第5章【5】

 クォルツの診療所は、まるでそこだけ空間が違うのではないかと思わせるほど落ち着いた空気が流れている。街の喧騒から離れているからかもしれない。六花はなんとなく、ようやく安全地帯に辿り着いたような気分になっていた。

 来客に気付いて顔を上げたクォルツは、膝に置いていた本を閉じ、老眼鏡を外して六花に微笑みかける。

「ようこそ、リッカくん。今日も大活躍でしたかな」

「うーん……どうでしょう……」

「よう、じいさん。元気そうだな」

「医者こそ元気でなければね。さ、どうぞお座りなさい」

 クォルツに促されて六花が診察台に腰掛けると、ブラントは壁際のソファに腰を下ろす。六花がどこの迷宮に行って来たかを話す前に、クォルツは六花の左手を取って脈を測り始めた。フランクランが「雨林」の攻略に向かったことは知っているのかもしれない。そう考えつつ、六花はクォルツの長いひげが揺れるのを眺めた。

「上着を一枚、脱いでくれますかな」

「はい」

 六花の服は瘴気の侵入を防ぐため、三枚重ねになっている。一枚目と二枚目は長袖、三枚目は半袖だ。一枚目は最も分厚くできている。それを脱ぐと、多少なりとも肩に負担がかかっていることがよくわかった。

 クォルツの手が優しく背中に触れる。手のひらの温もりが背中から体の中に溶けていく感覚が心地良く、体の中に溜まっていた瘴気が消えていくようだった。

「随分と頑張ったようですな。身体に雨が触れたのではありませんか」

「少し……」

「よく無事に戻られましたね。素晴らしい功績です」

「いえ……僕は足を引っ張っているだけですから……」

 自信を失くして俯く六花に、クォルツは優しい笑みを深める。

「誰もそんなふうに思っていませんよ。きちんと攻略を完了しているのですから」

「そうそう」と、ブラント。「いままでフランクランに志願した冒険者は散々なものだった」

 ふたりがそう言うということは、と六花は考える。いままでフランクランに志願した冒険者は、迷宮の攻略を完遂することができなかったのかもしれない。迷宮攻略はどこも厄介だとロザナが言っていた。彼らにとっても簡単なことではないのだろう。

「リッカのスキルは充分に役立っているはずだ」

「異世界から来てフランクランについて行けているのですから、大したものですよ」

「それは、みんなが助けてくれるから……」

「彼らだって、足手纏いの面倒を見るほど親切ではありませんよ」

 クォルツが朗らかに笑って言うので、六花は顔を上げた。

「彼らもブラントに投げてしまえば、それで終わりですからな。リッカくんは彼らの助けになっているのですよ」

「そうでしょうか……」

「そうですとも」

 ブラントも深く頷いている。このふたりが確信を持ってそう言うなら、その通りなのかもしれない。そう考えて、六花はほんの少しだけ自信を持てたような気がした。

 それから世間話をしつつ、のんびりと治療を受ける。その時間は、六花に休息らしい休息をもたらした。フランクランの四人に懐く安心感とはまた違う心地良さだった。治療を終える頃には、体もすっかり軽くなっていた。

「護符はセヴィリアンが用意していますかな」

「はい」

「でしたら大丈夫ですな。既製品をお使いなら私が用意しようと思っていたところですよ」

 六花はこれから魔法学研究所のセヴィリアンを訪ねるつもりでいた。護符のこともあるが、スキルの鑑定をしてもらおうと考えている。自然とそう思っていたのだが、六花はふと、あることが気に掛かった。

「あの……異世界から来た僕にこんなに親切にしてもらって、ありがとうございます」

「ほほ。リッカくんが捻くれた子どもだったら、誰も親切にしなかったでしょうね」

「そうでしょうか……」

「そうですとも。リッカくんは自分が親切にしてもらっていることに気付けている。そしてそれに応えようと頑張ってくれている。そんな子を応援してやりたいと思うのは、きっと誰でも同じことでしょう」

「……ありがとうございます。せめて親切にしてもらってる分を返せるように頑張ります」

「充分ですよ」

 何もかもわからないまま落ちた異世界で、これほどまでに温かい言葉をかけてくれる人々のもとに辿り着くことができたのは、六花の人生で最大の幸運であった。きっとこの先、これ以上の幸運に巡り合うことはないのだろう。

「またいつでもお越しなさい。ただお茶を飲みに来るだけだとしても、遠慮は必要ありません」

「はい。ありがとうございます」

 クォルツに見送られて診療所を出ると、すでに日が傾き始めていた。

「もう日が暮れますね。討伐は終わったでしょうか」

「報告では、今回の巣はそう大きくない。フランクランならあっという間に完了してるだろ」

 六花は魔物とは無縁の世界で生きていた。魔物の討伐にどれほどの時間と労力がかかるかはもちろん知らない。ブラントの口振りでは、おそらく討伐にはフランクラン以外の冒険者も向かっている。とは言え、魔物の巣が通常ではどれほどの大きさなのかも知らない。ブラントに報せが来ていないということは、おそらくまだ終わっていないということなのだろう。

「フランクランは迷宮専門クランですが、魔物の討伐でも高い実力を誇っているんででしょうか」

「もちろん。そもそも、迷宮専門クランは能力値が高くなければ務まらない。能力値が高ければ、魔物の討伐は楽勝だ。逆に、魔物専門クランに迷宮攻略はできないがな」

「そうなんですか……」

「迷宮専門クランはそもそも実力派揃い。その中であの四人は最高峰なんだ」

「僕はすごい人たちに出会えたんですね」

「運が良かったな」

 他のどのクランに出会っても、これほどまでに親切にしてもらうことはできなかっただろう。六花はそう確信している。彼らのためなら、いくらスキルを使っても惜しくない。彼らがそのためだけに六花を同行させているわけではないことを知っているからだ。

 魔法学研究所を訪れた六花を、セヴィリアンはやはり両手を広げて出迎えた。

「いらっしゃ~い、リッカちゃん! また会えて嬉しいわ!」

「お忙しいのにすみません……」

「あら、いいのよ。頼ってもらえて光栄よ~」

 セヴィリアンの明るい笑みは、それが本心であることを証明している。セヴィリアンが六花を受け入れると確信していたからこそ、フランクランはセヴィリアンのもとに六花を連れて来たのだろう。

「護符の新調かしら?」

「それもあるんですが、スキルを鑑定してもらいたいんです。新しいスキルが身に付いたかもしれなくて……」

 遠慮がちに言った六花に、まあ、とセヴィリアンは頬を両手で挟む。

「成長速度が凄まじいわ! さっそく鑑定させてちょうだい!」

 セヴィリアンは研究員であるからして、異世界から来た六花の能力値が伸びることにこの上ない関心を懐いているのだろう。鑑定結果を待つセヴィリアンは、そわそわと手を握ったり離したりしていた。

 六花のステータスボードを見たセヴィリアンは、はふん、と恍惚の溜め息を漏らす。

「確実に能力値が伸びているわ……! これからの成長が楽しみね……」

「あの……スキルは……」

「あらやだ。そうだったわね。えーっと? そうねえ……この“雪の結晶”というスキルが新しいスキルみたいね」

「ゆき……」

 六花はぼんやりと呟く。脳裏に一瞬だけ浮かんだものは、窓から吹き込んだ風に攫われていく。身震いした六花を見ると、セヴィリアンは窓を閉めに行った。寒いというわけではなかったのだが、何か寒気のようなものが背筋に走っていた。

「効果は『妖霊からの逃走』と『精神的負荷の減少』……転移と回復ね。発動したときはどんな状況だったの?」

「精神的負荷が振り切れそうになったとき、転移して、苦しさもなくなっていました」

「もろ刃の剣ね。精神的負荷の回復はいいけれど、転移しては仲間とはぐれてしまうわ。リッカちゃんには“共鳴”があるからいいでしょうけど……」

 実際、新しいスキル“雪の結晶”が発動して転移した際、六花は“共鳴”を使ってジルと合流することができた。もし“共鳴”がなければ、報せ鳥を使えない六花の発見はもっと遅くなっていたかもしれない。

「魔石では」と、ブラント。「あまり離れていると発見に時間がかかるからな」

「結界も術者と離れることで切れてしまうわ。けれど、自動で発動してしまうみたいね」

 “雪の結晶”が発動したとき、六花はスキルの発動を意識していなかった。そんな余裕すらなかった。それでも“雪の結晶”は発動したのだ。

「リッカちゃんの精神的負荷が振り切れると自動で発動するみたいだわ。雨林では結界が切れてしまったんじゃない?」

「そうですね」

「雨林のような迷宮では、扱いの難しいスキルになるわね。できるだけ発動しないようにしたいわ」

 雨林では、六花は四人とはぐれて正気度がかなり削られていた。今後“雪の結晶”が発動しないようにするためには、護符とマールム晶石を駆使して精神的負荷をすぐ回復できるようにしなければならない。仲間とはぐれなければそこまで正気度が削られることはないだろうが、雨林での出来事のような状況をこの先、避けていく必要があるだろう。

「新しい護符が必要でしょう? 今回は『翠玉すいぎょくの護符』を用意しておいたわ」

「ありがとうございます」

「スキルの強化と、妖霊に当てることで一定時間、動きを止めることができるわ」

「逃げなければならないときに使えそうですね」

「ええ。でも、使用すると護符はなくなってしまうわ。探照灯で逃げられなかったとき用ね」

 これまで六花は、探照灯を使ったことがない。六花の“隠れ身”があれば充分に逃げられるからだ。だが、スキルには充填時間が必要であるため、連発することはできない。そういった際に探照灯を使う。魔具鞄マジックパックにもいくつか入っており、それを使い切った際にこの護符を使用するのだろうが、おそらく探照灯が足りなくなるときはないだろう。フランクランを見ていると、必要すらないのではないだろうかと思ってしまう。

「次の迷宮情報は出てなかったわね」

「ああ。まだ報せは来ていない」

「それから、明日はリッカちゃんものんびりできつといいんだけれど……」

 迷宮は放置することができない。迷宮の瘴気に引き寄せられた魔物が、今回のように街の近くで巣を作る。フランクランが毎日、攻略に行っているのに魔物の巣が発見されたということは、迷宮は他にも出現しているのだろう。六花ものんびりしたいのは山々だが、迷宮を放置することができないのは知っている。のんびりしている場合ではないときもあるだろう。

「もし情報が出ていても、無理して同行する必要はないわ。フランクランにいく依頼は、迷宮攻略の中でも厳しいものだから」

「迷宮専門クランの最高峰ですからね……」

「そうね。無理はしないようにね」

「はい」

 また会えたら嬉しいわ、と微笑むセヴィリアンに見送られて魔法学研究所を出ると、ブラントのそばに報せ鳥が届いた。軽く触れて報せ鳥を解いたブラントは、明るい笑みになる。

「討伐が終わったようだ。あいつらも帰って来るぞ」

「よかった……。みんな、無事なんですよね」

「そうだろうな。あいつらが無事で済まないなら、他の迷宮者は致命傷を負っていてもおかしくないさ」

 確かにその通りだろう、と六花は考える。あの四人は能力値が高い。よほどのことがなければ倒れることもないはずだ。それについて報せがないなら、彼らは無事なのだろう。そう考えて、六花は安堵に胸を撫で下ろしていた。




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