修行

 こうして新たな日々が始まった。

 ひとつ屋根の下で師と暮らすこと自体は九珠にとって慣れきったことだったが、簫無唱との寂寧庵での暮らしは律家のそれと似ているようでまるで違った。


 夜明けとともに起き出して、簫無唱と手分けして庵を掃除することから一日が始まり、それが終わると簫無唱は奥の部屋で経を上げる。その間に律九珠が朝餉の支度を整え、食事が終わると裏庭にある畑の手入れをする。それが終わるとひたすら剣の稽古、稽古が終わってから夕餉の時間までは一人で鍛錬や稽古の復習をして過ごし、寝る前には調息をして内功を強化し、一定の時間が経てば就寝する。全てが規則に則った生活は律家と同じだが、一番の違いは仏の影が色濃くあることだった。簫無唱は時間を決めて経を上げているようだったし、食卓に並ぶのは裏庭で取れた野菜ばかりだ。出家はしていないのか剃髪はしていないが、寂寧庵が仏門の寺院の所有だからという以上の説明が九珠にされることはなかった。

 もうひとつ大きく違う点があるとすれば、それは簫無唱の沈黙だった。二人の人間が共に暮らしているというのに、寂寧庵には会話がまるでないのだ。簫無唱は稽古の時間以外はほとんど口を開くことがなく、ましてや剣以外のこととなると全く話す気配がなかった。九珠もあえて沈黙を乱すことはしなかったが、それは一歩でも踏み込んでしまうと何かが狂いそうなほどに簫無唱と沈黙が溶け合っていて口の挟みようがないからだった。


 日課に慣れるのは容易かったが、野菜だけの食事と毎晩の調息にだけはなかなか慣れることができなかった。肉のない食事はどれだけ腹に入れても頼りなく、稽古が激しい日などは特に調息の時間になると腹がぐうぐう鳴って集中できなかった。そうでなくても牀の上で目を閉じてじっとしていることが九珠には難しく、気が付いたら倒れ込んで眠っていることもままあった。簫無唱には調息をよくすれば内功の修練が早まると言われたが、これはどんな稽古よりも苦痛と言っても過言ではなかった。

 酒がないのもやや退屈だった。もとから大酒飲みというわけではなかったが、それでもふとした瞬間に思い出す干し肉を肴に飲む酒の味が懐かしくて仕方ない。律九珠は尼僧に弟子入りしたのだから仕方がないと自分自身に言い聞かせ、俗世の幻影を忘れさせるかのように日々の仕事に集中した。幸か不幸か、律九珠はずっとひとつの道を追い求めて生きてきた――強いられた道で病癖のように染みついた執念は、しかし己の原動力とするには十分だ。ひと月も経てば調息しながら寝ていることもめっきり少なくなっていた。



***



 あるとき、九珠は町への使いを頼まれた。

 簫無唱から渡されたのは籠と路銀、小さな木箱、それから一通の手紙だった。


「竹林を出て東に三里ほど歩けば岐泉鎮で一番栄えている市場に着きます。近くに念安寺という尼寺があるので、まずはそこの住職にこの手紙を渡してください。それから市の西瓜売りのご主人から種をもらってくること。必ずこの木箱と交換するのですよ、路銀で支払うのではなく」


「ではこの金は」


 律九珠が首をかしげると、簫無唱は口角をわずかに持ち上げて言った。


「そろそろ日用品を揃えたいかと思いまして。そうですね、ここには古着しかないので、衣服など買い揃えてはどうですか?」


 たしかに、九珠は着の身着のままで弟子入りしたせいで衣の手持ちがない。今着ている衣も簫無唱が彼に合わせて繕ったものだった――生地に染み付いた匂いや模様、作りから察するに、背の高い女子程度の体格の九珠よりもがっしりした男が着ていたものらしいが、真相を確かめる術はやはりないのだった。



 岐泉鎮は小さな町で、市の周囲以外には朝餉の焼餅シャオピン饅頭マントウを売る屋台すらない。住人は誰もが顔見知りらしく、突如現れた九珠を皆が好奇と警戒の目で見ていた。

 九珠はあらゆる方向から視線を感じつつも、言われたとおりに念安寺の門を叩いた。応えて現れたのは丸めた頭に白布を被った壮年の尼僧だ。


「何のご用でしょう、施主」


「簫無唱尼姑より、この手紙を渡してほしいと頼まれて参りました」


 尼僧は一瞬ぽかんと九珠を見つめたが、彼が手紙を差し出すと合掌して受け取った。その場で封を開き、文に目を通す尼僧を九珠は訝しみながら見つめていた――今の挨拶のどこに驚かれる要素があったのか?

 尼僧は手紙を読み終わると、にこりと笑って九珠を見上げた。


「そうですか、簫殿のお弟子さまですか。最近顔をお見せにならないと思ったら、律施主を教えていたのですね」


「師父は出家していないのですか?」


 驚いて聞き返した九珠に、尼僧は笑って「そうですとも」と答える。


「あの方は仏に仕えてはおられますが、出家はされておりません。お家の騒動で御亭主と義弟君おとうとぎみを亡くされましてね。行くあてもないというので、手付かずになっていた寂寧庵をお任せしたのです。五年ほど前になりますかね」


 尼僧の語る話はまったくの初耳だった。目を丸くしている九珠を見て尼僧もそれを察したのだろう。


「彼女は滅多なことではこの話はしませんからねえ」


 と言って優しげな眉を少し下げた。


「……では、今の話は、俺は聞いてもよかったのですか」


「ええ。施主は簫殿の信頼を得ておいでなので」


 尼僧は最後に清儀せいぎの法号を名乗ると、何かあったらいつでも頼って欲しいと九珠に言った。


 清儀以外にも、岐泉鎮には簫無唱を知る者が何人もいた。たとえば市の西瓜を売りの老人は、簫無唱が数か月に一度、野菜の種と交換で薬草を渡している相手だった。九珠が簫無唱の弟子だと名乗ると、彼は安堵の表情を浮かべて


「大変な方だったが、そうか。ようやく弟子を取られたか。善哉、善哉」


 と独り言のように呟いた。


 また、服を買いに入った岐泉鎮唯一の仕立屋では、九珠が身分を告げると主人とその妻は各々眉を持ち上げて互いに顔を見合わせた。


「そうかい、簫さんのお弟子さんかい。また大変な人についたもんだねえ」


「ご家族のことなら、清儀師太から聞いたが」


 九珠が言うと、妻はとんでもないと言わんばかりに目を見開いた。


「そりゃ私たちだって、可哀想だとは思うけどね。でも、剣なんて振り回す女の嫁ぎ先がそもそも普通なわけないだろう。実際、物騒な連中がここにも出入りしてたんだしねえ。お家騒動で旦那さんを亡くして家も追われたっていうけど、そんな家ならありそうなことさ」


 声をひそめて早口に言う妻に、九珠は曖昧に答えるだけにしておいた。もっとも、胸の内では、簫無唱が嫁いでいたという家がどこであるにせよ、そこが普通でないなら律家はもっと異常なのだがと思わざるを得なかったのだが。


 その後も九珠は簫無唱に関する様々なうわさを耳にした。大きな家に嫁いでいたとか、このあたりでは一番の武術の達人だとか、女子としての素養ではなく武術で婚姻をもぎ取った不届きな女だとか、皆の言い分は色々だったが、九珠は全ての言葉に頷き、夕暮れの前に帰路についた。江湖に生きる者ならば、誰でも秘密のひとつや二つは持っている。それを根掘り葉掘り聞かないこともまた礼儀のうちなのだ。

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