招待
常家は、律家や今は無き公孫家と同じく江湖に身を置く一族だ。律家が律峰戒を、公孫家が公孫逸を輩出したように、常家はかの常秋水を生んだ家として知られている。
しかしこの二家と違い、常家の子孫は各々が武の真髄を求めて中原じゅうに散らばっており、各地に分家があると言われていた――その内のひとつが、ここ江南のどこかにあるとも。すんとして表情に乏しい娘について歩きながら、九珠と飛雕はこれは一体どういうことかと小声で話し合った。
「でもおかしいよ。常家春秋荘といえば余程の大物でないとまず招かれない場所なのに」
「同感だ。或いはお前が常家の者と関わりを持ったか……」
「まさか。俺みたいな山育ちがなんだって常家と?」
「可能性の話だ。そうとは知らず杯を交わしたことがあるかもしれない」
「絶対有り得ないよ。それを言うなら、大哥の師匠が常家の出っていう可能性は? たしかどこの出身か知らないんだよね」
「知らない。だが、彼女の剣は常家のそれとは違う。少なくとも父上が実演して見せてくださった常家の剣法とは別物だったから、常家の出ではないと思う」
九珠が今までの修行を思い出しながら答えると、飛雕は「嘘だあ」と眉を吊り上げた。
「じゃあ誰が常家の人間なんだよ。秦亮の爺さんとか?」
「それこそあり得ないだろう。常家の者なら長柄ではなく刀剣を使うはずだ」
九珠は飛雕の反論にさらに言い返しつつ、今まで出会った中で可能性のある人物を頭の中に並べていった。だがどの人物も、市井の人だったり常家らしからぬ武術を使ったりといまいち決定打に欠ける。
娘は瑞州の中心地を離れ、裏路地を抜けて人通りの少ない方へと九珠たちをいざなう。道中の目印となりそうな建物を確認しつつ、九珠が最後に思い浮かべたのは知廃生の顔だった。
「……もしや知廃生が?」
口に出して呟いたとき、突然道が開けて巨大な邸宅が目の前に現れた。驚く九珠たちを尻目に、娘は「春秋荘」の扁額のかかった門を力強く叩いた。
「
凛と鋭い声で娘が呼ばわると、門が内側から開かれる。そこにいたのはやはり、車椅子に座して如竹を後ろに従えた知廃生だった。
「どうやらこの名もまだまだ捨てたものではないらしいね」
呆気に取られる二人の前で知廃生は飄々と笑う。
「梅凛、お二人を中へ」
知廃生は梅凛に呼びかけ、次いで如竹に合図して屋敷の中へと引き返していく。しかし九珠と飛雕はぽかんと立ち尽くしたまま、明らかに分不相応なこの場所に立ち入るべきかどうか迷っていた。
どれほど壮大な野望を抱いていたとしても、自身の江湖での立場は弁えなければならない。無名の若輩者ならなおのこと、下手を打って自ら道を断つような真似はするべきではないのだ――常家の春秋荘に闖入することはその筆頭格と言える。
動けずにいた二人は、梅凛に促されてようやく春秋荘の敷居を跨いだ。
全てが馬鹿でかい以外は、一歩踏み入れたときの光景は市井の金持ちの邸宅とそう変わらなかった。しかし、影壁を越えた途端に異変は現れた——母屋までの庭は壁から石畳まで、全て大小の刀傷に覆われていたのだ。
一瞬面食らったのも束の間、さらに九珠はただならぬ気配を感じて眉を吊り上げた。
「退け!」
一声叫んで横を行く飛雕を押し倒した刹那、激烈な剣気が九珠がいた場所を直撃した。石畳が弾けて穴が空き、砕かれた破片が飛散する。九珠ががばと起き上がり、ぐるりと庭を見回すと、正面の建物の屋根に抜き身の剣を構えた男が立っているのが目に入った。
九珠は男を睨んだ――方向から考えても先の剣気はあの男が放ったものだ。軽く結った髷に波打つ長髪、片足に重心を置いて軽々と平衡を保っているが、九珠を見下ろす双眸と斜め下を向いた長剣からは底冷えのするような敵意が漏れている。
「剣を抜け」
低く地を這うような声で男が唸る。
「抜かぬ。私のこの身こそが剣だ」
九珠は男を見据えたままはっきりと答えた――すると男はその答えを聞くや足元の瓦を蹴り、九珠に向かって飛び出した。怒涛の勢いで迫る間にも男は剣を一振りして構えを取る。
対する九珠は男を見据えたまま右手に剣指を作って丹田に力を集めた。体の内側でぶわりと力の渦が巻き上がり、体を持ち上げられるような錯覚に陥る。九珠は深く息を吐くと身を翻し、突っ込んできた男を避けるや自身も攻撃を繰り出した。男は剣を地面に突き立てて再び宙に飛び上がり、九珠の一撃は地面を穿つ。男は空中で体を捻って九珠を捉え、着地すると同時に次の一手を繰り出した。その素早く途切れないこと、まるで書の達人が一筆のみで詩を綴っていくかのようだ。一方の九珠は右に左に攻撃を避け、合間を縫っては剣指を捻って反撃した。それが阻まれ、避けられ、逆に攻撃に利用されても、九珠は動じることなく男の剣に意識を集中させた。一本の剣とふたつの剣指、人と剣が目まぐるしく交差し、地面や遠くの壁にまでその軌跡を残していく。その間九珠が優勢に立つことはなかったが、男もまた九珠の防御を崩すことはできなかった。
男の剣は一手一手が軽妙で鋭く、剛直で、圧倒的なまでに強い。一招の技、一手の動きが洗練されて美しいが、その裏に荒々しい闘志が見え隠れするという、芸術家のようでありつつ貪欲な剣士だった。一方の九珠は柔に剛に立ち回り、未熟さはありつつも男に付け入る隙を与えない。闘志でいえば九珠は男と互角だった――剣を握り、全力を賭して相手を打ち伏せるという一点において二人の意識は一致していたのだ。そして互いにそれを分かっているからこそ二人は一切の加減をせず、拮抗したまま何十手と技を交わした。
しかし、九珠はそのほとんどを律峰戒に教えられた剣術でしのいでいた。「有剣無名剣」は九珠が知る中で最も強力な剣譜――そしてこの男にも通用し得る唯一の剣譜だが、九つしか招式がなくてはこの攻防の中ではすぐに手詰まりになってしまう。そしてこの男を相手にするにあたって、それはあまりに危険すぎる。しかし律白剣譜もありったけの手を打ち尽くしていて、残る招式はあとわずかになっていた。
「剣を抜け」
剣戟の最中、男が口を開く。気合い以外で初めて発された言葉に九珠は思わず面食らってしまった。
「まさかその程度などとは言うまいな?」
男はそう言うやぐっと剣に力を込めて九珠を弾き飛ばした。不意を突かれた九珠は庭の端まで後退し、たたらを踏んで壁の直前でようやく止まった。
「そこまで動けて律峰戒の二番煎じでしかないわけがなかろう。お前は奴とは明らかに違う。それを見せろと言っている」
男はなおも言いつのり、顔の前で剣を垂直に構えた。
「次で最後だ。全力で来い」
淡々と宣言するや、男は剣指を走らせて剣をなぞる。一番の奥の手が来ると直感した九珠は、ついに「有剣無名剣」の構えを取った。最初を飛ばして真ん中の第五式、同じく縦に剣を持つ構えを模した動きで空をなぞり、凝縮させた気を一息に放つ。同時に男も剣を振るい、放たれた剣気は空中でぶつかって轟音とともに炸裂した。
衝撃の余波が全員を襲い、飛雕と梅凛、如竹がたたらを踏んで後退する。車椅子ごと後ろに滑った知廃生だけが、眉ひとつ動かさず九珠たちに注目していた。
そして九珠は、肩で息をしながら男を睨んでいた。男は息を乱すこともなく平然と立っていたが、その双眸には闘志の代わりに驚きが宿っている。
男は袖を振るって剣を仕舞うと、足早に九珠に近付いた。
「
「何だと?」
思わぬ言葉に九珠は聞き返した。
「九天剣訣が何かも知らずに剣客を名乗ろうと言うのか?」
男は辛辣に言い放ち、九珠の前に立ちはだかる。九珠が身構えた瞬間、「そこまでだ」と静かな声が割って入った。
振り返ると、知廃生が冷静な目で二人をじっと見据えている。
「秋水、お前が連れて来いと言うから連れてきたのにその態度は何かね。簫殿のような若者にとって九天剣訣は江湖の伝説のひとつ、過去に成された偉業に過ぎないのだ。過去なのだよ、それに使い手もいない武術だ、彼らにとっては遺物も同然だと思わぬかね?」
「ではなぜその遺物が目の前に現れたのですか。李玉霞を彷彿とさせる剣客が現れたという話だったのに、なぜ九天剣訣まで使うのですか? こいつは一体何者です?」
秋水と呼ばれた男は不満げに言い返した――しかし九珠は驚きのあまり男の無粋な態度など気にならなかった。姓が常、名が秋水と来れば当てはまる人物は一人しかいない。
「
思わずこぼした九珠に、常秋水の冷ややかな視線が注がれる。剣を向けられたかのような目線に九珠はたじろいでしまった。
「いかにも。
九珠は呆気に取られたまま包拳し、ぺこりと一礼した。
「晩輩簫九珠、かの常大侠とは知らず失礼をいたしました」
「萎縮して本気を出さない方がよほど無礼よ」
常秋水はフンと鼻を鳴らして応える。九珠は頭を下げたまま目を瞬いた。常秋水、夢にまで見た剣界の王が、まさか冷たく傍若無人だったとは思いもしなかったのだ。
「弟は昔からこうでね。どうか許してやってほしい」
知廃生が苦笑する――この二人が兄弟だというのも九珠にとっては驚きだった。常秋水は「三尺掃塵」のあだ名とその剣術、常家の出である以外にはあまり多くを知られていない。初めて耳にした事実に九珠はどう答えていいのか迷ってしまった。
「とにかく、私はお前が言うとおりに彼を連れてきた。それに窮地を救ってももらったのだから、丁重にもてなさなければならないぞ。彼はお前が気になる以前に私の恩人なのだからな」
知廃生に言われてようやく、常秋水は渋々といったふうに頷いた。
「なあ、もう喋ってもいいか?」
頃合いを見ていたのだろう、飛雕がわっと声を上げる。
「梅凛は『常家の主が』って言って俺たちを連れてきたんだよな。すると彼女を寄越したのは、あんたら兄弟のどっちなんだ?」
飛雕は知廃生に向かって尋ねた――畏怖の念が勝っているのか、常秋水には話しかけられないらしい。
果たして知廃生は微笑を浮かべると、扇子を開いて飄々と答えた。
「秋水だ。生活もままならない病躯の私に、当主が務まるわけがないだろう?」
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