推論

 春秋荘は広大な敷地を持つ屋敷で、品良くまとめられた客間から扉がずらりと並ぶ廊下、見事な造形の庭(常秋水が散々鍛錬に使ったのであろう跡が大量に残されていたが)、立派な祖廟、数々の武術についての知識がぎっしり詰まった蔵書室と、どれも並大抵の家では建てられないほどほ規模だ。しかし九珠たち以外の人影はどこを探してもなく、不思議に思った飛雕がそのことを尋ねると、梅凛はそのわけを教えてくれた。


「瑞州の春秋荘は秋水様の私邸なのです。先の持ち主に子がなかったために秋水様に譲られました。秋水様は私以外に侍従を持つことを好みませんので、私と知先生の付き人の如竹だけがここにいるのでございます」


「でも、知廃生の方が年上なんだろう? 普通こういうのは兄が継ぐもんだし、知廃生もまだまだ呼び声高いだろうに、なんで弟の常秋水なんだ?」


「知先生は責任を好まれないのです。お体のこともありますが、何より隠居が性に合うのだと仰ってましたわ」


 梅凛は可愛らしい顔立ちだが表情に乏しい少女で、何を聞いても仏頂面で淡々と答えるのが常だった。



 日が暮れると梅凛と如竹は揃って厨房に引きこもり、次に出てきたのは夕餉の時間だった。

 招待客がいるからと四人分の食事が供されたものの、比較的話し好きの知廃生と気が向いたときに二言だけ口を利く常秋水、さらには横に控えてじっと押し黙っている如竹と梅凛に囲まれての夕餉は重苦しいことこの上なかった。とはいえ、律峰戒の腹の虫が支配する律家の食卓と比べればどうということはない。なるほど武術家の一族というものは少なからず癖があるものだと九珠は一人納得したものの、飛雕は落ち着かない様子で右を見たり左を見たり、知廃生に少し質問を投げかけては答えを聞いてまた黙るといった調子だ。

 とはいえ、飛雕はこの兄弟に探りを入れることに成功した――飛雕は大胆にも九珠のことをどこで知ったのかと尋ね、具体的な答えを引き出したのだ。


「元々九珠という名の若い剣客がいることは知っていた」


 知廃生は九珠を見ながらさらりと答えた。


「ただその時は律と名乗っていたけれどね。それが一年ほど名前を聞かなくなって、次に聞いたときは簫という名に変わっていた。鄷都関の一件を聞いたときは新しく名を上げた青年がいるのかと思ったが、この目で見てよく分かったよ。簫九珠は律九珠なのだと」


 九珠はどきりとして食事の手を止めた。己の素性など技を見られればすぐにばれると割り切ってはいたものの、いざ一目で見抜かれたとなるとやはり気持ちの良いものではない。


「もしやあの時に、私たちを見定めていたのですか」


 九珠は同時に、初めて知廃生と会ったときのことを思い出していた。いくら体が不自由でも、あのごろつきが手を出したのは五招妙手その人だったのだ。あの程度を自力でどうにかできないはずがない。

 九珠のこの読みは的中した。知廃生はあっさり頷いてみせると、茶杯をくるりと回してこう言った。


「ああ。もっとも、あれには我々兄弟の世間体もあるのだけれどね。表向きには足の悪い兄を養っている弟ということになっているから、私があんまり動くと瑞州という拠点が危うくなる」


 結果として良いものが見れたがね、知廃生はそう言って茶を飲み干した。


「気が済んだか」


 話が終わったと見るや、常秋水がぶっきらぼうに飛雕を睨みつける。飛雕はびくりと肩を跳ねさせると、逃げるように料理をがっつき始めた。


「次はこちらの問いに答えてもらおうか。簫九珠」


 鋭利な剣のような視線の先が九珠に移る。九珠が無言で頷き返すと、常秋水は前置きもなしにこう聞いた。


「お前と李玉霞はどういう関係だ」


「他人同士です。私も彼女の伝説を聞いて育った若者に過ぎません」


 単刀直入な常秋水に、九珠も一切の回り道をせずに答える。案の定、納得できないというふうに常秋水の眉が跳ねたが、常秋水は今度は自力で苛立ちを収めた。


「しかしお前の使う剣法はまさしくあの女の九天剣訣ではないか。あれは彼女が編み出した唯一無二の剣術で、継承者も絶えたと聞くが」


「これは私が師父より教わった剣譜です。直接の関わりがあるとすれば彼女の方かと」


 九珠が答えると、常秋水はフンと鼻を鳴らして独り言のように言う。


「たしかに、律峰戒に李玉霞の真似事はできんんだろうな。私とてできないが、あいつは尚のこと無理だろう」


 九珠は肯定も否定もしなかった。百人の剣客がいれば百通りの剣があると簫無唱が言ったとおり、江湖は誰かの真似では通用しない世界なのだ。


「ではその師とやらは李玉霞の知り合いなのだな?」


「可能性があるとすればです。私がこの剣術を初めて教わったとき、師父は自分もまた他の剣客から教わったのだと言っていました」


 九珠が答えると、常秋水は考え込むように眉間にしわを寄せる。九珠を疑るというよりも純粋な疑念に近い色がそこにはあった。


「剣譜は時が経つほど質が変わっていくものだ。人を介し伝承を重ねるにつれて、良くも悪くも中身を変えていく。だがお前の九天剣訣はそうではない。かつてこの身で体感したものと非常に近しい……皆が李玉霞の再来と噂するのも頷ける」


 そう言った常秋水の顔には懐古の色がありありと浮かんでいた。かつての一戦――今なお江湖で語り継がれる龍虎比武杯での決戦を思い出しているのだ。


「李玉霞の再来……」


 九珠は常秋水の言葉を口の中で転がした。いつの間にそんな大それた話になっていたのかと驚く一方、かの英雄になぞらえられる気分は悪くはない。簫無唱との出会いがあったおかげとはいえ、律峰戒抜きで江湖で評価されると俄然誇りが湧き上がる。


「秋水、それに簫殿も。ひとつ重要な可能性を見落としてはいないかね?」


 ふと口を開いたのは知廃生だった。温厚そうな双眸はにわかに好奇心で輝き、今すぐにでも謎を暴きたいといった面持ちだ。


「どんな可能性ですか」


 常秋水が尋ねると、知廃生はまるで重大な秘密を打ち明けるかのように言った。


「簫殿のご師匠が李玉霞という可能性だよ。私も彼の動きを見て李玉霞を思い出したが、これだけ伝承が正確ということは本人に直接教えられたとは考えられないかね?」


 その推測に驚くあまり、九珠は持っていた箸を取り落としてしまった。飛雕も負けず劣らず目を丸くし、「そんな、まさか!」と大声を上げる。

 常秋水だけが落ち着いた顔で少し考え、「成る程」と呟いた。


「一理ある。それに李玉霞の生死は誰も知らない」


「そんなこと言ったって、公天鏢局には一人の生き残りもいないって話じゃないか。それに李玉霞もあそこで死んだんだって皆言ってるし……」


 飛雕がわっと反論する。しかしそれは知廃生の冷ややかな返答に取って代わられ、飛雕は再び黙らざるを得なかった。


「ならば、誰か彼女の死体を見たという者は? 彼女が兇刃に倒れ、あるいは炎に飲まれるところを見たという者は? 誰もいないだろう……つまりはそういうことだ。君も江湖人なら分かるはずだ」


 押し殺したような沈黙の中、知廃生は茶を一口飲んで喉を潤す。そして茶杯を回し、揺れる水面を見つめて独り言のように言った。


「もちろん、簫殿のご師匠に会ってみないことには確かなことは言えないがね。今のところ、どの話も噂話に過ぎないのだから——口伝を重ねて曖昧になった、あらゆる可能性に満ちた、ね」

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