平安

 月日は流れ、九珠が寂寧庵に来て一年が経とうとしている。


 九珠は「有剣無名剣」をふた月で使えるようになり、今では簫無唱が認める継承者となっていた。

 そして九珠はこの一年間、剣を手に取っていなかった。

 簫無唱の方針もあるが、窮地に立たされると闇雲に攻撃を繰り出す癖が治らないのがその理由だった――幼い頃から叩き込まれた戦い方を無意識のうちに頼っているのだと簫無唱は言い、九珠もそれが分かるほどには成長している。

 しかし、万事休すというときに浮かぶ父の声と兄たちの姿は一朝一夕に振り払えるものではなかった。律家の栄光だの何だのには昔ほど執着もないはずなのに、未だに父の教えから離れられない自分がかえってもどかしい——苛立ちを募らせる九珠に簫無唱が語るのはいつも同じことだった。


「百の剣客がいれば百通りの剣の道があります。律峰戒がかつて見出し、あなたに教えたこともまた、剣の道の上では真実に変わりありません。重要なのはどの道に真を見出すかです。あなたが真だと信じるもの、それが貴方の剣の道です」


「では、俺がどちらも正しいと言えばどうなるのですか」


「それが揺るがぬ答えだと言うのであれば、私は異を唱えることはしません」


 こういうとき、九珠は決まって自室にこもり、折れた剣を磨いた。これを棄ててしまうと、全ての指標が霧の中に消えてしまうような気がしてならなかったのだ。


 己を剣と成せば得物は必要ない。だが、そう簡単に割り切れるほど成熟してもいない。簫無唱が剣を捨てろと言っているわけではないことも分かっていたが、剣は九珠にとって一生を誓った相手だ。とりわけこの剣は、人生を共にしろと幼い頃に律峰戒から渡されたものだった。以来、この剣は九珠の友であり、理解者であり、九珠の全てだった。たとえ半分に折れたとしても、己の価値はこの剣の上にこそあると言えるほど大切なものなのだ。



 悶々とする日々が続いたある日、九珠は簫無唱とともに念安寺を訪れた。

 相変わらず言葉少なな簫無唱と、そんな相手と無理に話そうという気のない九珠では、二人で並んで歩いていても会話らしい会話はない。夜明け直後のしんと澄み切った静寂を抜けて寺の門を叩くと、清儀と同じ格好をした若い尼僧が顔を出した。


「ええと……何の御用でしょう……?」


 尼僧は九珠を見て明らかに困惑している。すかさず簫無唱が進み出て清儀師太に会いに来たと告げると、尼僧は怪訝そうな顔をしつつもお待ちくださいと言い置いて中に戻っていった。


「初めて見る顔ですね」


「俺も初めて会いました。師太のお弟子様でしょうか」


 簫無唱と九珠が言葉を交わしていると再び門が開き、今度は清儀がにっこり笑って現れた。


「お久しぶりです、簫殿、それに律施主も。さ、どうぞ中へお入りくださいな」


 清儀は二人を案内する道すがら、簫無唱にこの一年のことをあれこれ聞いていた。九珠が来てからというもの、町や寺への使いは全て九珠に任せきりで簫無唱はほとんど庵から出ていなかったからだ。それにしても、簫無唱の静けさは清儀と話しているといよいよ浮き彫りになる。まるで雪の積もった竹林と静寂を溶かす春風だと、清儀の柔らかな笑い声を聞きながら九珠は思った。

 通された講堂では、先の若い尼僧が茶を淹れて待っていた。清儀が使い走りを頼むと、彼女はいそいそと出ていった——通りすぎざまにちらりと盗み見られたのを感じながら九珠は腰を下ろした。


「すみませんねえ、あの子はまだここに来て日が浅いもので。まだ不慣れなのですよ」


 苦笑する清儀に九珠はとんでもないと手を振った。普段男が立ち入る空間でもないのだから当然だ。


「お弟子様ですか」


 簫無唱が尋ねると、清儀は大きく頷いた。


「ええ。それも有難いことに峨眉の総本山から来てくれましてねえ」


「そうでしたか。ここはあちらとも勝手が違うでしょうし、きっと良い経験になるでしょうね」


「ええ、本当に。律施主のようによく学んでもらわないと」


 おどけた口調で笑う清儀に、簫無唱も口の端をわずかに持ち上げた。その後も世間話を続ける二人を、九珠は茶をちびちび飲みながら聞いていた。こんなにも朗らかに話す――とはいえ清儀に比べたら随分静かで口数も少ないのだが――簫無唱は初めて見た気がする。最近は笑顔を見ることもあったが、やはり相手が清儀だからこそ感じられる安心感があるのだろうと九珠は思った。


「……ああ、すみません。私たちだけですっかり話し込んでしまいました」


「いえ、お気になさらず」


 ふとこちらを向いた清儀に、九珠は大丈夫だと手を振った。


「私が忍耐を教えましたから、きっとこのくらい何ともないでしょう。寂寧庵に来たばかりの頃と比べると随分落ち着いたものです」


 簫無唱はそう言うと、九珠を見てふっと笑みを見せた。どきりとして居住まいを正した九珠に、「しかし、」と簫無唱は言葉を続ける。


「自分は関わり得ない話を聞き続けるというのもあまり良いことではないでしょう。どうですか、少し町を散策してきては? ここ一年、庵の仕事と剣の稽古ばかりで休みもなかったことですし。最近は悩み事もあるようですし、違う空気を吸うことも重要でしょう」


「よろしいのですか?」


 目を丸くする九珠に、簫無唱は柔らかく頷いた。


「ええ。特別に許可しましょう」


「ありがとうございます、師父」


 九珠は深々と頭を下げると、清儀に一礼して寺を出た。若い尼僧はまだ戻っていなかった。



***


 

 この一年で九珠はすっかり町にも溶け込んでいた。顔を見れば挨拶を交わし、他愛のない話に相槌を打って別れるだけの関係という、父と兄と剣しか知らなかった九珠にとっては初めての世界がこの町には広がっている。市をぶらつき、茶の屋台の店主と言葉を交わしながらふとあたりを見回すと、例の尼僧がこちらをじっと見ているのと目が合った。尼僧はぱっと視線を逸らすと慌てて通りを去っていった――店主は笑いながら尼僧を見送ると、九珠を軽く肘で小突いてささやいた。


「出家してても根は女子ですなあ。だが俺だって、もし自分があれくらいの娘っ子で、家の近くで律さんみたいな偉丈夫にばったり会ったら間違いなくじろじろ見ちまいますね」


「そういうものなのか?」


 首をかしげる九珠をからかうように、店主は「またまた!」と声を上げて笑う。


清丈せいじょうさんだって年頃の娘さんですよ? いくら小さいうちからお寺で修行してたって、若くて顔の良い男がいたら気になるに決まってるじゃないですかあ!」


 どうやらあの尼僧は清丈というらしい。九珠があいまいに頷いて相槌を打つと、店主は


「文句なしの好青年が、どうしてこう鈍いかなあ」


 と聞こえよがしに呟いて頭を掻いた。


「……だが、俺はそんな良いものじゃない」


 ぼそりと言った九珠に、店主は「またまた」と笑みを浮かべる。


「その様子じゃご存知ないかもしれないですけど、現に岐泉鎮の若い娘っ子は皆、月に一回律さんが市に来る日を楽しみにしてるんですからね? 世に出れば英雄好漢間違いなしですよ!」



 店主と別れたあと、九珠はぶらぶらと市を散策した。顔見知りの人々が右に左に通り過ぎる中に混じって歩を進め、互いに挨拶を交わし、時折世間話に応じてすぐに別れるだけの時間――平和だった。江湖に身を置きながらこんなに静かな時間を持てるとは、きっと昔の自分は想像すらしなかっただろう。


「律さん!」


 遠くからの声に首を巡らせると、饅頭の屋台で若い娘が飛び跳ねるように手を振っている。九珠は先ほどの話を思い出して気まずくなりながらも、手を挙げて彼女に応えてやった。


「律さん律さん、出来立てがあるんだけど食べる?」


「では頂こう」


 せっかくの好意だからと快く屋台に歩み寄れば、娘は嬉しそうに湯気を立てる饅頭を包み紙に入れ始めた。


「そうだ、甘いのも作ってみたの。律さん甘いものはお好き? 今日は父さんが一人で店番して良いって言ってくれたから、試しに作ったんだけど……」


 娘は包んだ饅頭を渡すそばから別の蒸籠に気を取られ始める。その様子を見ていると、茶の屋台でのやり取りがますます九珠を刺した。針が軽く肌を刺すようなものだが、それがかえって居心地悪く感じられる。


「ありがとう、しゅう姑娘グーニャン。せっかくだからそれも頂こう」


 ひとまず礼を述べて小銭を追加すると、娘は笑顔を弾けさせ、踊るように蒸籠に飛びついた。通りすがりの人々が何事かと首を傾げるほどの勢いに、九珠は胸中で苦笑した――今まで気にしたことがなかったが、どうやら彼女は本気で九珠に入れ込んでいるらしい。先の店主の話が本当だとすると、この周家の一人娘以外にも熱を上げている女子がいるのだろう。食べて食べてと急かされるままに熱々の饅頭を頬張ると、煮詰められすぎてかなり甘くなっている紅豆餡あんこがぼとぼと落ちてきた。


「どう? 美味しい?」


 熱々の饅頭と格闘している九珠をよそに、周姑娘は満面の喜色で聞いてくる。目を白黒させながら頷き、ふと目線を逸らせた九珠は、見慣れた景色の中に見知らぬ影を二つ見つけた。


 二人は笠を目深に被り、えらく顔を近づけて話し込んでいる。顔まではよく見えなかったが、ただの旅人ではないと勘が告げていた。指についた餡を舐め取りながら、九珠は二人の様子を注視した。そして案の定、九珠が視線を屋台に戻した矢先、二人組は人の流れを割りながらこちらに向かって歩いてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る