秘密

 案内されるままに連れて行かれたのは、問剣会の客人たちが集まる区画とは別の方向だった。浮き足立った喧騒から離れたこの場所は建物の雰囲気もどこか落ち着いており、鄧令伯自身の個人的な居住空間なのではないかと思ってしまうほどだ。

 下僕頭はある部屋の前で立ち止まると、九珠には少し待つよう言って戸を叩いた。


「鄧大爺。簫先生をお連れしました」


 声に応じてガタガタと立ち上がるような物音がする。ややあってから扉が開かれ、いつものように快い笑顔を浮かべた鄧令伯が二人を出迎えた。


「ご苦労。下がって良いぞ」


 鄧令伯は後手に扉を閉めながら下僕頭に軽く頷いて、九珠に向き直った。


「簫殿、突然呼び出して申し訳ございません。実は……」


 鄧令伯はそこで言葉を切り、困り眉を作った顔をちらりと室内に向ける。うっすらと嫌な予感を抱いていた九珠は、その仕草に言いようもなく背筋が粟立つのを感じた。


「今朝方、貴方の父親だという方が見えたのです。とはいえかなり錯乱されているようでして、正直なところ話が通じなくて……会のこともあったので、諸々落ち着くまでこちらの離れで休んでいただいておりました」


 鄧令伯は声を落として早口に言う。きっと話が通じないから、今日の催しが落ち着いた頃合いを見計らって九珠に真偽を見極めてもらうつもりだったのだろう。


「……つまり、私がその男と会えば良いのですか」


 九珠は念を押すように尋ねた。心臓が早鐘を打ち、今にも飛び出してしまいそうだ。


「ええ。私としても面倒事を押し付けるようで心苦しいのですが……」


 鄧令伯がため息をつく。その瞬間、九珠の中で何かが吹っ切れた。

 たしかにこの男は商人だ——九珠を男と会わせるために、ここぞというときに下手に出た。だからこそ、ここで流されるわけにはいかない。


「鄧先生。事情は分かりました」


 九珠は重たい首を縦に動かした。鄧令伯の顔がにわかに晴れたが、九珠は意を決してこう告げた。


「ですが私に父はありません。大方その男が人違いをしているのでしょう」


 言い切った途端、耳元でドクンと脈が打った。己の中を巡る血の音が突然うるさく感じる。誰のことでもないのに、誰かを裏切ったような妙な罪悪感が波紋のように胸の中で広がっていく。

 一方の鄧令伯は、まさか九珠が断るとは思っていなかったのだろう。一瞬ぽかんとしたものの、すぐに取り繕うような苦笑いを浮かべた。


「そ、それはとんだ失礼を……」


「いえ、どうか気にしないでください。では私はこれで」


 とにかくこれ以上の長居は御免だった。九珠はもう取り合わないとさっさと告げて踵を返した。


 そのとき、背後でガタンと扉が開いた。九珠は思わず立ち止まったが、すぐに気を取り直してもう一歩踏み出した——


「九珠」


 低く地を這う、獣のような声。その声を聞いた途端、心臓を握り締められたような心地がした。


「どこに行ったかと思えば、有象無象とつるみやがって。俺がお前を育てたのは、世の馬鹿どもとしょうもない付き合いをさせるためだとでも思っているのか?」


 声がだんだん近付いてくる。ここにいてはいけない、早く立ち去らないとと思うものの、足が床に貼り付いたように動くことができない。やがて声の主は九珠の真後ろに立つと、肩を掴んで強引に振り向かせた。


 九珠の前に立っていたのは、かつて九珠を囲っていた鬼——逃げ出したとばかり思っていた呪縛の主、律峰戒りつほうかいだった。


 律峰戒は最後に見たときよりもひどい外見だった。髭と髪は伸び放題、髷も結ってはいるが、櫛を入れていないせいで溢れた髪が顔の周りを覆っている。痩けた身体に擦り切れた衣、暗がりから爛々と光る双眸だけが異様な生気を放っている。その目に射抜かれた途端、九珠は全身から血の気が引くのを感じた。


「帰るぞ。その腐り切った根性を一から叩き直してくれる」


 律峰戒は言うが早いが九珠の手首をがっちり掴んだ。九珠は反射的に手首をひねって拘束を逃れたが、自由になった途端に顔面に衝撃を受けた。首が捻じ切れそうなほどの強さに立っていることすらできず、九珠は叩かれるままに倒れ込んだ。


「何をしている!」


 鄧令伯の悲鳴じみた制止が聞こえたが、律峰戒はフンと鼻を鳴らしただけだった。動けない九珠の襟首を掴んで引きずり上げ、飢えた虎のような目線を鄧令伯にくれる。


「これは俺の娘だ。俺がどうしようと俺の勝手だろうが」


 律峰戒は底冷えのする声で唸ると、今度は九珠の腹に拳を叩き込む。続けて二回、三回と、律峰戒は罵倒とともに力の限りに九珠を殴った。


「この——裏切り者——勝手に家を——出やがって——」


 痛みと衝撃で息が詰まり、押し付けられる恐怖で目の前が真っ暗になる。なんとか抗おうと腕を掴んだものの、振りほどかれて余計にきつい一発を頬に食らう羽目になった。堪えきれず地面に倒れ込んでも、律峰戒はまだ足りないとばかりに九珠を蹴り始めた。九珠は残り少ない力をかき集め、動かない体をどうにか丸めて耐えることしかできない。どんなに実力があって、どれだけ新しい自分が馴染んでいても、律峰戒という闇の前では九珠は非力だった——燃え尽きてなくなる蝋燭の光のように、なす術もなく狼に貪られる兎のように、蹂躙される運命に従う他ないのだ。


「もうたくさんだ! 止めろ! 死にかけているじゃないか!」


「死んで結構——これしきのことに——耐えられぬ者など——俺の剣には相応しくない!」


 鄧令伯が必死に止めようと声を上げるが、律峰戒は全く耳を貸さない。ところが、鄧令伯が雄叫びを上げたかと思うと、ふいに拳骨の雨がぴたりと止んだ。

 九珠は恐る恐る体を緩めて首を巡らせた。見ると、少し離れた地面で律峰戒と鄧令伯が揉み合っている。焦点の合わない視界で見ていると、押され気味だった鄧令伯がにわかに持ち直し、そればかりか軽々とと体を翻して律峰戒を押さえ込んでしまった。


「貴様の剣だと? 彼は貴様如きが従えられる剣客ではないぞ! 彼の剣こそは李玉霞の剣、疑うなら我が屋敷にいる全員に聞いてみるが良い!」


 ドスの効いた声で鄧令伯が凄む。その文言は真っ当なように聞こえたが、九珠は首を傾げずにはいられなかった。


 ——私の剣が、李玉霞の剣……?


 言葉にできない疑問が頭の中を駆け巡る。しかし、弱り切った体では口を挟めるはずもなく、鄧令伯が唾を飛ばして語る内容をただ聞いていることしかできない。


「痴れ者め、貴様も剣客の端くれならば、全盛期の李玉霞を思わせる剣客が活躍していることぐらい小耳に挟んでいるだろう。彼こそがその剣客だ、しかもその剣は李玉霞そのもの——彼女の生まれ変わりと言っても過言ではない! まさしく江湖剣界の至宝だ!」


「この阿呆が、貴様こそ俺の言ったことを聞いていたのか? あれは男ではない、紛れもない女だ」


 律峰戒が刺々しく言うと、鄧令伯は我に返ったようにぽかんと口を開けた。追い討ちをかけるように律峰戒が言う。


「あれが男のように見えるのは、剣の道を大成させるために俺がそうさせたからだ。あれが女であるせいで李玉霞のように失墜するなら、女である必要などないからな——ッハ、あれはたしかに女だが、『紛れもない』女ではなかったな。あれには女たる器がない。あれを失墜させぬために俺が前もって捨ててやった」

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