出立

 律家の兄弟は全員律白剣譜りつはくけんふを使う。次々と繰り出される招式を受け、流し、避け、また自らも攻め込むことは兄妹にとって息をするようなものだ。だが、常に剣と剣で行っていたそれを九珠は空手でやってのけた。二人の兄は剣を持たずに律白剣譜を使うに目を白黒させている。剣先が早くもぶれる様子に九珠は確信した——今、自分は彼らを圧倒できている。冷静な思考さえ保ち続ければ負けることはない。


 兄たちは顔を見合わせることもなく、一様に剣を構えて腰を落とす。同じ招式だと九珠にはすぐに分かった――ならば対する手はこれしかない。九珠は二人が地を蹴って刺突を送ると同時に迫り来る切っ先に身を投じた。群衆がどよめき、二人の兄がぎょっと目を見開く。この躊躇で剣先が一様にぶれた瞬間を九珠は逃さなかった。右手の剣指で片方の刃を挟み、同時に半身を翻してもう片方の攻撃をかわす。平衡の崩れた背中を左の手刀で打ち、剣を制した指先に内力を集めて手首をひねると、パキンという音とともに指に痛みが走った――放たれた衝撃に乗って後退すると、地面にぼたぼたと赤い軌道が描かれる。痛みに顔をしかめる隙もあればこそ、今度は手刀で倒した方が起き上がって襲いかかってきた。首筋を狙った横なぎの一撃を九珠はのけぞって避け、続く数手を流して左手で兄の胸を打つ。衝撃を利用してもう一度距離を取り、次の一手に備える。兄がぐっと剣を引いて構える間に九珠は血の滴る剣指を掲げて足を引き、二人は同時に地を蹴って相手に突進した。律九珠の指先に集まる内功が血の赤をまとって凝結し、一筋の剣となって襲いかかる。


 その刹那、正面にとらえた兄の目が据わり、剣が横たえられた。


 驚いた律九珠が勢いを緩めようとしたのもつかの間、真っ赤な剣指はそのまま刃にぶつかり、剣気は鋼鉄を突き抜けて兄の胸部をまともに貫いた――



「律九珠!」



 簫無唱が叫ぶ声がした。その瞬間、周囲の音が九珠を包み込む。


 周囲を埋め尽くす騒ぎは恐慌か、非難か、それとも心配の声なのか。


 我に返ると、目の前にいたのは倒れ伏す兄ではなく簫無唱だった。鮮血のしたたる剣指は簫無唱によってしっかり押さえられ、軌道を逸らされていた。その先の地面には小さく抉れた穴が空いている。

 唖然としていると、別の影が飛び出してきて二人の兄の穴道を突いた。途端にカランと音がして、二人は一様に驚きの色を浮かべながら剣を取り落とした。


「師太」


 簫無唱が頷く。いつの間に現れたのか、彼女の背後には清義が控えていた。普段の温厚な笑顔からは思いもよらない素早い身のこなしだ。


「間一髪でしたねえ。お手柄です、清丈」


 清義がいつものようににこりと笑う。彼女の視線の先には緊張した面持ちの清丈が立っていた。


「清丈尼姑が寺に来て、あなたが大変な目に遭っていると教えてくれたのです。大事になる前にと思って急いで駆けつけたのですが……」


 簫無唱はそこで言葉を切ると、後ろで立ちつくしている律兄弟を一瞥した。


「本当に間一髪でした。あの一撃を食らえば只事では済みませんでしたよ」


 簫無唱の鋭い視線が九珠を貫いた。静かな叱責だったが、そこには九珠が今まで見たことのない怒りが滲み出ていた。


「……すみません」


 九珠は掠れ声で謝った。剣指はとっくに力を失ってだらりと垂れている。


「誰だ、お前」


 六番目の兄が唸るように問うた。簫無唱はすっと片足を引いて振り返ると、


「この子の師です」


 と氷のように冷たい声で答えた。


「するとお前が俺たちの弟をたぶらかしたんだな?」


 七番目の兄も声を荒げる。しかし簫無唱は顔色ひとつ変えずにすらりと答えた。


「九珠が剣であなた方を凌駕することをたぶらかすと言うのであれば、そういうことになるでしょう」


「ほざけ!」


 七番目の兄は一声怒鳴ると、地面の剣を蹴り上げ動く腕で取った。六番目の兄も同じように剣を構え直すが、二人とも利き腕は封じられたままだ。


「九珠、俺たちと来い。父上がどれだけお前を探したと思っている」


「そうだ。お前のいるべき場所はここではないし、ましてやお前がこの女どもに教わることはひとつもない」


 兄たちは簫無唱に剣を向けたまま九珠に向かって言った。遠巻きに見守る岐泉鎮の人々は一斉に眉をひそめ、口々にささやき合っている。


「まあ、なんて言い方。こんなのが律さんの兄弟だなんて信じられないわ」


「簫さんが教えた律さんに実力で負けたのに、なんて往生際の悪い」


「律さんは家出して正解だったんだ。こいつらどう考えてもおかしいぞ」


 九珠はそんな野次馬と二人の兄、そして清義と簫無唱を順番に見比べた。

 皆、様々な目で九珠を見ている。野次馬たちは傍観者だからこその同情の眼差しを、兄たちは暗く濁った焦燥の眼差しを九珠に向け、一方の清義は信頼と応援のこもった温かい目で九珠を見ている。


 そして簫無唱は、こんなときでも静かに九珠を見つめていた。凪いだ湖面のような眼差しが九珠をまっすぐに貫いている。


 簫無唱は九珠を見据えたままゆっくり頷いた。その途端、出会ってすぐに交わした言葉が九珠の脳裏に閃いた。同時に、簫無唱の意図が読めた気がした――彼女は九珠の行く道を制限することはしない。九珠が兄について家に帰っても、このまま己の剣の道を探し求めても、ここでどんな選択をしようと簫無唱が否定することはないのだ。


「俺……私は」


 九珠は貼りついた喉を引き剥がすように口を開いた。


「私は、もう律の名は名乗らない。兄妹の縁もここまでだ。父上……律峰戒によろしく伝えてくれ」


 そうと心に決めると、滑るように言葉が出てきた。九珠は乾いた血で赤茶けた片手をもう片方の手に重ね、胸の前に掲げて深々と一礼した。

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