ると、あまりの暗さに心臓が痛いくらいに跳ねた。スマートフォンのライトを消せば、目には何も映らなくなる。自分の荒い呼吸と不快な耳鳴りに顔をしかめつつ、目を閉じた。

「……どこにいますか?」

 これで都市伝説は終わりだ。返事など来るはずがない。ただの都市伝説なのだから。

 しかし、その希望は呆気なく打ち砕かれた。


 ――ここにはいないよ。


 小さな子どもの声がした。今度こそ心臓が破裂するのではないかと思った瞬間、突如として視界が歪んだ。激しい眩暈に頭が揺れる。吐き気とともに倒れ込むと、体がロッカーから飛び出した。途端に眩暈が治まる。小さく息をつきつつ顔を上げた六花は、目に飛び込んで来た光景に唖然とした。

「……ここ……どこ……?」

 そこは明らかに学校ではなかった。薄汚れた壁は花の模様が描かれており、足元は赤色の絨毯が敷かれている。頭上で揺れているのはシャンデリアだった物と思われる。異様に汚く暗いが、物語で見る貴族の屋敷のような光景だった。

 背後を振り向いた六花は、ハッと息を呑む。

(……ロッカーがない……)

 先ほどまで入っていたはずのロッカーが、跡形もなく消えていた。背後は同じような廊下が続いている。先が見えないほどの暗さに、汗が背筋を伝った。

 スマートフォンのライトを点け、辺りを見回す。西洋の雰囲気を感じさせる空間で、鼻がむず痒くなるほど埃っぽい。貴族の屋敷だとしても、家主がいなくなってから長年が経過していることがよくわかる。

 激しくなる心拍に呼吸が荒くなり、埃っぽさも加わって肺が痛くなる。立ち上がれずにいた六花は、縋る思いでスマートフォンを覗き込んだ。

(誰かに連絡しなくちゃ……)

 焦燥感に震える指で電話のアイコンに触れる。しかし、何も反応がない。恐怖のあまり手が乾燥して反応しないのだろうか、などと考えつつもう一度タップしても、電話のアプリケーションが開かない。それなら、とメッセージアプリのアイコンに触れる。しかし、何度タップしてもアプリケーションが起動しなかった。

(……フラッシュライトしか反応しない……。それに、圏外になってる……)

 絶望にも似た感情が背筋を凍り付かせる。どこかもわからない場所で、外部との連絡手段を絶たれてしまった。であれば、この空間を歩き回って出口を探すしかない。充電は90%が残っている。持ってくれるといいのだが。

 震える足になんとか力を入れて立ち上がる。どこに行けばいいかはわからないが、ここでじっとしているわけにもいかない。せめて窓から外を覗ければ、どういった場所であるかくらいならわかるかもしれない。しかし、いくら見回しても窓が見当たらなかった。いくつか部屋があるようだが、どうしても中を見る気になれない。

 とぼとぼと暗い廊下を歩く。ひたすら真っ直ぐ進む。そうしているうちに、何か物音のようなものが耳に届いた。その音が近付くにつれ、それが啜り泣きであることに気付く。

(なんでこんな……ホラー映画みたいな……)

 廊下の向こうに、何か赤い物が浮かんでいるのが見えた。ライトで照らしてみると、壁にかけられた絵画だった。啜り泣きは絵画の中から聞こえる。

(……これ……名無しの怪談の女学生、なのかな……)

 だとしたら解決策を知っている。失った名前を求める女学生は、名前をもらうと満足して消えるらしい。そうすれば、知っている場所に戻れるかもしれない。

 なけなしの勇気を振り絞り、少しずつ絵画に近付く。仄暗く光る赤色の絵画には、髪の長い女性の後ろ姿が映し出されていた。六花が覗き込んだ瞬間、女性がくるりと振り返る。ひっ、と息を呑む六花に、絵画の中から手が伸びた。

『……ソコニイタノネ』

 悲鳴は声にならなかった。雑音のような囁きに弾かれたように駆け出す。ここにいてはならない。どこに行けばいいのかはわからないが、走るしかなかった。

(なに……なんなの……)

 短く繰り返す荒い呼吸に押し出されるように涙が滲む。男のくせに泣き虫だ、とよく揶揄われていたが、こんな状況で泣くなと言うほうが無理である。

 啜り泣きが離れていく。しかし、どこからかまた別の物音が聞こえた。それは、ドラマで見た鎧武者の走る音によく似ている。おおよそ洋風な屋敷に不釣り合いな足音に、頭の中は混乱するばかりだった。

 そのとき、暗闇から不意に腕を掴まれた。そのまま部屋の中に引き摺り込まれ、叫びそうになった口元を何かが覆う。

「ライトを消せ」

 耳元で聞こえた低い男性の声に、それが手であるとようやくわかった。ガタガタと震える指でなんとかスマートフォンのライトを消し、背中に感じる温もりに身を委ねて息を殺す。男性が六花の左手に、何か石のような手触りの物を握らせた。それを気に留める間もなく、目の前を赤く光る鎧武者が走り抜けて行く。こちらには気付かなかった様子で、そのまま遠ざかって行った。

「まだ近くにいるな」男性の声が言う。「ここから離れるぞ」

 六花が返事をする間もなく腕を引かれる。男性が右手のひらを宙に向けると、仄かに明るい光がそばに浮かんだ。六花が現状を理解できないまま、男性は廊下を慎重に覗き込む。それから、六花の腕を引いて足を踏み出した。六花は左手とスマートフォンを握り締め、ただそのあとに続くことしかできなかった。

「……走るぞ」

 周囲を警戒しつつ、男性は速度を上げる。六花は何も言うことができず、仄かな光に照らされた男性を観察していた。短い黒髪で、六花より頭半分ほど背が高い。服装まではよく見えないが、学校にいるような格好ではないことだけはわかる。六花には見覚えのない人物だった。



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