第4章【4】

 赤い絵画から、啜り泣きが漏れている。はたまた笑っているような。微かな囁きが聞こえる。

『六花……どうか、私を許さないで』

 目を開けば世界は変わる。だから、閉ざしたまま応えなければならない。

「……僕には許し方がわからない」

 望まれた答えでないことはわかっている。それでも、そう答えるしかない。

「僕は……自分が不幸だと思ったことはない。でも、幸福を感じたこともない」

 泣く声には応えない。応えることはできない。

「でも、許したい。できることなら……――」






 ……――






 ふ、と目を覚ますと、カーテンの隙間から夕陽が漏れていた。随分とよく眠ってしまったようだと何度か瞬きしているあいだに、ぱちりと電灯が点く。突然に視界が白むので目を細めていると、覗き込む影がある。ジルだった。

「目が覚めたか。随分とよく寝ていたな」

「疲れていたのでしょう」クォルツ老医師が言う。「エセルくんから話は聞いていますよ。無理はしませんように」

 六花は小さく頷きつつ体を起こす。診察室のベッドは六花の体によく合っていたようだ。大きく伸びをするのに合わせて肩がパキッと鳴った。

「気分はどうだ」

「体が軽く感じます」

 六花は寝ていたためどういった診察が行われていたかはわからないが、足を引き摺られるような重さがなくなっている。精神的疲労がすべて取り払われた感覚になり、気分も随分と楽になった気がした。

「またいつでもお越しなさい。診療所に遠慮は必要ありません」

「はい。ありがとうございます」

 クォルツ老医師はなんとなく亡くなった祖父に似ている気がする、と六花は考える。祖父はフランス人の血筋が少し入っていると父が話していた。異世界の人間であるクォルツ老医師が祖父に似て感じるのは、祖父の顔立ちによるものなのだろう。

 街へ出ると、人々は活動を終えようとしている。家に帰る者、大衆食堂に集まる者、笑い合う冒険者、疲れた表情の人々も多かった。

「セヴィリアンのところに寄る」ジルが言う。「護符の効果が切れているはずだ」

 今回の攻略のためにセヴィリアンが用意した「真紅の護符」は、確かに色が鈍く濁っていた。効果の切れたマールム晶石と同じような色をしている。効果はすっかりなくなってしまったようだ。

 今日の攻略のことを考えていた六花は、ジルの行動を思い出して途端に心拍が跳ね上がった。ジルはそんなことはすっかり忘れてしまったように、いつもの冷静な表情をしている。六花は平然としていることなどできず、ジルの隣を歩いていることが急に恥ずかしくなった。

「……あ、あの……」

 ジルがどう考えているかもわからず口を開いてしまったことに、六花はジルが視線を下げてから後悔した。何も言わなければこんなに意識せずに済んだかもしれないのに。

「あの……この街に、本屋はありますか?」

「ああ。いくらでもあるぞ」

「い、行ってみたいんですが、いいですか?」

「それは構わないが、この世界の文字を読めるのか?」

「あっ……そうでした……」

 あまりに挙動不審すぎる発言に、六花は顔が熱くなった。気にしていないふりでもすれば、ジルが怪訝に思うこともなかっただろう。ジルは自分の行動のせいで六花がどぎまぎしていることに気付いていないのかもしれない。ジルにとってはなんでもない行動だったのかもしれないと考えると、意識していることが恥ずかしくなる。ジルはそういったことに慣れているのかもしれない。そうであれば、六花の挙動不審さも滑稽に見えてしまうのではないだろうか。

(塔理も顔が良いけど、あんなことしたことないな……。ううん、当たり前だ。僕と塔理はそういう関係じゃなかったんだから)

 ジルともそうであったはずなのに、いくら正気を取り戻させるための応急処置であったとしても、気にしないなどということは、六花には土台無理な話だった。せめてジルが、自分が妙に意識していまっていることに気付かないといい。顔が赤くなっていることは夕陽のせいだと、そういうことになっていればいい。六花はそんなことを考えていた。

 魔法学研究所に行くと、六花も多少なりとも落ち着きを取り戻していた。セヴィリアンは、六花の訪問を喜んでくれた。

「いらっしゃ~い、リッカちゃん! またお会いできて光栄よ~!」

 両手を挙げるセヴィリアンに対し、ジルはそれとなく六花を背に庇う。セヴィリアンが抱き着こうとしているのを防いだのかもしれない、と思うと、六花はまた少しだけ頬が熱くなった。

「新しい護符が必要になった」

 六花は鈍く濁った「真紅の護符」をセヴィリアンに差し出す。あら、とセヴィリアンは小首を傾げた。

「一度でダメになってしまったのね。効力が弱かったみたいね」

「すみません……」

「あら、いいのよ。それだけリッカちゃんの役に立ったんだから、大往生よ。護符は使い捨てだもの。いくらでも作れるから心配はいらないわ」

 護符はマールム晶石製である。マールム晶石と同じ効果を発揮すると考えると、瘴気に触れることで消耗してしまうのは、やはり致し方ないことなのだろう。

「他の消耗品は用意できてる?」

「他の三人が街で揃えているはずだ」

 今回の攻略に入る前、フランクランは六花のために大量のマールム晶石を用意していた。それも、一度の攻略でほとんど使い切ってしまった。

「僕のせいで消耗品の消費が多いんじゃないですか?」

「消耗品は使ってこと意味がある」ジルが言う。「そのために作られた物なんだからな」

「お金の心配はいらないわ」と、セヴィリアン。「なんせ最高峰クランなんだから」

「お前の分の報酬はエセルが預かっている。この世界の通貨を知らないと、よからぬ商売に騙されるかもしれないからな」

 そこで六花は、自分も迷宮攻略という依頼をこなしているのだ、とようやく気付いた。迷宮攻略の実績とともに、報酬も受け取れるはず。しかし、この世界の通貨は知らず、無駄となる使い方をしてしまう可能性もある。エセルたちが着服することはないと考えると、預かっておいてもらうのは正しい選択だろう。

「そういえば」六花は思い立って言った。「探照灯を使ったことが一度もありませんね」

 探照灯は目眩ませのための魔道具で、妖霊に接近されたときに使用する逃走用の魔道具だ。魔具鞄マジックパックの中にも何個か入っているが、一度も使う場面がなかった。

「お前のスキルがあれば使う必要がないからな。探照灯は緊急時用の魔道具だ」

「緊急時だとしても、リッカちゃんの“隠れ身”があれば探照灯は必要ないわ」

 妖霊に見つかった際、六花のスキルである「隠れ身」を使用すれば、妖霊に観測されなくなる。十数秒ほどでも充分に距離を取れるため、探照灯を使うのは、連続で見つかってしまった場合などになるだろう。

「本当にいざというとき用だ。そもそも使う頻度はあまり高くない」

「フランクランなら見つかることもそうそうないでしょうしねえ」

「じゃあ……僕のせいで“隠れ身”を使う羽目になっているんですか?」

 六花は肩を落とす。そもそも探照灯を使う頻度が高くないのであれば、それだけ妖霊に観測される回数が少ないということ。六花は二度の攻略で何度も“隠れ身”を使用している。それだけ妖霊に観測されているのだ。

「あら、それは違うわ。“隠れ身”があるからそういう戦法を取れるのよ」

「お前のスキルがなかった頃は、攻略にもっと時間がかかっていた。お前のスキルのおかげで、攻略が楽になるんだ」

 確かに、と六花は考える。六花の「隠れ身」がなければ、妖霊に観測されることを避けなければならない。観測されれば、探照灯を使って逃走する必要がある。六花の「隠れ身」があれば、観測されたとしてもスキルだけで逃走することができる。“観測されてはならない緊張感”から解放され“観測されても逃げられる”というまったく異なる状況になるのだ。そうであれば、多少なりとも大胆な作戦でも動けるようになる。さらに「忍び足」で観測される確率を下げることもできる。そう考えると、六花はようやく自分のスキルに自信を持つことができたような気がした。

「だからと言って、無理をする必要はない」

「早くもとの世界に戻る手掛かりが掴めるといいのだけれど……」

 六花としては最高峰クランの役に立てることが誇りであるが、そもそも六花には「もとの世界に帰る」という目的がある。迷宮攻略はそのための手段のひとつでしかないのだ。

「リッカちゃん専用の装備ができてるわ。試しに着けてみてちょうだい」

 セヴィリアンは灰色と浅葱色を基調とした服を取り出す。いま身に着けている既製品と色合いが似ていた。六花によく似合う色味ということだろう。

 試着室を借りて着てみると、袖は伸ばして親指を穴に入れる形になっており、手の甲まで覆えるデザインになっていた。指の付け根で肌に密着するようになっており、足首も密閉され、瘴気に触れる肌の面積を限りなく小さくした服だった。採寸しただけあって、六花にぴったりのサイズになっていた。

「あらっ、とっても似合ってるわ~! アタシったら、天才かもしれないわ~!」

 セヴィリアンが首元を直すと、首をしっかり覆える上にフードがついている。手首や足首には意識がいくが、首は無防備になりやすいのかもしれない。

「瘴気が特に濃い場所では、フードを被っておくといいわよ」

「はい」

「あとは護符ね。今回は『瑠璃の護符』を用意しておいたわ」

 セヴィリアンが差し出した縦長の箱の中身は、ラピスラズリのような石のペンダントだった。セヴィリアンは前回と同じように、六花の手に石を置いて六花の体に馴染むよう調整をする。クォルツ老医師もそうだったが、この体に流れ込んで来る温かいものは魔力なのかもしれない、と六花は考えていた。

「それから、スキルを強化する装備を作っておいたわ。邪魔にならないように、イヤーカフにしてあるわ」

 イヤーカフは、耳を挟んで装着すればいいだけで、イヤリングより安定し、ピアスのように穴を開ける必要のない装飾品だ。迷宮攻略中に走り回ったとしても、そう簡単には外れないだろう。

「装備品はメンテナンスも必要だから、攻略を終えたらまた来てちょうだい」

「はい」

「困ったことがあれば、なんでも頼ってちょうだいね」

「はい。ありがとうございます」

 六花はこれまで、にこにこと笑っている人ほど信用できないと思っていた。愛想良く笑っていたとしても、六花にとって味方であるとは限らない。セヴィリアンの笑みには、そういった疑いを持つ必要がないことがよくわかる。異世界でこれほどまでに信頼を持てる人々に出会えたことは、六花にとって最大の幸運であった。できれば、もとの世界でもそうであるといいのだが。



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