有剣無名

 翌朝からはまた、決められた日課をこなす日々が始まった。


 剣の稽古は初日とは比べ物にならないほど激しいものになっていった。剣の代わりに竹枝を使うことはもうなく、しかし剣を使うこともない。代わりに九珠に課されたのは身につけた剣譜を空手で完璧に使いこなすことだ。

 すなわち、九珠自身が剣となり、己の力を制御する訓練だった。

 使うのは己の肉体と内功のみ。側から見れば、腕と剣指のみを駆使する二人は掌法や拳法の修練をしているのと同じに見える。九珠が律白剣譜を空手で完璧に使いこなせるようになると、簫無唱は新しい剣術を徐々に教え始めた。招式は全部で九つ、柳のようなしなやかさと竹のような剛直さを兼ね備えた套路が特徴で、簫無唱はこれを全て空手で演じてみせた。柔と剛が完璧に融合した動きは美しく、しかし見る者が畏怖の念を抱くほどに冷徹で脅威的だ。


「……これは、何という剣譜ですか?」


 簫無唱が手本を演じ終えると、九珠は独り言のように尋ねた。簫無唱の言うところの「己が剣となる」ことを完全に体現した手本に、九珠はすっかり魅力されていたのだ。

 簫無唱は珍しく、ゆっくり目を瞬いてから答えた。


「名前はありません。かつて江湖の頂点に立ったある人が編み出したもので、私は幸いにも後継者として認められてその人から一切を教わりました」


「江湖の頂点というと、龍虎りゅうこ比武杯ひぶはいですか?」


 九珠は飛びつくように尋ねた。龍虎比武杯は江湖一の武芸者を決める大会で、一甲子に一度、名門の五門派が持ち回りで主催する由緒ある大会として知られている。ここで並み居る対戦相手を制して頂点に立った者は絶大な知名度を得、誰もが一目置く存在となる。直近の数大会ならば誰もが結果を知っており、もちろん九珠も例外ではない。そんな達人、それも剣術のとなると絶対に名前を知っているはずだと意気込んだ九珠の期待はしかし、簫無唱の静かな否定によってあっけなく打ち消された。


「それは私も知りません。その人はそのことについては語ろうとしませんでしたから」


 九珠は意気消沈しながらも、そうですかとだけ答えた。

 代わりに、自分の中だけの呼び名をつけることにした。名付けてすぐにあまりぱっとしないとは感じたが、自分が勝手に呼ぶ分には構わないだろうと思い直し、渡された書物の端に小さく書き込みをしたのだ。あくる日からはこの「有剣無名剣剣は有るが名は無い剣」の修練が本格的に始まり、簫無唱の指導もより一層厳しさを増した。九珠は日々の鍛錬に加えて剣譜の読み込みもこなさなければならず、この剣譜の創作者について考える時間はすぐになくなった。


 それでも、剣術で江湖の頂点に立ったというこの人物への好奇心が消えることはなかった。詳しいことは何一つ分からないが、簫無唱を後継者に選んだということは彼女よりも上の世代なのは間違いないだろう。簫無唱が何歳なのかは分からないが、世代的にも関係的にも九珠にとっては大先輩に当たるはずだ。


 当代で最高峰の剣客といえば常秋水だが、九珠が生まれる前は李玉霞という女剣客と九珠の父である律峰戒、それに常秋水とが肩を並べていた。年齢も近く、揃って江湖剣界の期待の星と仰がれた三人だったが、他ならぬ龍虎比武杯で激突したことで彼らの命運は三者三様に枝分かれしたのである。

 事実、このときの大会では三人ともが優勝候補と目され、そう言われるにふさわしい熾烈な戦いを繰り広げていた。

 最初に律峰戒が常秋水に敗れて脱落し、残る二人は決勝でぶつかり合い、李玉霞に軍配が上がった――彼女はこの一戦によって押しも押されもしない江湖の女帝にのぼり詰めたのだ。

 しかし数年後、李玉霞は鏢局を営む武術家の一族・公孫家に嫁ぎ、それを機に表舞台に出なくなった。鏢局の夫人としては人前に出ていたと言われているが、一族は後継者争いが原因で全滅し、李玉霞もそれきり姿を見せていない。今の江湖では彼女もこの争いで死んだと言う者が大半だ。


 李玉霞は死に、律峰戒は果たせなかった野望を我が子が叶えることに執着し、結局一人残った常秋水が最高峰の地位を手に入れた。彼はその次の龍虎比武杯でも二番目に甘んじており、江湖の頂点は未だ極めていない。それでも圧倒的な実力を持つ剣客であることは疑いようがないのだが、簫無唱に「有剣無名剣」を教えた人物は剣界の最高峰ではなく頂点に君臨したのだ。常秋水をも凌ぐ使い手に自身が連なっているのかと思うとおのずと興奮し、それだけに修行にも身が入るのだった。

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