勝負

「いらっしゃい、お兄さんたち」


 周姑娘が朗らかに声をかける。九珠は屋台を向いたまま横にずれ、急いで饅頭を平らげた。


「姑娘、聞きたいことがある」


 一人が嗄れた声で切り出す。その声を聞いた途端、九珠の胸がドクンと跳ねた。

 この声の主は知っている。そして今振り返れば確実にまずいことになる――少なくとも周姑娘を巻き込むことだけは避けなければならない。饅頭をゆっくり飲み下しながら、九珠は密かに背後を窺った。


「何でしょう?」


 周姑娘が聞き返すと、もう一人が「人だ」とつっけんどんに答える。


「我々は人を探している。ちょうどここの小兄弟と同じぐらいの背格好の若い男だ」


 心臓がもう一度、かなり嫌な跳ね方をした。この一年間、修行に打ち込んで考えないようにしていたことが現実になってしまった。


「そうですか。その方のお名前は……」


「律九珠。……俺を連れ戻しに来たんだろう。六哥、七哥」


 九珠はついに耐えられなくなり、振り向いて二人組と対峙した。覗き込んだ笠の下は、紛れもなく九珠と世界の中心をともにしていた兄の顔だ。


「そうだ。久しいな、九弟」


 溌剌とした目元を貫く傷跡に鬱屈とした空気をまとわせて七番目の兄が答えた。傷跡こそないものの、横に立つ六番目の兄も同じ目をして律九珠をじっと見つめている。


「剣はどこにやった?」


 その兄の、高圧的ともとれる声音。この一年すっかり忘れていた律家の空気を九珠は唐突に思い出した。


「置いてきた」


「手放したか、この恩知らず」


 吐き捨てるような口調に、殴りつけられたような衝撃を覚える。九珠はぐわりと湧き立つ怒りを必死で抑え込んだ。


「だからどうした。もう俺には家に戻る理由がない」


「何故だ?」


「俺も失敗したからだ。律家にとって無用な人間に成り下がった」


 一年前は屈辱で仕方なかった事実がするりと口を突いて出る。しかし、この二人の兄たちの中では、それが未だに心の奥底にこびりついてくすぶっていた。だからこそ九珠はそれを声に出して言った。そして予想したとおり、二人の兄は形相を一変させて末の弟を睨みつけた。

 九珠は屋台の前に立ちはだかり、周姑娘に離れるよう手で示した。彼女が素直に後退するのを視界の端に捉えつつ、九珠は全神経を二人の兄に集中させた。

 案の定、二人は九珠の言葉に顔を歪ませた。空気が張り詰め、皆が一触即発を予感する中、七番目の兄が九珠の胸ぐらを乱暴に掴んだ。


「お前……! お前の剣才を磨くために、父上がどれだけの犠牲を払ったと思っている! 父上は律家の血が絶える覚悟でお前に剣を取らせたというのに、その思いを裏切るというのか!」


 兄の言葉を聞いた途端、九珠は頭を殴られたような心地がした。青ざめた弟にしめたと思ったのか、六番目の兄も加勢する。


「七弟の言う通りだ。父上がお前にどれだけの期待をかけていたか分かっているのか? お前が女の体に煩わされることなく剣に全力を注げるよう、父上はあらゆる手を尽くしたというのに」


「やめろ!」


 九珠は一声叫んで兄の手を振り払った。弾みで屋台にぶつかり、道具がガチャンと音を立てる。真っ白になった頭に、誰かが息を呑む音がやけに大きく聞こえた。


「それに、聞いた話ではこの一年間、お前は親の恩も忘れて尼寺で寝起きしていたそうじゃないか。父上の寄せる全ての期待とお前のために払われた全ての犠牲に応えると言った、あの言葉はどうなった? 律家のために全てを捧げると誓ったのに、お前は約束を違えるばかりか、俺たちが捨てたものまで無碍にするつもりか?」


 今や三人を取り囲むように野次馬が集まっていた。兄たちの視線が、周囲の視線が、ささやく声が、鋭い針のように全身に突き刺さる。さらに悪いことに、群衆の中に清丈の姿が見えた――愕然と目を見開いていた彼女は、視線が合うなり人混みをかき分けて姿を消してしまった。そして彼女の行く先と言えば一つしかない。

 困り果てた九珠は震える息を吐き出して兄たちに向き直った。だが、どうにかしてこの場を乗り切らなければならないというのに、思考が痺れて何も考えられない。


「……六哥、七哥。俺に何の用だ」


 とりあえず問いかけたが、その声は覚悟していたよりもずっと弱々しく、頼りなく震えていた。


「聞いてどうする。お前を律家に連れて帰る以外に俺たちの出る幕があるか?」


「あの家にはもう俺の居場所はない」


「ないな。だが父上が藁にもすがる思いで育てたお前のことだ。特別に温情をかけてもらえるかもしれんぞ」


「それに、お前には父上に従うより他に道がないだろう。嫁ぐことも娶ることもできないお前に、他の選択ができるとでも?」


 嘲るような兄の言葉に、九珠は即座にかみついた。


「ある。俺には師父が」


「師父? いつ父上以外の師を持った? ああ、もしかして尼寺の連中か」


 七番目の兄の傷跡が意地悪く歪む。律九珠はぐっと拳を握って怒りをこらえた。限界に近い頭には「手を出すな」という意志だけが辛うじて虚に浮かんでいる。


「たしかに尼寺は良い行き先かもしれんな。事情さえ言えば、お前のような者でも受け入れてはくれるだろう。お前が上手く馴染めるとも思えんがな。寺の門番でもしながら枯れていくのが関の山――」


 六番目の兄が嘲笑したが、彼が最後まで言い終わることはなかった。

 ゴッ、と鈍い音がすると同時に、彼は鼻血を噴きながら後ろ向きに倒れ込んだ。


 群衆がどよめき、一斉に後ずさる。その輪の中心で、九珠は血のついた拳を真っ直ぐ前に伸ばして立っていた。


「黙れ」


 低い声で唸る九珠に、七番目の兄がじりじりと距離を取る。睨み合う二人が次の行動に出る前に、倒れていた六番目の兄が飛び起きて末の弟に殴りかかった。


「六哥!」


 一つ下の弟の叫びも無視して、伸びた拳が九珠に向かう。九珠は片脚を引いて避けると、その腕を掴んで反撃に出た。兄も負けじと掌を返し、二人は一手でも先に相手の隙を突こうと熾烈な攻防を始める。


 もはや兄妹は語り合う言葉を持たなかった。

 九珠の拳は離反の宣言だった。このまま力で押し通し、勝てば自由、負ければ地獄の賭けに出たのだ。

 負けて帰ってきた兄たちがどうなったか、九珠は鮮明に覚えている。一番目から八番目まで誰一人として無事で済んだ者はいない。虫の息になるまで殴られる上、少しでも嫌がったりやり直しを乞うたら追加で拳骨が飛んでくる。事実、七番目の兄はそのときに負った傷のせいで今も片目がよく見えていない。瞼が裂けた跡もそう簡単に消えてはくれず、烙印のように残り続けている。それでも剣以外にやることもない兄弟は、捻れた執念を抱いて再び剣を手に取ることしかできないのだ。

 簫無唱に負けたとき、九珠は人生の断絶を悟った――どんな秘密を抱えていようと剣の腕さえ立てば江湖ではまず生きていけるが、そこから弾かれたら九珠はどうすることもできないからだ。


 兄が言ったことは事実だった。律家には元々九男はいない。いたのは家族で唯一の女児――女でありながら誰よりも剣の才能に恵まれた少女だったのだ。しかし、律峰戒は娘の才能を見て取るや、家から少女を消し去った。息子たちに九珠を弟として扱わせたばかりか、少女が少女たる所以をも消してしまったのだ。


 ついに兄たちが剣を抜き、九珠は二人を空手でいなす。唸りを上げて飛び交う剣の中で九珠は考えた――二人を殺すことはない。力の差さえ分からせて、家族と縁を切ると伝えればそれで済む。父の言葉に逆らってでも敗北の泥沼から這い上がった己と、そのまま泥沼に沈んでしまった二人との差を見せつけてやればそれでいい。

 

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