第二章:鄷都関

襲撃

 日の光が鬱蒼と茂る木々に燦々と降り注ぐ。しかし、この朗らかな木漏れ日の中を行くのは決して平和ではない一行だった。


 大きな荷車に、それを取り囲む十人ほどの男たち。皆上背があり筋骨隆々で、背中には各々得意とする得物を担いでいる――岐泉鎮から馬を走らせて十里の街に拠点を置く鏢師たちだ。その中に一人ぽつんと混じって、九珠は周囲の木々の間に目を光らせていた。


 この道は鏢師たちにとって慣れた山道だったが、今日は誰もが気を張って周囲に警戒の目線を送っている。九珠がこの隊列に加わっているのも、この辺りで鏢師を狙った襲撃がひどくなっているという話を聞きつけたからだった。随一の手練れを集めても一人残らず殺されてしまい、しかし不思議なことに荷物は一切手を付けられず、荷車に積まれたままそっくり送り返されるのだ――その車を守っていた鏢師たちの首とともに。

 さらにこの山道は迂回路もなく、逃げられない死を恐れる鏢師たちから「鄷都関ほうとかん」と呼ばれるようになった。鄷都とはすなわち地獄の意、鏢師たちはこの名を怖々と口にしては、どうか冥府の鬼卒たちが自分たちを見逃してくれますようにと無力な祈りを捧げるのだった。



 律家が九珠の居場所を見つけ、岐泉鎮に押しかけてから半月ほどが経つ。この半月で九珠は岐泉鎮を離れ、簫無唱から譲り受けた簫の姓とともに再び江湖に足を踏み入れていた。

 とはいえ、今の九珠は己の強さを誇示する必要には駆られていない。辻斬りの代わりに人助けをすることにしたしょう九珠きゅうじゅは、ある村では悪徳官吏に鉄拳を食らわせ、また別の町では夜な夜な現れる盗賊を一掃した。そして商家の夫婦に誘拐された末娘を救うべく頼まれた九珠は、そこで鏢師たちへの襲撃を聞きつけたのだ。今やどこの鏢局でも腕の立つ護衛を探していると聞いた九珠は、絶好の腕試しだと名乗りを上げたというわけだ。


 辻斬りの青年剣客「律九珠」は多少名の知れた存在ではあったが、その名を轟かすことは叶わなかった。おまけに一年も姿を消していたから、今では名前を覚えられているかどうかも怪しい。しかし、この状況は簫無唱に言わせれば絶好の機会だった。もし辻斬りで「律」の名が広まりきっていたら、姓が変わったところで良い影響はもたらさない。だが今の九珠は剣客としてはまっさらな状態だ――新たな名で新しい一歩を踏み出し、選んだ道を歩み続けるには逆にこれで良かったと簫無唱は言った。


「或いは、もしも九珠という名があなたにとって忌まわしいものならば、全く新しい名を名乗っても良いでしょう。腕さえ立てば、ある程度の嘘や偽りは見逃してもらえるのが江湖ですから」


 簫無唱はこう言いながら、何かを思い出すように遠くを見ていた。


「江湖においては腕が立つことが一番の正義です——腕さえ立てば、その人が男か女かなどということは案外どうでもいいものです」


 初めて見る簫無唱の様子に九珠は首を傾げたが、九珠が何か言う前に簫無唱は元の凪に戻ってしまった。追及すべきではないとぼんやり悟ると、九珠は質問を変えて一番気になっていたことを尋ねることにした。


「師父はいつ私の正体に気付いたのですか?」


「一番最初にあなたを寂寧庵に入れたときです」


 簫無唱の答えに、九珠は少し思考を巡らせた――合点がいった途端、このことに気付いていなかった自分が恥ずかしく思えてきた。そもそもこの一年半の間に九珠の身体に触り得たのは簫無唱しかいないのだ。


「……清義師太はこのことをご存知なのですか?」


 九珠が尋ねると、簫無唱はすっと頷いた。


「ええ。あなたを最初に念安寺に訪わせたときに持たせた手紙に全て書いていましたから。彼女は噂に惑わされることのない人物ですし、むやみやたらに聞き知ったことを言いふらすこともしない。寂寧庵が念安寺の所有ということもありますが、何より彼女ならあなたの第二の風避けとなってくれると思い」


 それを聞いて九珠はぽかんとしてしまった。吹き付ける風は自分で防げというのが律峰戒の考えで、誰かが守ってくれるなど思ったこともなかったからだ。



 江湖に出ることを決めたのは、誰のためでもなく自分のために腕試しをしたくなったからだった。簫無唱から教わった剣法で初めて人を圧倒したことで、辻斬りのときに覚えた手応えが蘇ったのだ。簫無唱はそのことも否定はしなかったが、旅立ちの日になって九珠がずっと抜けずにいる折れた剣を渡してきた。


 理由は聞かなかったが、その剣は今、九珠の背に渡されている。それなのに素手でばかり戦う九珠に鏢師たちは不思議そうな素振りを隠さなかったが、集まった侠客の中で圧倒的な強さを見せた九珠には誰も何も聞かなかった。慣れた格好に慣れた嘘――しかし強さがあれば追求されることもなく、多少体付きが小さくても誰も何も言わない。


 ただ一人、九珠とともに隊列を守っている剣客の朱雲秀しゅうんしゅうだけはあからさまに怪訝な顔であれこれ文句を言っていた。


「全く、剣を抜かない剣客なんて客を取らない妓女みたいなもんだ。若いうちから捻くれてたんじゃろくな使い手になれないぞ」


 九珠は荷車の向こうの朱雲秀にちらりと目線をくれただけで何も返さなかった。最初のうちは受け答えしていたが、こう何度もしつこく言われると言い返す気も失せてくる。間に入ってくれていた鏢師たちも今やすっかり諦めて、車輪の音と十数人分の足音を黙々と響かせるだけだ。


「まったく口ばかりよく回る奴だ。剣そのものを抜かずとも、簫兄弟の武功にはちゃんと剣が息づいておろう」


 唯一言い返す気力が残っているのは鏢師の頭の秦亮しんりょうだった。厳しい顔の矍鑠とした老人で、衰え知らずの剛腕が振るう長槍はまさしく一騎当千だ。


「我々が気にすべきはどこに潜んでいるともしれぬ獄卒どもだろう。この老秦、無駄話であたら命を散らすほど朦朧してはおらんぞ」


 秦亮はそう言うと朱雲秀をひと睨みした。その眼光の鋭さに朱雲秀のみならず全員が首をすくめる――九珠も少なからずたじろいだが、兎にも角にも庇い立てしてもらったのだからと礼を口にしかけた。


 そのとき、突然空を切る音がした。全員が顔色を変えると同時に最後尾にいた鏢師がわっと叫んで倒れ伏す。九珠たちが振り返ったときには、彼は胸から矢を生やして息絶えていた。

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