夜談

 九珠と飛雕は春秋荘で一夜を過ごした。さすが江湖の名家とあって、貸し出された夜着も寝具も上質な生地を使ったものだ。律家の冷たい寝床や硬く質素な寂寧庵の牀とは大違いで、九珠は逆にまんじりともできずに透かし窓に昇る月を見つめていた。

 隣室からは飛雕の深く安定した寝息が聞こえてくる。九珠はそれを聞くともなしに聞きながら、知廃生の言葉を繰り返し考えていた。


 もしも簫無唱が、本当は李玉霞だったら――超えろ超えろと言われ続け、剣以外の全てを捨てさせられたその相手が、知らないうちに教え教えられる関係になっていたのだとしたら。


 李玉霞の九天剣訣といえば、今でも江湖最強の剣術として名高い剣譜だ。特に彼女の全盛期を知る年長者たちには、彼女の時代を懐かしむ者も多くいる。群侠が乱立し、誰もが最強の称号を求めて火花を散らす中にあって、李玉霞は頂点を極めていた。龍虎比武杯で優勝したことはもちろん、自身に挑む者をことごとく退けたその実力は誰の追随も許さなかったし、「江湖剣界の女帝」とまで言わしめた彼女の名声は姿を消した今もなお、彼女を知らない若者の間にまで広く知られて衰えることを知らない。いつの時代も夜空に変わらず浮かぶ月のように、彼女の名は未だ燦然と輝いているのだ。


 そういえば、律峰戒はことあるごとに李玉霞の名を持ち出していた。手放しで賞賛したかと思えば次の瞬間には憎しみをぶつけ、恨みつらみを吐いたかと思えば彼女の時代を懐かしむ、九珠はそんな調子の父親に「李玉霞を超えろ」と言われ続けていた――しかし、九珠自身は律峰戒が彼女に執着する理由が分からなかった。

 父は強い。が、その父にここまで言わせる彼女はもっとすごいのだろう。


 彼女に会ってみたい。九天剣訣をこの目で見てみたい。李玉霞についてこんこんと語る父親を見ていた幼い九珠の心にあったのは純粋な興味だった。あの頃は私も強くなりたい、剣術がやりたいと無邪気に笑っていたが、あのときの楽しさは簫無唱に師事するまですっかり忘れていた。


 九珠はおもむろに起き上がると、上衣を羽織って外に出た。廊下を歩きながら夜着の前を整え、元々ない胸をさらに潰す布を隠す。



 ひっそりと静まり返る庭に降り立つと、すっと立ち尽くす人影が見えた。くるりと振り向いたその人は常秋水だ。


「何かあったのか」


 相変わらずぶっきらぼうな第一声に、九珠は静かに首を横に振った。


「どうにも目が冴えるので散歩でもと思い」


「そうか」


 常秋水が素っ気なく答え、二人の間に沈黙が流れる。

 しばらく経ってようやく口を開いたのは常秋水だった。


「お前はなぜ剣を抜かない」


「私のこの身が剣だからです」


「それは師匠とやらの受け売りか? それともお前がたどり着いた境地なのか」


「ある部分では受け売りでしょう。師の教えを読み解くことはできても、自力で新しい境地を悟れるほどの実力は私にはありません」


 九珠の答えを吟味するように常秋水は長く息を吐く。やはりその程度と見限っているのか他の思惑があるのか、つくづく内面の読めない男だと九珠は思った。


「だが、ただ師の言うとおりにしか剣を扱えないなまくらどもと比べたら、お前の剣は遥かに研ぎ澄まされている」


 常秋水は庭の真ん中の池をじっと見つめたまま、九珠の方を見もしない。九珠はその視線の先を一緒になって見ながら


「晩輩にはもったいないお言葉です」


 と返した。


「良い師に巡り会えば才は自ずと実るが、お前の剣は天賦のそれだ。律峰戒の教えでもある程度は知られる存在になれただろう。そうしなかったのは賢明だ。道を見失った者に先導は務まらない」


 そう話す常秋水の横顔にはどこか哀愁が漂っていたが、九珠はそれには触れずに「師父も同じことを言っていました」とだけ言った。


「勝ち続けることが剣の真髄とは律峰戒も堕ちたものだ、と。あの時の私は律峰戒こそが正しいのだと思い込んでいたので、思いきり反論したのですが……」


「思い知らされたか。二人の差を」


 常秋水は愛想もなければ遠慮もなく、全ての言葉が単刀直入だが、九珠はそんなことは気にしないとばかりに素直に頷いた――過去は二度と還らず、事実は認める以外に扱いようがない。簫無唱が律峰戒より強ければ、九珠がそれを認めた瞬間から彼らの順位はそうなのだ。事実、簫無唱は実力も人となりも律峰戒より優れている。そして常秋水は、そんな九珠の心中を誰よりも分かっているようだった。


「律峰戒は——あいつは剣の道に巣食う鬼に取り憑かれたのだ。勝利を渇望するあまり他のものが目に入っていない。ある意味では俺のせいだが」


 常秋水は一瞬遠くを見るように視線を彷徨わせたが、すぐにため息をついてかぶりを振った。


「しかし剣とは強さを語る道具ではない。私もかつて思い知らされた。闇雲に強さを求めても何にもならない。強さの裏には『おのれ』が必要なのだ――何事にも揺るがず、何人を相手にしても崩れることのない泰山の如き己が。強さが己になってしまっては本末転倒だ」


 九珠はもう一度無言で頷いた。三尺掃塵が青二歳の自分に自ら話しかけてくれている、この事実だけで十分だ。


「お前は、私を恨んでいるか?」


 唐突に常秋水が尋ねた。


「あなたを、恨む?」


 九珠は面食らい、おうむ返しに口走ってしまった。常秋水は頷き、まるで取り返しのつかない禍根を思い出すかのように眉間にしわを寄せた。


「ああ。お前を奴の剣の奴隷にしたのは私とも言えるのだからな。大方奴の仇討ち名簿の筆頭にあるのは私の名前なのだろう」


 九珠は目を瞬いた。何が起きても受け入れるしかなかったあの年月では、そもそも誰かを恨んだり憎んだりする暇がなかったからだ。解放された今でも、正直それは変わっていない。


「……たしかに、律峰戒の究極の目的はあなたと李玉霞を倒すことでした」


 九珠はゆっくりと口を開いた。


「ですが私自身、誰かを恨めしく思ったことはありません。憎んだこともありません……私自身の怨恨で誰かを倒したいと思ったことがないのです」


 常秋水はわずかに眉を持ち上げて答えた。「話せ」と促されたような気がして、九珠は迷わず次の言葉を探す。


「私が戦ってきたのはどれも律峰戒の敵です。師父の教えを受けた後も、誰かが倒したい相手を代わりに倒してきたに過ぎないのです……正直、彼らは私にとってただの叩き台でしかありませんでした。私が戦うのは彼らが憎いからではなく、彼らと戦うことで私自身が高みに近付くからです。それだけの相手に思い入れることはありません」


 常秋水は少しの間何も答えなかったが、やがて腑に落ちたようにぽつりと呟いた。


「成程。するとお前は生粋の戦士ということか」


 九珠が目を丸くすると、常秋水はなんでもないというふうに手を振った。


「もう遅い。私は部屋に戻る」


 常秋水は手短に告げると、さっさと踵を返して行ってしまった。

 残された九珠は常秋水の言葉を反芻することしかできなかった。生粋の戦士と言った常秋水の声と顔だけがいやに頭にこびり付き、床に戻っても離れなかった。

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