剣の道

 律峰戒の大音声が空気を震わせる。しかし九珠は威圧されて立ちすくむどころか、俄かに湧き起こった高揚感に目の前がぱっと開けたような心地がしていた。


 あの父が、自分を一人の相手として認めてくれた。絶対服従の奴隷としてではなく、互いに剣と技を競わせる相手としての言葉を初めてかけられたのだ。


 期待に胸が高鳴り、喜びに心が躍る。この男に自分が勝ることを知らしめれば、今度こそ律家との関係は消える。それも後ろ暗い復讐ではなく、正々堂々の競い合いで晴れて自由の身となるのだ。あとに残るのは簫九珠という一人の人間のみ——簫九珠という剣客の、真の道の始まりだ。

 簫無唱をうかがえば、背中を押すように無言で頷いてくれた。いくらか力の戻った瞳は、弟子の門出への期待と応援に満ちている。


「気を付けて」


 江玲は一言告げて簫無唱を自分の肩に寄りかからせた。九珠は二人に頷くと、律峰戒に歩み寄った。


 律峰戒は剣を腕から一直線になるよう構えて仁王立ちしている。九珠は深呼吸すると、ずっと背負ったままだった剣の柄に手をかけた。

 ゆっくりと剣を抜けば、観衆が驚きの声を上げる——九珠の背中に収まったまま抜かれることのない剣は、事実皆の好奇の的だった。それが今、半分に折れた無様な姿を晒している。

 これには律峰戒も意表を突かれたのか、わずかに目を丸くした。


「いつ折った」


「私が戻らなかった日に」


 詰問されるような口調ももう気にはならない。今この場の己は剣に握られた奴隷ではなく、剣を操る者なのだ。


「だから剣を使わぬ女を師と仰いだのか?」


 律峰戒は今度はあからさまな嘲笑を浮かべている。九珠は静かに「否」と答え、深く息を吸って剣を寝かせた。


「武器の有無は関係ない。あの日巡り会ったのが誰であれ、その人が語る剣の在り方で私は次の道を決めていただろう。簫無唱師父に師事すると決めたのは、師父の語る剣に私自身が納得したからだ。そこであなたが正しいと感じていたら律家に戻っていた、それだけのことだ」


 あれほど恐ろしかった律峰戒の言葉が、まるでそよ風のように耳を撫ぜていく。九珠は清々しい気分で、しかし呼吸はしっかり整えて律峰戒と向き合っていた。今はまだ、互いに最初の一手を探り合っている段階だ――そして対戦前のに油断するような手合いは律峰戒には勝てない。江湖ではもっぱら敗者として語り継がれている男だが、彼ほど内外の評に差がある男もそういないということを九珠は身をもって知っている。


「……ほざきおって」


 律峰戒が舌打ちとともに吐き捨てる。剣がチカリと日光を反射した刹那、大波のような殺気が九珠に襲いかかった。

 ギイン、と耳障りな音がして、双方の剣が交わり合う。数手のうちに、九珠は律峰戒の本気の剣を思い知らされた。今まで鍛錬やしつけと称して振るわれていた剣よりもずっと重く、強く、そして速い。同じ律白剣譜でも九珠の兄たちとは——教える者としての律峰戒と比べても、動きが段違いだ。


 簫無唱を静寂、常秋水を鋭利さと取るならば、律峰戒は威力だ。目の前のものを全てなぎ倒し、制圧することに全力を賭すのが律峰戒の剣だ。そしてそれを叶えるための意地と執念を、意地を通すに十分な力と才を律峰戒は持っていた。だからこそ覇道を進むことができたのだ。だがそれは、押し通ることができなければ瞬時に崩れる脆い道でもある。九珠は今、剣客として戦って初めて律峰戒の剣の道を理解した——そして、道が断たれたときの律峰戒の絶望は自分には理解できないと悟った。憐れには思うが、それだけだ。


 それでも。


 律峰戒がそうであるように、九珠にも譲れないものがある。この男を再び絶望の淵に追いやることになろうとも、辿るべき道がその先にあるのなら迷いはない。育てられた恩、授けられた剣、失ったものの全てを賭すに値する。


 振り下ろされる剣を弾き、流れのまま逆手に持った剣を横ざまに振り抜く。九珠が攻めれば律峰戒が防ぎ、律峰戒が攻勢に転じれば九珠が防御に回る。対等な手合わせは初めてでも、親子として、師弟として過ごした二十数年の研鑽は骨の髄まで染み付いている。


 刃と刃が擦れて火花が散り、絶えず響き渡る金属音で耳がどうにかなりそうだ。だが、耳を聾する剣戟の音の中に、相手の息遣い、自分の呼吸、地面を踏み締める足音がかすかに混ざっている。全身全霊を傾けて戦う九珠にはそれで十分だった。一手を重ね、一招を放つたびにあらゆる感覚が研ぎ澄まされていく。九珠はこのとき初めて「己の身を剣とする」ことの真髄を悟っていた——手も、足も、絶え間なく判断を下す頭でさえもが手の中の剣と一体になっている。律峰戒が剣に力を込めるほどにその感覚は強くなっていった——剥き出しの殺気もぶつけられる怒りも、己という刃を研ぐための石に過ぎない。切っ先が服を裂き、肌をかすり、ピリリと鋭い痛みをもたらすのも構わず、九珠は律峰戒の懐に潜り込んだ。咄嗟に突き出された掌底に逆手に持った柄をぶつけ、衝撃に乗って後退する。十分な間合いが開けたとき、九珠は九天剣訣の構えを取った。


「小癪な!」


 律峰戒の雄叫びが空気を揺らす。素早く取られた構えは律白剣譜だった。

 最も強力な技が来る、九珠はそう感じる間にも第九式に備えて内功を練っていた。持てる限りの内功を一気に放出する第九式は九天剣訣の最終の技にして最強の技だ。


 視線が絡み合った瞬間、二人は同時に飛び出した。剣気が炸裂し、刃が閃き、一際高らかな気合いの声とともに最後の技がぶつかり合う。


「何故あの女の真似をする? あの女の二の轍を踏ませぬよう、俺がどれだけの犠牲を払ったと思っている!」


 剣戟の音の間を縫うように律峰戒の怒鳴り声が聞こえる。


「何年師事しようと何を学ぼうと、お前は李玉霞にはなり得ない! お前は死ぬまで律家から逃れられんのだぞ!」


 かつての九珠なら、律峰戒の言葉に自らの命運を思い知らされ、思考が真っ暗になっていたところだ。

 だが、九珠はもう、そんな言葉で惑わされる少女ではない。李玉霞の弟子として江湖を渡り歩く覚悟もできている。


「当たり前だ。私は李玉霞ではないし、彼女になり変わるつもりもない」


 九珠は生まれて初めて真っ向から父親に反論した。そして、初めて本気で刃を向けた。

 静寂の中、互いの呼吸だけが聞こえてくる。いつも見上げていた律峰戒、その太い首の側面に、九珠は半分だけの剣を押し当てていた。


「私は私だ。私は……九珠は、自分の道を行きます」

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