鄧令伯

 鄧令伯とうれいはくは一人残った使用人と何やら話し込んでいたが、九珠たちが立ち止まるとくるりと振り向いた。


「なんと、これはこれは! 三尺掃塵さんじゃくそうじん常秋水じょうしゅうすい殿に、五招妙手ごしょうみょうしゅ知廃生ちはいせい殿ではないですか! 出迎えが遅れてまことに申し訳ない!」


 鄧令伯は知廃生と常秋水を認めるなり、ぱっと顔を輝かせた。次いで九珠と飛雕にも目線を走らせたかと思うと、分かりやすく困惑の表情を浮かべて顔を曇らせる。


「それから、後ろのお二方は……」


「道中で出会った友人です。簫九珠と飛雕と言いまして……鄧殿は、鄷都関の件はご存知ですかな?」


 知廃生がこれまた人好きのする声音で答える。鄧令伯は男らしい眉をひそめて怪訝そうに頷いた。


「もちろん、話には聞いておりますが。もしやこの若い二人が、鄷都関の変を解決したという簫と飛ですか⁉」


 ハッと目を見開く鄧令伯に、九珠と飛雕はそれぞれ拱手の礼をした。知廃生が全員で屋敷に入ろうとしている手前、下手な動きはできない。


「いかにも私たちが、鄷都関にて悪党どもを一掃した簫と飛でございます。私が簫、名は九珠」


「それから俺が飛雕です。鄧殿にはお初にお目にかかります」


 名乗ってから顔を上げると、すっかり感心している鄧令伯と目が合った。どうやら彼が江湖のことに興味があるというのは本当で、それも並大抵のものではないらしい。


「こちらこそ、近頃噂の若い才能にまで来ていただけるとは願ったり叶ったりですよ。しかし……」


 鄧令伯の目がすっと細められた――この男、中年ながら活気のある顔をしているが、それでいてひとつひとつの仕草がどうにも読めない。九珠は次に来る言葉を予測しつつもそんなことを考えた。


「昨日新しく規則を追加したのですが、皆様方はご存知ですかな?」


 俄然冷ややかになった鄧令伯に、知廃生は全く態度を変えずに答えた。


「ええ。だからこそ、皆でこうして参った次第ですよ」


「そうですか。では、この門をくぐっていただく前に、皆様に一招ずつ披露していただきましょう」


 鄧令伯はそう言ってから、ちらりと知廃生を盗み見て、申し訳なさそうに眉を下げた。


「大変申し訳ないのですが、規則ですので、ここは知先生にも剣技を見せていただきたく……」


「ケッ、口ばっかり上手いヤツだぜ」


 車椅子の影で飛雕がぼやく。九珠はたしなめるように飛雕を一瞥すると、知廃生の横に移動した。

 知廃生は少し驚いたような、それでいて予想はしていたといった様子で腿をさすっている。九珠はそんな知廃生の隣に膝をつくと、


「できそうですか」


 とわざと声に出して尋ねた。


「ああ、少しだけなら。だが、剣なんてもう何十年も触っていないし、急なことで用意もできていなくてね。皆に借りるのも申し訳ないし……それに飛兄弟も、私と同じで用意がないのですよ」


 真横を向いて答えながら、知廃生はぱちりと片目を瞑る。九珠が頷いて立ち上がると、鄧令伯は「ああ」と声を上げて門の後ろに回り込んだ。


「それなら、こちらで一振りずつお貸ししましょう。ここでの滞在中、好きに使っていただいて構いません」


 鄧令伯が言うそばから、横に控える使用人がさっと姿を消す。鄧令伯はその後ろ姿を見送ると、気を取り直すように微笑んだ。


「では待っている間に、剣をお持ちのお二人の技を見せていただきましょう。どちらからでも構いませんよ」


 九珠はごくりと唾を飲み込んだ。背中に剣こそ渡しているが、九珠がこれを使ったのは簫無唱と戦ったときが最後なのだ。しかも今では半分に折れていて、九珠は剣を抜かないことで江湖に知られつつある。

 ところが、迷いが脳裏をよぎる一瞬の間に、常秋水が一歩前に進み出た。


「くだらん」


 九珠は思わず後ろに退いた。芝居が上手いのか本気なのか、常秋水の声に苛立ちがにじんでいる。


「剣を見たいなら見たいと言え」


 常秋水は鄧令伯を睨みつけ、言い終わる前から動き始めた。剣が鞘走り、鋭い殺気をまき散らしながら常秋水の手の中で踊る。皆が本能的に数歩後ずさる中、常秋水はヒュッと鋭く息を吐くと同時に剣を振りぬいた――剣気が放たれ、鄧令伯の頬を切り裂くすれすれを掠めて白壁に傷を残す。鄧令伯が息を飲んで飛びのいたときには、常秋水はすでに剣を鞘に仕舞っていた。


 見世物などでは断じてない、本気の一撃だった。しかも常秋水はその場から一歩も動いていない。これには鄧令伯も肝が冷えたのか、しばらく目を見開いたまま硬直していたが、やがて我に返ったように手を叩いて叫ぶように言った。


「……さすが三尺掃塵! 絶世の剣技をこの目で見ることが叶おうとは、鄧令伯一生の光栄!」


「我が剣は見世物ではない。わきまえろ」


 それだけで相手を斬り殺してしまいそうなほど険悪な目付きで、常秋水は低く唸る。どうやら本当にこのやり取りに苛立っているらしかった。


簫九珠しょうきゅうじゅ。早くしろ」


 常秋水は吐き捨てるように言うと、さっさと場を譲って知廃生の隣に落ち着いた。


 九珠は押し出されるように鄧令伯の前に立った。鄧令伯が、いつ九珠が背中の剣を抜くのかとそわそわしているのが手に取るように分かる――それに、誰かに見せるために剣を使うのは初めてだ。常秋水の感じている苛立ちを九珠は理解した。彼には苛立ちとしてのしかかっているそれが、九珠にとっては困惑として立ちはだかっている。

 だが、ここまで来たのだから仕方がない。九珠は腹を決めて一礼すると、両方の手に剣指を作って腰を低く落とした。

 鄧令伯の眉がぴくりと跳ねる。九珠は目を閉じて心を集中させると、おもむろに両手を大きく回した。そのままひととおりの流れを演じ、溜めた剣気を瓦屋根の上に向かって放つ。「有剣無名剣」の最初の技を、わざと狙いを外して演じたのだ。


 九珠が演じ終えたとき、鄧令伯は困惑しきったような面持ちで首を傾げていた。


「い、今のは……」


「私は剣を使いませんが、今お見せしたのはたしかに私が師から受け継いだ剣譜の一部です」


 九珠ははっきりと宣言した。剣を使わないのはたしかに特異だが、「有剣無名剣」も剣譜である以上剣術の動きを下敷きにしている。刀と剣の見分けがつく鄧令伯にそれが分からないわけがない。


「成る程。どうやら私の見分の狭さを思い知らせてくれたようだ」


 案の定、負けを認めるように鄧令伯は大きく頷いた。やはり商売で名を上げただけあって、退きどころはわきまえているらしい。

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