第1章【3】

 迷宮攻略というものは足音を立てないよう慎重に動くものだと六花は思っていたが、ジルは気にする様子もなく走って行く。六花でもついて行けているのは、おそらくジルが合わせてくれているのだろう。ジルからすれば“早歩き”なのかもしれない。

 廊下の角の向こうから、微かに啜り泣きが聞こえる。ジルはすぐ近くの部屋のドアを開け、六花を中に促す。静かにドアを閉めると、ジルは明かりを消した。それから、何かを床に放り投げる。パッと紫色の光が現れるので目を凝らして見ると、背中に石を抱えた小さな虫だった。虫が苦手な六花が顔をしかめる中、虫はふたりの近くをうろうろしている。敵に観測されない光なのだろう。

 近付いて来る啜り泣きに心拍が跳ね上がる六花とは対照的に、ジルは冷静に部屋の外の様子を窺っている。啜り泣きがドアの前に差し掛かった頃、ジルが六花にマールム晶石を手渡した。ジルは平然としており、六花だけが正気度を削られているようだ。

 啜り泣きが離れて行くと、ジルはまた明かりを点けた。

「泣く女の肖像画は複数が連動しているようだな」

「……じゃあ、一体を解放したら何体も解放されてるってことですか……?」

「おそらくな。だが、泣く女は足が遅い。観測されても走って撒ける」

 ジルの落ち着きが、六花にも安心感を与えてくれる。マールム晶石の効果もあるだろうが、ひとりでいればすでに発狂していたことだろう。

 そのとき、ジルの近くで小さな光が弾けた。突然のことに息を呑む六花を、ジルが肩に手を置いて制する。光の中から現れたのは、白い鳥だった。

「報せ鳥だ」

「報せ鳥……」

「伝達魔法だな。仲間からの伝言だ」

 ジルが軽く手を触れると、鳥は再び光となって散っていく。散った光はジルの手のひらに溶けた。伝言を乗せた魔力で編んだ鳥ということか、と六花は考える。音もなく現れたため、息を潜めなければならない迷宮で重宝するのだろう。

「柱をひとつ破壊したらしい。これで残りはふたつだ」

「ひとつはこの近くにあるんですよね」

「そうだな。……先に話しておかなければならないが」

 ジルが慎重に言うので、六花は嫌な予感に顔をしかめる。

「柱を破壊する際、音を立てることになる」

「う……」

「その音に反応して妖霊が寄って来るはずだ。安全地帯まで走らなければならない」

「…………」

「柱はもうすぐそこだが、俺たちが攻略に入ってすでに三十分ほど経過している。持って来たマールム晶石の効力が落ちてくる頃だ」

「……つまり……」

「じっくり探索している時間はない。探査魔法ではクロゼットの位置はわからない」

 まるで死刑宣告のようだ、と六花は肩を落とした。音を立てて柱を破壊したあと、どこにあるかわからないクロゼットを探して走らなければならない。柱を破壊した音に加え、走る音でも妖霊が寄って来るだろう。どうしたって妖霊を躱さなければならないのだ。

「ここで待っていてもいい。あとで迎えに来てやる」

「……いえ、行きます」六花は意を決して言う。「何か、一緒に行かなければならないような……そんな気がします」

「そうか」

 ジルは表情こそ硬いもの、声色は柔らかい。六花を安心させてくれるようだった。

「柱の場所まで走って行く。体力がきつければいまのうちに増強剤を飲んでおけ」

「はい……」

 意を決したはいいもの、怖いものは怖い。こうなれば、エナジードリンクの味が苦手だなどと言ってはいられない。ジルからもらい受けた体力増強剤を一気に煽ると、甘いような酸っぱいような複雑な味に顔をしかめる。「良薬は口に苦し」は本当のことなのだと、そんなことを考えた。

 行くぞ、とジルが部屋を出る。啜り泣きとは反対方向に向かって進んで行くので、六花は内心で安堵していた。距離を取りつつ追いかけるようなことにならなくてよかったと、心底から安心する。

 少し走った先でジルは足を止めた。先ほど逃げ込んだ部屋とは違い、両開きの重厚感のある扉が待ち受けている。部屋の中から禍々しい空気が漂っているのは、六花にもよくわかった。

 ジルは躊躇うことなくドアを開ける。広間になっているその部屋の中心に、床下から突出した水晶のような塊が佇んでいた。見た目だけで言えば“柱”というより“結晶”である。それでも六花の身長と同じ程度の高さがあるため、柱という表現もあながち間違いではないのだろう。ジルの明かりに照らされると虹色に光り、禍々しさすら感じなければ美しく見えた。

「これが柱ですか?」

「そうだ」

「どうやって破壊するんですか?」

「これで一発だな」

 そう言って、ジルはおもむろに腰のホルダーから銃を取り出す。魔笛とは違う銃で、おそらく彼の武器なのだろう。

(魔法かと思った……)

 この世界にはどんな魔法があるのか気になるところではあるが、それはこの迷宮を脱してから確かめたとしても遅くはないはずだ。いまはとにかく、柱を破壊して、生きて迷宮を脱出する。それだけを考えなければならない。

「離れていろ」

 促された六花が数歩、下がるのを確認すると、ジルは片手で銃を放つ。柱に銃弾が命中した瞬間、耳をつんざくような破砕音はさいおんが響き渡った。柱は粉々に砕け散り、破片は光となって消える。その光景はどこか美しかった。

「行くぞ」

 ジルに腕を引かれるので六花は我に返る。いまこの瞬間、この近辺にいる妖霊が音に気付いてこちらに向かって来るはずだ。いつまでもぼうっとはしていられない。

 先ほどと同じ方向に走って行くジルに続きながら、六花はなんとなく方位磁石をポケットから取り出す。確かに赤い磁針が差す方角へ向かっている。こうして攻略している最中にもジルは探査魔法を働かせているのだ。その胆力に六花は感服するばかりだった。

 数秒ほど走ったところで、廊下の角の向こうから鎧の足音が響いてきた。ジルは一瞥のあと、怯むことなく突き進んでいく。六花は心臓が破裂しそうだと、少し泣きそうになりながらも必死で食らいついた。別の方向からも鎧の足音が聞こえる。こちらはすでに観測されているようだ。

「あのクロゼットに入れ」

 ジルが前方を指差す。崩れた壁の向こうに、ぽつんとクロゼットが佇んでいるのが見えた。それもひとつしかない。

「でも、ジルさんは……」

「いいから入れ。あとで迎えに来てやる」

 強引に背中を押され、六花は躊躇いつつもクロゼットに飛び込む。それを見届けたジルはさらに奥へと走った。閉じたクロゼットのドアの向こうを、亡霊騎士が激しく音を立てて駆けて行く。六花が入ったクロゼットは気にも留めず、ジルのあとを追って行ったようだ。

 そうして足音が遠ざかると、辺り一帯から音という音が消えた。六花の耳に聞こえるのは、ただ自分の鼓動だけ。とても時間が長く感じられた。ジルがどうなったのかと考えているうちに、またガシャガシャと激しい音が響く。ジルを追って駆けて行った亡霊騎士が、またクロゼットの前を通って引き返して行くのだ。クロゼットの中にいれば観測されないとジルは言っていたが、六花はただ、息を潜めていることしかできなかった。

 亡霊騎士が遠ざかっていく。そうして、また音が消え失せる。ただ時が流れていくのを待っていると、最悪の想像が頭の中をよぎった。

(あの亡霊騎士が引き返して行ったの、って……)

 じわりと涙が滲む。打ち勝てない恐怖にも、自分の無力さにも、ただ泣いていることしかできない。いつでも、きっとどこにいても。どうしたって、それは変わらないのだろう。

 鼻を啜ったとき、また足音がするのでハッと息を呑む。別の妖霊が近付いて来たのかと思うと、これ以上ないというくらいに心拍が跳ねた。

「リッカ」優しい声が言う。「俺だ。もう出て来ていいぞ」

 一瞬だけ躊躇ってからクロゼットのドアを開ける。淡い光に目が眩み、それと同時にようやく呼吸を取り戻す。ジルの無事を確認した途端、足から力が抜けた。床にへたり込む六花に、ジルは優しく肩に手を添えた。

「よく耐えたな」

「……無事でよかった……」

 振り絞った声とともに、涙が零れ落ちる。ブレザーの袖でいくら拭っても、次から次へと溢れてきた。

「亡霊騎士が引き返して行ったから……ジルがやられたのかと、思って……」

「俺もクロゼットを見つけて隠れただけだ。視線を切ればこちらを見失うんだ」

 慰めるように言いつつ、ジルは六花の左手にマールム晶石を握らせる。その効果か、次第に六花も落ち着きを取り戻した。ジルが六花を優しく慰めているところを見ると、この近辺に妖霊はいないようだ。

「仲間から報せ鳥が来た。もうひとつの柱も破壊したらしい。あとは魔宮石の破壊だけだ」

「……そうですか……」

「ついて来るか」

「……はい」

 ようやく涙の止まった六花に、ジルは力強く頷く。その自信を湛えた表情に、六花の心に安堵が広がっていた。


 探査魔法を働かせるジルは、迷うことなく突き進んで行く。亡霊騎士は走る音によりこちらを観測すると言っていたが、六花が走らなければならない速度で進んだ。六花はいつ妖霊に襲われることかと内心、ひやひやしていた。

 ジルは両開きのドアの前で足を止める。躊躇うことなくドアを開けたのは、探査魔法で中に妖霊がいないことがわかっているのだろう。その部屋にはまた奥に重厚感のあるドアがあり、その前で三人の人物が六花とジルを振り向いた。どうやら、ジルの言っていた三人の仲間らしい。

「来たね」茶髪の女性が言う。「無事なようで安心したよ」

「その子のことを詳しく聞きたいところだけど」と、金髪の青年。「まずは魔宮石を破壊しよう」

 橙色の髪の少女がドアを開く。いままでのどの部屋よりも広い室内に、柱と同じような結晶が突出していた。澄んだ紫色に輝く結晶で、これが迷宮の核「魔宮石」でなければ美しい結晶として装飾品にでもなっただろう。

 茶髪の女性が剣を魔宮石に突き立てる。魔宮石は激しい破砕音とともに砕け散った。欠片となった紫の結晶が光となって掻き消えると、迷宮の景色が歪む。眩暈のような感覚に目を細めているうちに、辺りが陽炎のように揺らめいた。ほんの一瞬の浮遊感のあと、迷宮は霧のように消え失せ、景色は日の暮れた平原へと変わった。迷宮が消滅したのだ。

「あー、清々しい」茶髪の女性が伸びをする。「迷宮攻略のあとは気分が良いわ」

 金髪の青年と橙色の髪の少女が六花を振り向く。どうやらジルが先に報せ鳥で六花のことを伝えていたらしい。特に訝しむようなことはなかった。

「きみにはいろいろと聞きたい」と、金髪の青年。「とにかく街へ帰ろう」

 橙色の髪の少女が杖を振りかざす。五人は光に包まれ、浮遊感に六花は目を閉じた。


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