落胆

 気が付いたとき、九珠は牀に寝かされていた。腫れぼったい目をしかめて少し考え、庵の中に担ぎ込まれたのだと思い至る。

 九珠の心とは裏腹に、部屋の窓からは明るい昼の光が投げ込まれている。九珠はかけられている毛布を頭の上まで引っ張り上げて、明るさから逃げるように丸くなった。あれほど泣いて叫んだというのに、鼻の奥がツンと締まって涙が溢れてくる。九珠はそのまま肩を震わせて静かに泣いた。


 時間が経てば経つほどに、負けたのだという実感が強まっていく。それはまさしく終焉で、「律九珠」という一人の青年の江湖での存在を否定するものだった。剣の道で勝ち続け、あらゆる剣客の頂点を極めること、それが父であり師でもある律峰戒から与えられた九珠の存在意義だった。


 律九珠、律家九兄弟の最後の一人――彼がかつて一世を風靡した剣術の大家・律峰戒の子で、その全てを受け継ぐ存在であることを知ると、ある者は羨み、ある者は軽蔑し、またある者は嘲笑を浮かべた。しかし、どのような反応を示そうと、彼らが律峰戒直伝の剣術「律白剣譜りつはくけんふ」によって封じ込められる未来を変えることはできなかった。そうして九珠は名を上げた。八人の兄は持ち得なかったものを九珠は持ち、それゆえに兄たちが成し得なかったことを成すことを期待されていた。だからこそ敗北は赦されなかった。勝ち続けることが九珠の存在の全てだったのだ。


 だが、現実はどうか。


 宝珠も輝きを失えば路傍の石ころに等しい。江湖にいる意味を失った今、九珠にできることといえば枯れた声で慟哭するぐらいだ。痛む喉に吸い込んだ鼻水が引っかかり、九珠は咳き込んだ。そして余計に湧いてきた虚しさを打ち砕くように力一杯牀を叩いた――何度も何度も、牀を壊すことで何かが変わると言わんばかりに叩き続けた。


 ふと、肩に誰かが触れた――慈しみに満ちた手だったが、今の九珠にはどんな温情も敵意に等しい。九珠はその手を毛布ごと跳ね除けて相手に殴りかかった。


 相手は例の隠者だった。彼女は眉ひとつ動かさずに毛布を後ろに流し、流れるような動作で九珠の拳を受け止めた。九珠が腕を翻し、自由になった拳を再び振りかざすと、女はするりと間合いを詰めて九珠の鳩尾を強かに打った。

 九珠は泣き腫らした目で女を睨み、掠れた雄叫びとともに身を踊らせた。が、ここでも九珠は女に翻弄されるばかりで一向に優勢を取れなかった。拳はことごとく空を打ち、足も払い損ね、さらには逆に絡め取られて九珠は床に叩きつけられた。組み伏せようとする女に頭突きを食らわせ、再三攻撃をしかけると、女は今度は落ちていた毛布を掴んで振りかざした。唐突に視界を奪われた九珠は思わず立ちすくみ、気がついたときには毛布にくるまれて牀に転がされていた。


「気が済みましたか?」


 この女のあくまでも静かな、凪いだ態度が腹立たしい。九珠は女を睨みつけると、掠れた声で


「放せ」


 と唸った。


「放したらどうするのです? また私を襲いますか?」


「いくらでも襲ってやる。父上の律白剣譜でその膝を折らせるまで、何度でも襲う」


「ですがあなたは私に敵いませんよ。二度試してよく分かったでしょう」


「構わん! 我が手に剣がある限り、俺は負けることはない!」


 噛みつくように怒鳴ると、女は黙して九珠を見た。だが、言い負かしたかと思った瞬間、


「ですが貴方は負けました。それも二度も。私でなければ首が飛んでいたところです」


 と静かに言った。


「知るか! 俺は――」


「その手に剣がある限り負けない、ですか? 律峰戒も堕ちたものですね。あなたに実力がないわけではなく、律峰戒も下手な使い手ではないのに、律白剣譜の質は往時と比べ物にならないほど落ちている。あれほど江湖に名を轟かせた剣法の真髄が根性論だったとは、実に嘆かわしいことです」


 女は淡々と言った。氷の張った湖面のような声音に、九珠は声を荒げる。


「黙れ! お前に父上の何が分かる!」


「では、あなたは御父上の何を分かっているのですか?」


 女が間髪入れずに言い返す。九珠はとっさに言い返せず黙り込んでしまった。


「……父上は、我ら律家に再び栄光をもたらそうと」


「そのために貴方を鍛えて江湖に送り出したのですか?」


「俺の力で父上の悲願が叶うなら本望だ」


 九珠が答えると、女は考え込むように足元を見た。


「彼が二十六年前の龍虎りゅうこ比武杯ひぶはいで常秋水に負けた時、たしか夫人との間に八人の子がいたはずですが」


「九人だ。その後に俺が生まれた」


 女に言い返しながらも、九珠は怪訝に思わずにはいられなかった。この女、すでに江湖から身を引いているのに、なぜこうも律峰戒のことを知っているのだろう?


「そうでしたか。では、その八人は今どこで何をしているのですか? 兄弟が一丸となって家の再興に尽力すれば素晴らしい美談を残せるのに、なぜ末子のあなただけが江湖を騒がせているのでしょう」


「聞くだけ無駄だ」


 九珠は素っ気なく言い返したきり黙り込んだ。怒りが引くにつれて虚しさがぶり返し、同時に今まで見てきた兄たちの末路が脳裏によみがえった。訓練場を兼ねる中庭に虫の息で転がされる兄の姿、その様子を庭を囲む回廊から暗い目で見ている他の兄たちと、ついさっきまで我が子を罰していた手を九珠の肩に置いてお前はこうなるなと低く唸る父。八人の兄たちは皆、律峰戒の望みを叶えるべく剣を手に江湖に挑み、失敗して戻ってきた。最後の期待だった自分がしくじったと知れば、彼はどう思うだろう。虫の息では済まないかもしれないと思うと心窩が薄ら寒くなった。


「怖いのですか?」


 急に黙り込んだ九珠に女が問う。九珠は首を横に振ったが、はっきり声に出して否定することはできなかった。


ふいに訪れた沈黙の中、女はじっと律九珠を見ていたが、おもむろに毛布を掴んで律九珠を解放した。勢いのままに起き上がった九珠に、女は合掌して一礼する。


「私は簫無唱しょうむしょうと申す者。今はこの寂寧庵じゃくねいあんを守っていますが、かつては剣の道を歩んでいた身です。もしあなたが望むなら、私なりの剣の道を教えて差し上げましょう。律峰戒のものとは全く違う、新しい剣の道を」


「どういうことだ。父上の教えは誤りだと俺に分からせたいのか?」


 九珠が邪険に言い返しても、簫無唱は至って平静に「いいえ」と答える。


「あなたに素質があるからです。相応しい道を歩めば、往時の律峰戒はもちろん、常秋水じょうしゅうすいのような当代一の使い手をも凌ぐ実力を発揮するかもしれません。が、今の律峰戒に従っていてはどんな栄光も手に入りはしない。彼は必勝の道を選びましたが、勝利を追い求めるあまり本来の道を見失っているのです。剣客が百人いれば百通りの剣の道があり、そのどれもに正誤はありませんが、道を極めることができるのは自身に一番相応しい道を悟った者だけです。私はあなたがその道を見つける助力をしたいのです」


 淡々と語る簫無唱の声が、このとき初めて初春の清風のように九珠の心を吹き抜けていった。


 今まで九珠が対戦した剣客たちは、彼が律峰戒の子であると知るや声を揃えて律峰戒を嘲った。江湖では律峰戒はもはや過去の人、それを認められずに未だ足掻いているとは愚かしいと誰もが口を揃えて言い、九珠はそんな彼らを力で破ってきた。それがどうか――簫無唱は彼を軽蔑せず、むしろ憐れんでさえいるように見える。


 彼女なら、という思いが頭の中をよぎった。

 簫無唱なら、己の求めるものを与えてくれるかもしれない。彼女の申し出を受けさえすれば、律白剣譜の威力を再び江湖に見せつけることも、家族の誰もが登ったことがない高みに到達することもできるかもしれない――


 しかし、応えようと口を開いた刹那、律峰戒の暗くぎらつく双眸に芽生えたばかりの願望が踏みにじられるような錯覚に襲われた。旅立ちのときに言われた言葉――お前が成すべきは律白剣譜とその創り主の名を再び江湖に轟かせること、それ以外は考えるなという律峰戒の命令が耳の奥でこだまする。

 結局、九珠は答えることができなかった。

 簫無唱はその理由を問わなかった――ただ「じっくり考えなさい」とだけ言い残して彼女は部屋を後にした。

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