帰郷

 翌朝、九珠と飛雕は知廃生とともに街に繰り出した。如竹の押す車椅子に収まって通りをゆっくり巡りながら、知廃生はお気に入りの屋台や道具屋、茶楼を楽しそうに紹介していく——そして最後に知廃生は二人を金物屋に連れていった。


「瑞州の人間は包丁やなんかが壊れたら絶対ここに来る。店主の腕が最高でね、頼めば何でも見てくれる。……それにこの店主、ここに来る前は宮廷で罪人の首を刎ねる仕事をしていたなんて噂でね、だから何をどんな刃で切ればいいのか知り尽くしているらしい」


 知廃生は九珠たちに顔を寄せさせ、扇子で口元を隠して小声で言った。ぎょっとして後ずさった飛雕に悪戯っぽく片目を瞑ると、知廃生は如竹に中に入るよう促した。


「やあ、老闆ご主人


 鷹揚に声を上げる知廃生に続いて、九珠と飛雕は店に足を踏み入れた。

 まだ午前中とはいえ、日はすでに高いところまで昇っている。だというのに、一面の刃物に囲まれた店内はいやに暗くて薄ら寒かった。赤々と燃える炉さえも熱いように感じられず、その明かりの中にいる強面の男は鄷都関の凶手よりもよほど地獄の使者に相応しい雰囲気を醸し出している。


「……また弟の剣か」


 低く唸るような声で店主は言った。たった一言聞いただけでもたしかに北方のような訛りがあり、江湖人とは別種の異様さが漂っている。


「いや。今日は友人を紹介しようと思ってね」


 知廃生はたじろぐことなく、いつものように飄々と応えた。知廃生が扇子を振るのに合わせて店主の暗く光る目がぐるりと巡らされ、九珠と飛雕は揃ってどきりとした——武功があるようにはとても見えないのに、下手に動けば殺されてしまいそうな凄みだった。ここまで恐ろしい雰囲気は江湖一凶悪な殺人鬼にも出せないだろう。岐泉鎮の人々ならは絶対に受け付けないであろう空気感だ。

 店主は九珠たちをじっと見つめ直しいたが、やがて低い声で「江湖の奴らか」と言った。


「蘇口に行くのか?」


「いえ。次の行き先はまだ何も」


 九珠が答えると、店主はふむと呟いた。


「近頃お前らみたいなのが多い。聞けば皆蘇口に行くと言う」


「そうだったのか。たしかに蘇口に船で行くならここは通り道だ」


 知廃生が言うと、店主はうむと頷いた。


「たしかにここ数日は江湖の顔をよく見かける。蘇口で何かあるのか?」


 知廃生がさりげなく尋ねると、店主は「武術の大会があるらしい」と答えた。


「鄧なんとかという奴が主催だそうだ」


「蘇口の鄧……鄧令伯か?」


 九珠が独り言のように呟くと、店主は暗い目を九珠に向けて


「たしかそんな名前だった」


 と言った。


「成る程。ここは船着き場にも近いからな、皆寄りやすいのだろう……」


 知廃生がそう言ったとき、入り口でザッと足音がした。次いで背の高い影が外の光を覆い隠し、「老闆」と無愛想な声を上げる。

 振り返った九珠たちの前にいたのは、鞘を握りしめた常秋水その人だった。


「蘇口に行く。剣を鍛えろ」


 部屋着のような格好に波打つ髪も結わず、中の暗さも気にせずに、常秋水は敷居を跨いでずかずかと店主に近づいた。


「秋水。お前も鄧令伯の話を?」


「否」


 驚く知廃生に常秋水は手短に答え、店主に向かって剣をぽんと放った。


「蘇口で剣客の集まりがあると聞いた。たまには体を動かすのも悪くない」


 常秋水は知廃生に答えているようで、その目は店主をじっと睨んでいる。九珠と飛雕は顔を見合わせた。


「常秋水の言う集まりと老闆の言う鄧令伯の武術大会って、同じじゃないのか?」


 飛雕が困惑したように九珠に耳打ちした。九珠も常秋水たちを窺いながら答える。


「そんな気がするが……しかし一介の商人が催した武術大会に三尺掃塵が参加したとなると、鄧令伯の名は確実に上がる」


「だな。それに龍虎比武杯でもないのに江湖じゅうから人が集まってる」


 二人はひそひそ話しながら、言葉少なに会話する店主と常秋水、二人の間に入って話を進める知廃生をちらりと見やった。


「でも朱って金持ちの大会で聞いたときには、まさか鄧令伯がここまで力を持ってるとは思わなかったぜ。ただの物好き商人だとばかり思ってた」


 飛雕が小声で言い、九珠が無言で頷く。しかし、次の飛雕の問いに九珠はすっかり驚き、素っ頓狂な声を上げてしまった。


「どうする、大哥? 俺たちも鄧令伯のツラを拝みに行くか?」


「はあ?」


 思わず大声を上げた九珠に、話し込んでいた男たちが顔を上げた。ごまかそうとした矢先、常秋水がぐりんと振り向いて九珠に歩み寄る。


「なんだ。行かないのか」


「いえ、そういうわけではなく……」


 九珠は慌てて訂正しようとしたが、ここで口をつぐんだ——落ち着いて考えれば、行かない理由が見つからない。

 黙り込んだ九珠に、常秋水が目を爛々と輝かせる。後ろの方で知廃生が苦笑しているのがちらりと見えた。


「では決まりだ。蘇口に来い」


 常秋水はそう言い残すと、店主にひらりと手を振ってすたすた立ち去ってしまった。

 


***



 蝋燭の灯りだけに照らされた夜の寂寧庵。

 蘇口に向かう途中で岐泉鎮に寄った九珠は、これまでの旅を簫無唱に語っていた。岐泉鎮を出て最初に相手をした悪党のこと、放浪の日々、鄷都関の事件と飛雕との出会い、知廃生と偶然に知り合ったら常秋水に招待されたこと——李玉霞についての推論を除き、九珠は全てを簫無唱に話した。


 簫無唱も珍しく口元に微笑を浮かべ、軽く頷きながら聞いていた——ところが、九珠が飛雕と共に鄧令伯を訪ねて蘇口に行くと告げると、途端に笑みが消えた。


「……それで、蘇口に行くと」


 簫無唱は固い声で言った。まるで蘇口が悪人だらけの忌まわしい街だと言わんばかりだ。


「蘇口がどうかしたのですか? 師父」


 九珠が聞き返すと、簫無唱はゆっくりと目を瞬いた。


「蘇口は良い場所です。瑞州も美しい町ですが、蘇口はそれよりも優美で、風雅で、同時に明るく活気に満ち溢れている。旅の目的地としては申し分ありません」


 この答えに九珠は首を傾げた。簫無唱は茶を一口飲み、「ですが」と先を続ける。


「鄧令伯は知り合って良い男とは言えません。あれは狩場の獲物を全て手中に収めることを常に考えている猛獣です。目を付けられたが最後、あいつはどこまでも追ってくる——大切な弟子にその危険を冒させたいとは私は思いません」


 簫無唱は眉間にわずかにしわを寄せて一息に捲し立てた。激昂はしないまでも嫌悪と怒りをここまで滲ませる簫無唱は初めてだ。

 九珠は面食らうあまり咄嗟に答えることができなかった。が、九珠が答えるより先に簫無唱の静寂が戻ってきた。


「ですが彼の審美眼が特殊であるのもまた事実。誰も彼もと付き纏うような男ではありませんし、下心ありきで動く男でもありません。それに今回のような催しは滅多とない機会。あなたが知見を広めたいというのであれば私は止めません……あなたが標的になるとも限らないのですし」


 九珠は戸惑いながらも頷いた。まるで嫌な予感はするが、何も起こらないから大丈夫だと簫無唱が自分自身に言い聞かせているような言い方だ。


「あと、これだけは覚えておきなさい」


 九珠の困惑に気付いているのかいないのか、簫無唱は念を押すように九珠を見据えた。


「義弟や常秋水たちがどう言おうと、あなたはそれを断ることができます。今回の蘇口行きもあなたが真に望まないなら辞められる、それを頭に置くのです。良いですね?」



 そして迎えた翌日の朝、出立のときは以前と同じように静かにやって来た。

 身支度を整え、背中に剣を渡す九珠を簫無唱は何も言わずに見守っている。くるりと振り返った九珠に簫無唱がそっと頷くところまでは、最初に寂寧庵を発ったときと変わらなかった。

 しかし、九珠は以前のように「行ってまいります」と言う前に、「師父」と簫無唱に呼びかけた。


「実は瑞州で奇妙なことを聞きました……どうも私の太刀筋は李玉霞を思い出させると。それに常前輩せんぱいが言うには、私が師父から教わった剣譜は九天剣訣なのだと」


 九珠は慎重に言葉を選びながらも、言われたままを告白した。江湖では見た目や身分はごまかせても、身につけた武功は嘘をつくことができない。確証はないとはいえ、九珠が簫無唱から九天剣訣を教わったということは、簫無唱と李玉霞に何らかの関わりがあるのは間違いないのだ。

 最初はこのことを話すべきかどうか迷っていたが、どうしても気になって仕方がなかった。ならば旅立つ前にと決心した九珠だったが、簫無唱はわずかに目を丸くした以外表情を変えなかった。


「……常秋水や知廃生が言うのならと、そう思ったのですね」


 簫無唱はいつものように淡々と答える。どんな重大な秘密が隠されているのかと身構えていた九珠は肩透かしを食らった気分だった――落胆が顔に出たのだろう、簫無唱はほんの少しだけ笑みを湛えて、まるで聞き分けのない子どもに言い聞かせるように言った。


「たしかに、肉体を以て剣と為す剣客はそういません。あの常秋水でさえ剣を持っているのですから尚更です。ですが、九天剣訣を誰に直接伝授したのか、それを知るのは李玉霞ただ一人。彼女の剣を受け継いだ弟子が自身の弟子に九天剣訣を教えていても、李玉霞は知る由もないのです」

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