再起
日が落ち、夜が更け、月が傾き、朝の気配が寂寧庵とその周囲の竹林を包み始めても、
寝返りを打つと、卓の上に置かれた剣が目に入った。同時に昨日の簫無唱の言葉が脳裏によみがえる。それは九珠の中の淡くない期待と苦い思いを同時に掻き立てた――何者にも勝る自分だけの剣の道は、自身の全てを剣に捧げてきた九珠にとっては蓬莱の仙薬にも等しい誘いだ。その一方で、別の自分が冷笑する声も聞こえる。この折れた剣と、何の価値もない石ころ同然の九珠に、一体何ができるというのか。勝者の憐憫など相手にするだけ無駄だ。
――剣が手の中にある限り勝機はある。それを諦めて剣を棄てた瞬間がお前の死だ。
ふと、父の言葉と、敗者の烙印を押された兄たちの姿が目の奥に浮かんだ。だが彼らは実のところ、自ら剣を棄てたわけではなかった。皆、一瞬の怖気がたたって地面に膝をついただけだ。
「……勝機、か」
九珠は起き上がると剣を手に取った。鞘を撫で、柄を握って震える息を吐く。
だが引き抜くことはできなかった。九珠は唇を噛んだままじっと立っていたが、やがて剣を置いて部屋を出た。
廊下に出るとどこからか読経の声が聞こえてきた。なるほど簫無唱は仏門の人なのかと一人で頷きながら、九珠は声の方ではなく庵の外へと足を向けた。
庵の前には二人掛けの石卓と椅子が置いてある。庵と竹林の間のがらんとした広場に立つと、九珠は深呼吸して目を閉じた。
完全なる静寂。聞こえるのは竹が風にそよぐ音と己の息遣いのみだ。
九珠は目の前の虚空に意識を集中させた。片足を引いて両腕を構え、おもむろに目を開いて気合いを発する。同時に拳を突き出し、一歩踏み出してその腕に全身を寄せる。
もう一度突き、踏み込み、腕を払い、体を翻して足を蹴り上げる。目の前に誰がいるでもなく、ただ虚空に吸い込まれて消えていくに任せて套路を演じる――剛にして直、一挙手一投足に力強さを宿したこの套路こそ、
左下から袈裟懸けに竹枝を振り抜き、勢いのままに体を反転させる。竹枝の先端を斜めに下げ、剣指を添えて停止したところで、背後から静かな声がした。
「今の手を、左を守る動きに変えなさい」
驚いて振り返ると、いつの間にか石卓に簫無唱が座っていた。
「だが父上は……」
「変えなさい」
有無を言わさぬ空気に圧されて、律九珠は次の反論を飲み込んだ。
「ではもう一度、最初から」
簫無唱に言われ、九珠は今度は彼女に向かって最初の構えを取った。凪いだ瞳を見据えて鋭く息を吐き、簫無唱に向かって竹を突き出す。
その瞬間、卓から彼女の姿が消えた。同時に竹の先が跳ね返され、簫無唱の剣指が頬をかする。体を翻して距離を取り、追いすがる簫無唱の一手を竹で受ける。簫無唱は代用の武器も持たず、両の手だけで九珠を追い立ててくる。一度しか見ていないというのにこの套路で対応できない動きは一つもせず、その上剣を持っているかのように立ち回るのだ。
そしてついに、先ほど簫無唱が止めた動きがもう一度回ってきた。九珠がそのことを思い出すと同時に、簫無唱が左の体側を狙って剣指を突き出した。竹枝を体の左側に持ってくると同時に簫無唱の剣指が肉薄し、一瞬だけ交差する。九珠は剣指を弾くと同時に体を回し、正面に向き直って簫無唱の胸の真ん中に刺突を送った。
それに対して簫無唱は右の掌を前に出しただけだった。驚いたのもつかの間、竹枝の先が肌に触れた途端、うねるような力の波が九珠を逆に打つ。九珠は後方に弾き飛ばされ、たたらを踏んでようやく動きを止めた。いつもの動きでは相手を破れないところを破れたという感動とそれを見抜いた彼女への畏怖の念、そしてあの一撃を跳ね返した力への困惑がすっかり頭を埋めている。
「今のは一体……」
上がった息の合間に尋ねると、簫無唱は顔色も変えずに
「内功です」
と言った。
「あなたも知っているとおり、内功をいかに扱うかは武芸の全てに通じます。例えば今、私は守りに内功を使いましたが、攻撃に転ずることも——」
そう言うやいなや、簫無唱の顔がすっと引き締まった。右手を持ち上げ、高く掲げて振り下ろした途端に閃光が放たれる。咄嗟に避けた九珠の横をかすめ飛び、光は竹林の一部を破壊した。
「掌法、拳法、それに方術では内功を極めることが強さに直結しますが、剣術でもそれは同じ。器物を扱うから外功だけに注力すればいいということはなく、やはり内功の練度が重要です。そして鍛え抜かれた内功があれば剣など必要ないのです——私の剣の道の終極はこれです。この境地に達すれば、あなたが持っている竹枝でも十分に百の敵を倒せます」
唖然としている九珠に、簫無唱は続けて語る。
「剣はあくまでも道具です。そして道具は強さを保証してはくれません。使い手自身が剣となり己の力を制御すること、それが私の見出した剣の道です」
九珠はぽかんと口を開けたままそれを聞いていた。彼女の語る剣は、律峰戒の教えとあまりに違う。
「……父上は、剣は強さの表れだと。己が強くあればあるほど剣も強くなると教わった。だから尚更、手放してはならないと」
「そうですか。では貴方自身はどう思いますか?」
簫無唱に問われ、九珠は口ごもった。沈黙が流れ、風が竹を揺らす音だけが聞こえてくる。
「……たしかに、あなたほどになると、剣はそこらの棒切れと変わらないのかもしれない。逆に剣を持ったら危険すぎるほどに威力が増すだろう」
言葉を切り、簫無唱を伺うと、簫無唱は続けろというふうに眉を上げた。
「だが、俺はあなたのようにはなれないかもしれない。……あなたのように剣を手放す勇気がない」
「よく言いましたね」
うつむく九珠の肩に、簫無唱の手がそっと置かれる。今度はその手に込められた彼女の思いが伝わってきた――温かく、力強い手だった。
「どうすればあなたのようになれる?」
気付いたときには九珠は尋ねていた。
「あなたは俺が知る中で最強の剣客だ。素直に認めるべきではないのかもしれないが、父上の実力もあなたの足元には及ばない。それに剣に捧げると決めたこの一生、今あなたに教えを請わなければきっといつか後悔する。だから――」
九珠は言葉を切るとその場にひざまづいた。簫無唱が止めるのも聞かずに頭を地面に三回打ちつける。
「俺を弟子にしてください。簫女侠、どうか」
顔を上げずに九珠は言った。彼女が一体どんな顔をしているのか、拒まれさえしなければそれで良いと念じていると、やがて頭上から「起きなさい」という声が聞こえてきた。
簫無唱は涼風の吹く竹林のような人だと九珠は思っていたが、この時ばかりは春の温風が竹林に吹いていた。起きなさいと言った簫無唱の声は、明らかに喜色を湛えていたのだ。
「ですが、私の指導は厳しいですよ。私が半生をかけてたどり着いた境地を全て伝授するのです、生半可な覚悟ではいけないということを改めて肝に銘じなさい」
「覚悟ならとうにできています。初めて剣術を教わった日から、俺は剣に全てを捧げる覚悟で生きてきました。これは父上や兄上たちとは関係ない、俺だけの覚悟です」
九珠は簫無唱を見据えて宣言した。簫無唱は満足気に頷くと、明日の夜明け前に起きて居間に来るよう言いつけた。
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