【長編版】九珠の剣

故水小辰

第一章:竹林の隠者

敗北

 九珠きゅうじゅが父から教わった剣の要訣のうち、最も重要なものは「地面に膝をつかず」「剣を握り続ける」の二つだった。

 地面に膝をつくという動作は相手への服従を示すもの、例えば仕官している者が皇帝に謁見する場合、これをしないと即刻死刑だ。しかし江湖で剣の技と己の極限を競うなら、服従は即ち敗北を意味する。敗北の先には死があるのみだ。

 だから、決して地面に膝をつくな。そして剣を手放すな。剣を手放すということは目の前の勝負を諦めることと同義、諦めの先にあるものも敗北だ。


 ――即ち、死だ。


 九珠の脳裏に暗く光る双眸が閃く。父親の声が幽鬼の呼び声のように耳にこだまする中、九珠は真っ二つに折れた剣を唖然と見つめていた。

 何が起きたのか分からなかった――無我夢中で剣を振るっている最中、不意に剣が押さえられたかと思うと次の瞬間には爆ぜたのだ。とっさに顔を覆い、衝撃に乗って後退したときにはこの有り様だった。だというのに折れた剣には刃こぼれひとつなく、女も傷一つ負っていない。


 岐泉鎮きせんちんに住む女の隠者はただならぬ剣の腕前を持っているらしい。噂を頼りに居場所を突き止め、勝負を挑んだが、まさか剣を折られるとは思いもしなかった。麻痺する思考に印を捺すように動悸がし、鳩尾に嫌な感覚が広がっていく。それなのに、九珠が剣から視線を動かすと、女は顔色ひとつ変えずにただじっと直立していた。白い袍には少しの染みもなく、高く結った黒髪にも一分の乱れもない。彼女はただじっと、月夜の竹林のような静謐さを湛えた視線を九珠に向けている――その目はある種の達観をはらんでいるようで、若々しい容貌に反してひどく年齢を感じさせた。


「あなたは――」


 急に隠者が口を利いた。九珠はぎくりと身を固くして、役立たずになった剣を構え直す。


律峰戒りつほうかいの子でしたね。律九珠りつきゅうじゅ


 凪いだ湖にさざ波が立ったような声だったが、九珠にとってそれは嵐の高波に他ならない。九珠は乾ききった喉にわずかな唾を流し込むと、突如雄叫びを上げて彼女に襲いかかった。

 折れたとはいえ、剣はまだ手の中にある。残った刃で叩き斬るか、切り口の角を刺しこめば――

 

 しかし、女は九珠を制した。剣を持つ右手を抑えられ、首筋に剣指を添えられて、九珠はまつ毛の一本すら動かすことができなかった。

 息もまともに吸えない緊張の中、女は静かに告げた。


「剣を真に鈍らせるものは固執です。迷いは解ければ糧となりますが、固執は害しかもたらさない」


 次の瞬間、全身を押さえつけていた圧迫感が消えた。隠者が九珠を解放したのだ。彼女はあろうことかそのまま九珠に背を向けて、庵の入り口へと歩き出した。


「おいでなさい、律九珠。あなたに新しい剣の道を見せてあげましょう」


 彼女はちらりと九珠を振り返り、一言告げてまた歩き出す。さっさと庵に帰っていくその背中を、九珠は呆然と見送っていた。

 女は小屋の中に消えた。ふいに訪れた静寂の中、そよ風が周囲の竹林を揺らす。風は立ち尽くす九珠の頬を撫で、途端に一片の虚しさが胸に生まれた。

 力が抜けた手から剣が落ちる。次いで込み上げてきた衝動に任せて九珠は腹の底から叫んだ。何度も、何度も、喉の奥に血の味が滲んでも叫び続けた。そうするうちに虚しさが全身に入り込んで涙が溢れてきたが、九珠は泣きじゃくりながらも枯れた声で叫んだ。

 が、いつまでもそうしていられるはずもない。咳き込んだ拍子に地面に紅が飛び、くらりと視界が回転したかと思うと、九珠は地面から横向きに庵を眺めていた。

 扉が開き、女の隠者が驚いたように駆けてくる。九珠はふっと目を閉じて、あとは何も分からなくなった。

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